(幻っていうのがあるんだよね…)
ホントは存在していないものが見えちゃうんだよ、と小さなブルーが思ったこと。
ハーレイが寄ってはくれなかった日の夜、自分の部屋で。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
(昔話とかに、よくあるヤツで…)
立派な屋敷やお城が見えていたのに、近くに行ったら消え失せるとか。
確かに見えていた筈の人が、フッと姿を消してしまうとか。
(サイオニック・ドリームだったら、簡単に出来ることなんだけど…)
昔の人はサイオンなどは持っていないし、色々な原因があったのだろう。
疲れ果てていて幻覚を見たとか、あるいは酒に酔っていたとか。
目の錯覚ということもあるのだけれども、見た人にとっては現実と同じ。
そう、その場所にいた時には。
幻だとは気付かないまま、その人と話していた時には。
(……うーん……)
だったら、あれも幻だよね、と思い浮かんだ青い水の星。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が焦がれた地球。
(行きたいなあ、って思っていただけの頃なら、夢なんだけど…)
いつか行きたい夢の星が地球で、幻だったとは言えないだろう。
たとえ、青い地球が無かったとしても。
本物の地球は蘇っておらず、死の星のままであったとしても。
(其処へ行きたい、って夢を持ってるだけで…)
幻の地球を見てなどはいない。
何度、心に思い描いても、それは憧れの星で、目標。
シャングリラと名付けた船で宇宙を旅して、いつの日か辿り着きたい星。
青く輝く銀河のオアシス、星の海に浮かんだ一粒の真珠。
(それを目標にしてるってだけで、幻を見てはいないよね)
行こう、と夢見ているだけで。
地球に着いたら「やりたいこと」を、幾つも夢に描いたとしても。
けれども、前の自分は出会った。
青い水の星の幻に。
その星を身に抱く少女に、よりにもよって、人類の世界で。
(……フィシス……)
忌むべき機械が、無から作った生命体。
強化ガラスの水槽の中で、機械に育てられていた少女。
(…理想の指導者を作り上げるために…)
機械が作り出したものだと、前の自分は知っていた。
ミュウとは対極にある存在で、その上、ヒトと呼べるかどうか。
三十億もの塩基対を繋ぎ、DNAという鎖を紡いで、機械が作ったのだから。
(…どう考えても、ミュウの長とは…)
相容れるモノではないのだけれども、何故か惹かれた。
人工羊水の中に浮かぶ少女に。
何故、惹かれたかは今も分からない。
あれが機械の罠だったならば、きっと酷い目に遭っていたろう。
水槽に手を触れた途端に、強い電流が流れるだとか。
タイプ・ブルーでも瞬時に避けられないほど、レーザーの雨が降り注ぐとか。
(…でも、そんなことは考えもせずに…)
前の自分は、水槽に触れて少女を眺めた。
胎児のように身体を丸めて、眠っているように見える少女を。
(……そうしたら……)
少女は不意に目覚めて、水槽の中からこちらを向いた。
とても愛らしい笑みを浮かべて。
それからまるで人魚みたいに、ゆらりと揺れて近付いて来て…。
(ぼくを見たから、水槽に手をくっつけて…)
少女が重ねて来た手を通して、ハッキリと見た。
自分を彼女に惹き付けたものを。
彼女が見ていた夢の中には、青く輝く地球が在るのだ、と。
フィシスが抱いていた、青い地球の映像。
機械が植え付けた記憶の一つ。
何故なら、機械が作った少女は、外の世界を「知らない」から。
無から生まれて、水槽の中で育って来たから、外の世界を知るわけがない。
本物の地球を見た筈も無いし、明らかに彼女の記憶ではない。
(…それは分かっていたんだけれど…)
一度、彼女の青い地球を見たら、忘れることなど、もう出来なかった。
水槽越しに彼女に触れれば、いくらでも青い地球が見られる。
焦がれ続けた、青い水の星が。
まだ座標さえも掴めていなくて、いつ行けるのかも分からない星が。
(……だから、とうとう……)
前の自分は、人類の施設から、彼女を攫った。
自分の強いサイオンの一部を彼女に移して、ミュウに仕立てて。
白いシャングリラの仲間を騙して、「ミュウの仲間だ」と偽ってまで。
(…本当のことを知っていたのは…)
前のハーレイだけだった。
他の仲間には、本当のことなど言えはしないし、隠すしかない。
それでも、フィシスが欲しかった。
彼女が抱く地球を「見たかった」から。
シャングリラに連れて来て側に置いたら、いつでも地球を見られるから。
(…あの青い地球は、本物なんだと信じていたけど…)
宇宙の何処かに、あの通りの地球が存在するのだ、と前の自分は思ったけれど。
船の仲間たちも信じたけれども、実際は、それは幻だった。
青い地球など、無かったから。
前の自分が命尽きた後、白いシャングリラが長い旅の果てに辿り着いた地球。
数多の犠牲を払った末に、ようやく目にした、地球という星は…。
(…赤茶けたままで、有毒の海と砂漠に覆われていて…)
かつて人間が放棄して去った、高層ビル群の廃墟までもが残されていた。
フィシスの地球は、青かったのに。
青く輝く美しい星が、その場所には在る筈だったのに。
(…フィシスの地球は、ただの幻…)
それが脆くも崩れ去った時を、自分は知らない。
前の自分は、とうの昔に、メギドで死んでしまっていたから。
