(今日は、ハーレイに会えなかったよね…)
一度も会えないままだったよ、と小さなブルーが零した溜息。
ハーレイが寄ってはくれなかった日の夜、自分の部屋で。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は会えずに終わったハーレイ。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
毎日でも会っていたいというのに、こうして会えない日だってある。
ハーレイが教える古典の授業は、今日は無かった。
学校の廊下でも出くわさないまま、遠目に姿を見てさえもいない。
(ツイていないよ…)
だけど、と明日へと気持ちを向ける。
あと半日も経たない内に、次の日の朝がやって来る。
日付だけなら、数時間もすれば、明日という日が来る勘定。
(きっと明日には、来てくれるよね?)
学校では会えずに終わっちゃっても、仕事の後で、と切り替えた思考。
そうそう毎日、用事は続かないだろう。
連日のように会議は無いし、柔道部だって、長引くことは少ないから。
(うん、明日までの我慢…)
ちょっぴり寂しくなるのは今日だけ、と気分がフワリと軽くなってゆく。
明日の今頃には、すっかり満足している自分がいることだろう。
「今日はとってもいい日だったよ」と、御機嫌でベッドに腰を下ろして。
ハーレイと一緒に過ごした時間を思い返して、幸せになって。
(…だって、来てくれたら…)
まずは二人きりのティータイムから。
窓辺に置かれた椅子とテーブル、其処で、ゆっくり。
母が運んで来てくれたお茶と、母が作った美味しいお菓子で。
(……ママのお菓子、明日は何だろう?)
パウンドケーキの日だといいな、と我儘なことを考えた。
どのお菓子でも美味しいけれども、パウンドケーキは特別なケーキ。
(材料は、とっても単純だけど…)
バナナもオレンジも入ってはいない、プレーンなパウンドケーキがいい。
砂糖とバターと小麦粉と卵、それだけを使ったパウンドケーキ。
どれも、それぞれ1ポンドずつ、使って焼くから「パウンド」ケーキと呼ぶらしい。
(…ママが焼くのと、ハーレイのお母さんが焼くのと…)
何故だか、不思議に、そっくり同じな味のケーキになるという。
ハーレイが初めて口にした時、「おふくろの味だ」と笑顔になった。
「おふくろが焼いて、コッソリ届けに来たのかと思ったぞ」と言ったくらいに同じ味。
だからハーレイの大好物で、食べる時にも、とびきりの笑顔。
(なんでも美味しそうに食べるんだけど…)
それに好き嫌いも無いんだけれど、と可笑しいけれども、本当にパウンドケーキは特別。
毎日だって、母にリクエストをしたいくらいに。
「今日のおやつも、普通のパウンドケーキがいいな」と、朝から強請って。
(…だけど、絶対、飽きちゃうし…)
いくらハーレイの好物でもね、と分かってはいる。
どんなに美味しいお菓子も料理も、同じものが続けば飽きるもの。
「たまには別のものが食べたい」と言いたくもなるし、不満も募ってしまいそう。
「なんて無能な料理人だ」と、美味しいことは棚上げで。
贅沢な食材を使ってあっても、「安くていいから、別のものを」と。
(…パウンドケーキも、それとおんなじ…)
毎回、毎回、出し続けていたら、ハーレイは困ってしまうだろう。
来客の身では、面と向かって「別のケーキに出来ませんか」と言えるわけがない。
「たまには、バナナを入れて下さっても…」と、遠回しに言うことだって。
(パウンドケーキ地獄になっちゃう…)
ふふっ、と時の彼方を思った。
いろんな地獄があったっけね、と。
前の自分が暮らした船。
最初はコンスティテューション号だった、シャングリラ。
燃えるアルタミラから脱出した後、その船で旅が始まった。
船には豊富な食材が載っていたのだけれども、皆で食べれば、じきに無くなる。
(…このままじゃ、みんな飢え死にしちゃう、って…)
前の自分は、たった一人で、生身の身体で宇宙を駆けた。
人類を乗せた宇宙船へと、食材を奪いにゆくために。
(ちゃんと奪って帰って来たけど…)
前のハーレイは酷く心配して、次から奪いに出てゆく時には…。
(コンテナの中身は、何でもいいから、って…)
いちいち選んで探して来るな、と釘を刺された。
「とにかく、サッサと帰って来い」と。
見付からないから大丈夫だ、と何度言っても、「絶対に駄目だ」と睨み付けて。
お蔭で、選べなかった食材。
船の倉庫に運び込んだら、コンテナの中身が偏っていたのは、よくあったこと。
(…ジャガイモだらけだとか、キャベツだらけとか…)
そんな話はしょっちゅうのことで、その度に、船は地獄になった。
来る日も来る日も、ジャガイモ料理が続いてゆくのが、ジャガイモ地獄。
キャベツだったらキャベツ地獄で、何処まで行っても、キャベツ料理が並ぶだけ。
船の中だけが全ての世界では、食事も楽しみの内なのに。
「今日の食事は、何が出るかな」と、皆が食堂にやって来るのに。
(…ジャガイモもキャベツも、美味しいんだけどね?)
