(幻なあ…)
そういうものがあるんだっけな、とハーレイが、ふと思ったこと。
ブルーの家には寄れなかった日の夜、いつもの書斎で。
愛用のマグカップに淹れた熱いコーヒー、それを片手に。
(…ずっと昔から…)
人間が地球しか知らなかった頃から、語り継がれて来たのが「幻」。
確かに「ある」と思えていたのに、儚く消えてしまう「幻」なるもの。
「幻」と纏めて呼ばれてはいても、現れるものは色々で…。
(…人間だったり、家や泉とか…)
規模の大きなものになったら、それは立派な町だったりする。
凄いものだと、理想郷の名に相応しいような場所とか。
(なんとも不思議なモノなんだよな)
幻ってヤツは、と書斎の本棚を見回してみた。
其処に並んだ趣味の本たち、それにも沢山出て来る「幻」。
昔話や伝説などには、よくある話なものだから。
(キツネやタヌキに化かされちまって、見る幻は…)
今の時代なら、サイオニック・ドリームの類なのだと言えるだろう。
遠い昔のキツネやタヌキが、サイオンを持っていたかどうかは、ともかくとして。
(…前のあいつでも、その気になったら…)
化かせたんだ、と前のブルーの比類なきサイオンを思い出す。
ブルーは化かさなかったけれども、もしも、やろうと考えたなら…。
(シャングリラの仲間を、端から化かして…)
昔話のキツネさながらに、肥溜めの風呂にも入れられただろう。
もっとも、白いシャングリラにも、改造前のシャングリラの時代にも…。
(肥溜めなんぞは、船には無かったんだがな)
だから肥溜めの風呂は無いな、とクスクスと笑う。
「その点だけは、安心だった」と
「もしも、ブルーに化かされていても、肥溜めに浸かる心配は無い」と。
おかしなことを考えちまった、と苦笑したくなる、シャングリラの肥溜め。
前のブルーが、サイオニック・ドリームで「化かした」時の話。
思考がズレてしまったけれども、「幻」は美しいものが多い気がする。
キツネやタヌキが化かした時にも、いつも肥溜めとは限らない。
(それは立派な屋敷が出て来て…)
絶世の美女がもてなしてくれて、山海の珍味が並ぶ食事に、フカフカの布団。
夢のような暮らしを満喫したのに、朝になったら…。
(…一面の野原のド真ん中で…)
パチリと目が覚め、美女も屋敷も跡形も無い、というケース。
その手の話も、珍しくはない。
ついでに、キツネやタヌキでなくても…。
(山奥で見事な花園を見るとか、そりゃあ色々と…)
美しい「幻」に出会う話も、それこそ世界中にある。
立派な町だの、理想郷だのも、美しいものには違いないから…。
(夢、幻って言われるくらいで…)
人間の願望から生まれて来るもの、それが「幻」なのかもしれない。
サイオニック・ドリームのように「かかる」ものではなく、自分で「かける」自己暗示。
「こういう暮らしをしてみたい」だとか、「此処に町があれば」という願望から。
(自分では、意識していなくても…)
知らない間に暗示をかけて、結果が出ることはあるだろう。
思いが切実になればなるほど、無意識にかけてしまいそうな暗示。
現実から「幻」の世界に逃げ込み、其処で安穏に暮らしたくて。
たとえ一夜の夢であっても、その夢も見ないで生きるよりかは…。
(少しは救いがあるってモンだな)
ほんの一瞬だけだとはいえ、現実から逃れられたから。
「夢だったのか」と思いはしたって、幻の世界では、確かに幸せだったから。
(…現実逃避というヤツも…)
程度によっては人を救うさ、と長い経験から知っている。
前の生で何度も夢見た、青く輝く水の星、地球。
青い地球まで辿り着けたら、と前のブルーと描いた夢たち、それも一種の幻だから。
まだ見ない地球を夢に見る度、ミュウの未来が見えない現実、その恐ろしさが和らいだから。
(…そう考えると、幻ってのも…)
悪いことばかりじゃないんだよな、と考える。
砂漠の真ん中で水が無い時に、オアシスの幻は、辛いけれども。
「これで助かる」と思っていたのに、オアシスは消えてしまうのだから。
(…それでもなあ…)
ただ干からびて死んでゆくよりは、まだ幸せな方なのだろうか。
ほんの一瞬、救いが見えたわけだから。
絶望も大きくなるだろうけれど、消えたオアシスの幻は、きっと救いにもなる。
「死んだら、あそこに行けるだろうか」と、最後に夢を見られるから。
今は一滴の水も無くても、水が溢れる世界に行ける、と。
(…そういう世界を夢に見ながら、死んで行けるなら…)
前のあいつより、ずっとマシだ、とギュッと握り締めた、自分の右手。
遠く遥かな時の彼方で、前のブルーの右手は凍えた。
白いシャングリラを守り抜こうと、一人きりでメギドを沈めた時に。