どれほどの絶望が皆を襲ったか、考えただけでも恐ろしくなる。
もしも、その場に、前の自分が居合わせたなら…。
(なんて謝ったらいいのかさえも、分からないよね…)
青い地球を目指さなければ、と言い出したのは、前の自分だから。
地球を抱くフィシスを攫った時にも、自分自身に、そう言い訳した。
「いつか地球まで辿り着くには、フィシスが抱く地球を眺めることも必要なのだ」と。
どんなデータよりも確かだと思えた、青い地球へと降りてゆく映像。
それを見たなら、自分自身を鼓舞出来るから。
「地球へ行きたい」と願う気持ちが、より強いものになってゆくから。
(……そうやって、幻の地球を追い掛け続けて……)
前の自分の地球への思いは、夢から幻へと変化したと思う。
ただ「行きたい」と夢見た頃より、気持ちは強くなったのだけれど…。
(…一つ間違えたら、幻にすっかり夢中になって…)
現実を忘れかねない状態だった、と言えないこともないかもしれない。
実際、フィシスを攫ったから。
船の仲間たちを騙してまでも、幻の地球を手に入れたから。
(…おまけに、フィシスが抱いてた地球は、ホントに幻だったんだよね…)
あの青い地球は何処にも無かったんだから、と知っている今は、胸が微かにチリリと痛む。
「前のぼくは、幻を見ていたんだ」と。
酔っ払っていたわけではなくて、幻覚などでもなかったけれど。
機械に騙されていただけのことで、仕方ないとも言えるのだけれど…。
(あんな具合に、見たいものが見えてしまうっていうのが、幻かもね)
立派なお屋敷とか、お城だとか…、と考える。
会いたいと思う人が見えるとか、そんな具合に。
人の心は弱いものだから、簡単に騙されるのかもしれない。
見たいと思う幻に。
幻なのだと気が付くまでは、その幻が現実だから。
(…今は幻、もう見えないよね)
本物の地球に来たんだから、と見回した今の自分の部屋。
夜だからカーテンが閉まっているけれど、窓の向こうに見える景色は、地球のもの。
正真正銘、青い姿に蘇った地球の。
前の自分が生きた頃には、幻だった青い水の星。
それが今では現実になって、もう幻ではなくなった。
焦がれた星に生まれて来たから、今の生では、幻を追う必要は無い。
フィシスの地球を眺めなくても、好きなだけ地球を見られるから。
青く輝く地球の姿は、宇宙からしか見られないのだけれど。
(…今のぼくは、まだ見たことが無くて…)
宇宙旅行の予定も無いから、それを見られるのは、まだ先のこと。
とはいえ、宇宙から地球を眺められる日が来た時には…。
(……ハーレイが隣にいてくれるんだよ)
ちゃんと約束したんだものね、と見詰めた小指。
今のハーレイと交わした約束、宇宙から青い地球を見ること。
もう幻ではない地球を。
今の自分が住んでいる星を、ハーレイと暮らしてゆく星を。
今度こそ、共に生きられるから。
結婚出来る年になったら、ハーレイを選んでいいのだから。
(…まだ何年も先だけど…)
その日は必ず来るんだものね、と思った所で、掠めた思考。
「まさか、幻なんかじゃないよね?」と。
そういう幻も、あるものだから。
会いたいと思う人の姿が、ありありと目の前に見える幻。
昔話にはよくある話で、その人は、確かに其処にいたのに…。
(……朝になったら、消えてしまって……)
影も形も無かったという、悲しい話を幾つか読んだ。
幻だった人の方でも、「会いたい」と願ってくれていたから、会えた話を。
とても悲しい話の場合は、幻だった人はもう、この世にはいない。
魂だけが時空を越えて、会いに来ただけ。
会いたいと願った人の許へと、幻になって。
(……今のハーレイ……)
幻だったなら、どうしよう、と背筋がゾクリと冷えた。
今の自分は前の自分の生まれ変わりで、地球に生まれて来たのだけれど…。
(…ハーレイの方は、そうじゃなくって…)
生まれ変わって来てはいなくて、幻が見えているのかも、と。
「ソルジャー・ブルー」だった頃の記憶が戻って来たというのに、一人きりだから。
何処を探しても、どんなに待っても、ハーレイは現れなかったから。
(……そんなことって……)
絶対に無いよ、と思いたいけれど、前の自分さえもが追った「幻」。
青い地球の確かな姿を見たくて、フィシスを攫って来たほどに。
船の仲間たちを欺いてまでも、地球の幻に酔っていたくて。
(…今のぼくだと、前のぼくより…)
ずっと心が弱いのだから、ハーレイの幻を作りかねない。
「本物のハーレイ」に出会えなかった悲しみで。
もう一度、ハーレイに会いたいあまりに、幻のハーレイが見える世界に閉じ籠って。
(…でも、大丈夫…)
ハーレイは、ちゃんといる筈だもの、と机の上の写真に目を遣った。
夏休みの記念に撮った写真で、庭で一番大きな木の下、ハーレイと自分が写っている。
そこまで良く出来た幻なんかは、ある筈がない。
(うん、きっと…)
ハーレイは幻なんかじゃないよ、と浮かべた笑み。
他にも色々、探せば証拠が見付かるから。
今のハーレイは「今は、此処にはいないだけ」だから。
そういう証拠も、探せば幾つも見付かるだろう。
何故なら、一緒に地球に来たから。
今度こそ二人で生きてゆけるし、青い地球だって、もう幻ではないのだから…。
幻だったなら・了
※幻について考える内に、怖くなってしまったブルー君。ハーレイ先生も幻だったなら、と。
けれど、机の上には写真。他にも色々、証拠が見付かる筈なのです。本物だという証拠v