そのまま食卓に乗るのではないし、きちんと調理してあった。
前のハーレイが腕を揮って、せっせと作った、様々な料理。
それでもやっぱり、皆の不満は募ってゆくから、ジャガイモ地獄が誕生する。
キャベツばかりならキャベツ地獄で、新しい食材が来るまで、地獄。
改造する前のシャングリラでは、食べられるだけでも、とても幸せだったのに。
飢えて死ぬことを考えたならば、不満を言える筈も無いのに。
けれど「地獄だ」と言っていたのが船の仲間で、それを思うと…。
(パウンドケーキばかり出してたら…)
いくらハーレイの大好物でも、パウンドケーキ地獄になることだろう。
「たまにはバナナでも入れて下さい」とは、言えないで。
「他のケーキがいいのですが」とは、逆立ちしたって言えなくて。
それではハーレイに申し訳ないし、パウンドケーキは、やっぱり、たまに。
母が作ろうと思った時に、焼いてくれるのが一番いい。
(ママなら、何のお菓子を作ったのかは…)
決して忘れる筈が無いから、いいタイミングで出て来るだろう。
その日までに作ったお菓子の数々、それらとバランスのいい時に。
「そろそろ、パウンドケーキの出番ね」と、母が思ってくれた日に。
(…ハーレイが、ママのパウンドケーキが大好きだ、ってこと…)
もちろん母も知っているから、以前よりも増えた登場する日。
そう、ハーレイが来るようになってから。
前の生での記憶が戻って、今の自分が「ソルジャー・ブルー」だったと知った頃から。
(パウンドケーキは、今のハーレイのお母さんのだけれど…)
おふくろの味は最高らしくて、自分でも焼こうと何度も試みたらしい。
なのに一度も成功しなくて、この家に来て…。
(ママのケーキで、とってもビックリしたんだよ)
だからホントに特別なケーキ、とパウンドケーキを思い浮かべる。
明日、出て来るかは謎だけれども、それがお皿に載っていたなら…。
(…ハーレイの幸せそうな顔…)
見られることは確実だから、ちょっぴり我儘を言いたくなる。
明日の朝、母に「パウンドケーキを作ってよ」と。
「今日はハーレイが来ると思うから、パウンドケーキ」と。
会えずに終わった今日の分まで、うんと幸せなティータイム。
窓辺に置かれたテーブルと椅子で、二人、ゆっくりと向かい合って。
いいよね、と夢見る明日の幸せ。
パウンドケーキがあっても無くても、本当に幸せなことだろう。
そしてハーレイが帰った後にも、満ち足りた心で、ベッドの端に腰を下ろして…。
(ホントにいい日だったよね、って…)
交わした話を思い返して、頬を緩めているのだと思う。
話の中身は、ごく他愛ないものだって。
前の生の記憶の欠片なんかは、まるで絡んでいなくても。
(柔道部の生徒の話とかでも、うんと幸せ…)
ハーレイと二人で過ごせるだけで、充分だから。
学校の話ばかりで終わってしまっても、それで全然、かまわない。
ハーレイに会えれば、幸せだから。
仕事の帰りに寄ってくれれば、幸せな時間が持てるのだから。
(…早く、明日になったらいいのに…)
日付が変わるのも、まだ先だよね、と壁の時計に目を遣った。
そんな時間まで夜更かししたなら、今の生でも弱い身体が悲鳴を上げてしまうだろう。
体調を崩してしまったら最後、ハーレイと幸せな時間は持てない。
だからその前に、潜り込まねばならないベッド。
(…そしたら、じきに眠くなるから…)
寝ている間に夜を飛び越え、明日という日がやって来る。
目を覚ましたら、部屋に朝日が差し込んで。
もしも曇りや雨の日だって、部屋が明るくなっていて。
(お日様は、ちゃんと昇るんだから…)
雨の日でもね、と思った所で気が付いた。
今ではすっかり当たり前の「明日」、それが無かった時代のことに。
前の自分が生きた頃には、来るとは限らなかった「明日」。
白い鯨に改造された後の時代でも、シャングリラという船に「明日」が来るかは…。
(……誰にも分からなかったんだよ……)
夜の間に沈められたら終わりだから、と身を震わせた。
今でこそ「明日」は当然のように来るのだけれども、違ったのだ、と。
(…今だと、夜になったって…)
さっきまでのように、明日を夢見ていられる。
明日という日が、どんな日になるか、あれこれ楽しく想像して。
母に我儘を言ってみようか、と、ちょっぴり企んだりもして。
けれども、前の自分は違った。
夜が来る度、次の日のことを恐れないではいられなかった。
「明日という日は、来るのだろうか」と。
太陽など昇らない暗い宇宙を、長く旅していた時も。
アルテメシアに落ち着いた後も、夜には、やはり不安になった。
「この船に、明日は来てくれるのか」と。
それを思えば、今の自分は…。
(ホントのホントに、うんと幸せ…)
なんて幸せなのだろうか、と浮かんだ笑み。
「夜になったって、少しも不安にならないものね」と。
明日という日を夢見ていられて、我儘にだってなれるんだもの、と…。
夜になったって・了
※ハーレイ先生に会えなかった日の夜、明日を夢見るブルー君。ちょっぴり我儘なことも。
けれど前の生では、明日が来るとは限らなかったのです。今はとっても幸せですよねv