キースに銃で撃たれた痛みで、最後まで持っていたいと願った、温もりを失くして。
(…前の俺の腕に、最後に触れて行った時に…)
前のブルーが感じた温もり、それがブルーの大切な宝物だったのに。
「この温もりさえあれば、一人ではない」と、メギドまで持って行ったのに。
(あいつは、それを失くしちまって…)
泣きじゃくりながら、たった一人で死んでいくしか無かった。
「もうハーレイには二度と会えない」と、「絆が切れてしまったから」と。
(あの時のあいつに、俺の幻が…)
見えていたなら、きっと幸せだったと思う。
たとえ幻に過ぎないとしても、其処に「ハーレイ」がいるのだから。
失くしてしまった温もりの代わりに、前のブルーが、一番、見たいだろう姿で。
「ブルー、私なら此処にいますよ」と、笑みを湛えて。
(それが見えたら…)
前のブルーは、泣かずに済んだことだろう。
そんな幻が見えるのならば、絆は切れていないから。
いつか「ハーレイ」の命が尽きたら、もう一度、会えるだろうから。
けれど、ブルーは見られなかった。
誰よりも会いたいと願った筈の、愛おしい人の幻を。
ブルーの悲しみが強すぎたからか、あるいは意志が強すぎたのか。
「ソルジャー」だった前のブルーは、常に現実を見据えていたから。
青い地球には焦がれたけれども、幻の世界に逃げたりはせずに。
(そりゃあ、少しは、前の俺と同じで…)
現実逃避もしていたわけだし、地球の映像を抱くフィシスを攫っても来た。
それでも「幻」に逃げなかったから、最期の時にも、それが裏目に出たかもしれない。
「ハーレイの温もりが消えてしまった」という、現実だけがハッキリと見えて。
幻のハーレイを見ればいいのに、そちらへ逃げることは出来ずに。
(…そうだったかもなあ…)
可哀想に、と今更ながらに、前のブルーの悲しみと辛さを思わないではいられない。
幸いなことに、ブルーは帰って来たけれど。
絆は切れていなかったから。
青く蘇った水の星の上に、「ハーレイ」を追って生まれて来て。
(うん、俺たちは、また出会えたってな)
今度こそ、幸せになれるんだから、と広がる夢。
十四歳にしかならないブルーが、前のブルーと同じ姿に育ったならば…。
(結婚して、同じ家で暮らして…)
前の生で夢見た沢山のことを、二人で一緒に叶えてゆく。
「青い地球まで辿り着けたら」と、描いていた夢を、片っ端から。
(…全部、幻なんかじゃないんだ)
青い地球も、前の俺たちには夢だったことも…、と思った所で、掠めた不安。
「全部、幻ではないだろうな?」と。
何もかもが夢とは言わないけれども、「もしも、幻だったら」と。
青い地球にいる自分自身は、確かに存在しているとしても、他のこと。
また巡り会えた、小さなブルー。
前のブルーの生まれ変わりの、愛おしい人。
それが「幻」だったら、と。
実はブルーは何処にもいなくて、幻を見ているだけだったら、と。
(おいおいおい……)
いくらなんでも、それは無いだろ、と抓った頬。
確かに痛いし、夢を見ているわけではない。
机の上には、小さなブルーと二人で写した写真もある。
ブルーの家の庭で一番大きな木の下、其処で夏休みの記念に撮った。
だから「ブルー」は間違いなくいるし、幻のように消えてしまいはしない。
今、この瞬間、抱き締めることは出来ないけれど。
こんな夜更けに通信を入れて、声を聞くことも無理だけれども。
(…あいつは、ちゃんといるんだからな?)
都合のいい幻を見ちゃあいないさ、と思いはしても、恐ろしくなる。
「何もかも、幻だったら」と。
ブルーと再び出会えたことも、小さなブルーが、この世に存在していることも。
(…何もかも、俺の夢だったなら…)
きっと立ち直れはしないだろうな、と心臓が縮み上がるよう。
幸せな時を過ごして来た分、失くした時の痛みも強い。
いくら幻だったと知っても、「ブルー」がいた日々を諦めるなんて…。
(出来やしないし、そうなった時は…)
幻を追って行くんだろうな、という気がする。
自分が見ていた幻のブルーに、何処かで出会えはしないかと。
「きっと何処かに、いる筈なんだ」と、砂漠で幻のオアシスを追ってゆくように。
いつの日か、命尽きるまで。
そしてブルーが迎えに来るまで、ブルーの幻を追い掛けて。
(今のあいつが、幻だったら…)
間違いなく、俺はそうするだろうさ、と傾けたコーヒーのカップ。
たとえブルーが幻だろうと、忘れてしまえる筈がないから。
忘れてしまえるくらいだったら、幻のブルーの姿などには出会える筈もないのだから…。
幻だったら・了
※幻について考える内に、ブルー君が幻だったら、と恐ろしい考えになったハーレイ先生。
そうだった時は、幻を追ってゆくのです。きっと何処かで出会える筈だ、と幻のブルー君をv