(幸せだよね…)
今のぼくって、と小さなブルーが、ふと思ったこと。
ハーレイが寄ってはくれなかった日の夜、自分の部屋で。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
(…ついさっきまでは…)
不幸のドン底だったんだけど、と可笑しくなる。
今の自分はとても不幸で、悲しくなるほどツイていない、と嘆いていた。
仕事の帰りに、ハーレイが寄ってくれなかったから。
学校でもハーレイに会えずに終わって、一度も顔を見られなかった。
古典の授業が無かった上に、廊下でも擦れ違わなかったせいで。
(……ツイてなくって……)
最悪な日だ、と思っていたのだけれども、明日には会えるかもしれない。
古典の授業は無い日だとはいえ、ハーレイは学校にいるのだから。
(朝一番から、柔道部の朝練があるもんね?)
運が良ければ、登校して直ぐに会えるだろう。
其処で駄目でも、廊下や階段で擦れ違うだとか、チャンスは山ほど。
それに明日なら…。
(学校の帰りに、来てくれるかも!)
会議や、柔道部で何かが無ければ、ハーレイは寄ってくれる筈。
そうすれば今日の不幸は一転、幸せな時がやって来る。
窓辺のテーブルと椅子でお茶の時間で、夕食だって、ハーレイと一緒。
(晩御飯の時は、二人っきりじゃないけれど…)
両親も食卓に着くのだけれども、それでも充分、幸せではある。
ハーレイの主な話し相手が、両親になってしまっても。
子供の自分は置き去りにされて、大人同士の話題に花が咲いたって。
(…それでも、ハーレイがいるんだもんね?)
ぼくの側に、と嬉しくなる。
声が聞けたら、鳶色の瞳を見ていられたら、それで充分、と。
ついさっきまでは、そうは思っていなかった。
本当の本当に不幸のドン底、悲しくて泣きそうだったほど。
「今日はハーレイに会えなかったよ」と、心の中で繰り返して。
何度も大きな溜息をついて、「今日は最悪」と嘆いてもいた。
けれど、明日には、と思った所で、今の幸せに気が付いた。
「そうだよ、明日があるんだっけ」と。
今はすっかり夜だけれども、暗い夜中を通り過ぎたら、日が昇る。
そうして明日の朝を迎えて、外では小鳥が鳴き出すだろう。
もしも天気が雨だとしたって、雨音の向こうで、夜が明けてゆく。
雨だと小鳥は鳴かないけれども、代わりに聞こえるだろう音。
(屋根に落ちて来る雨の音とか、表の道を走る車が…)
濡れた道を通ってゆくタイヤの音で、雨の日なのだと知らせてくれる。
他にも色々、晴れた日とは違う、雨の日の朝。
(…うん、ちゃんと朝が来るんだよ)
朝が来たなら、ベッドから出て、学校へ行く支度をする。
顔を洗って、制服に着替えて、それから朝食。
(……ホットケーキの朝御飯かも……)
もしかしたら、と心が弾む。
母が焼いてくれるホットケーキは、もちろん、美味しいのだけれど…。
(前のぼくの、憧れの朝御飯…)
本物の地球のホットケーキ、と心は時の彼方へと飛ぶ。
白いシャングリラで暮らしていた頃、前の自分が、何度も夢見た。
いつか地球まで辿り着いたら、と幾つも描いた夢の一つが、ホットケーキ。
(…ホットケーキに、地球の草を食べて育った、牛のミルクのバターを乗っけて…)
サトウカエデの森で採られた、本物のメイプルシロップを、たっぷりとかける。
そういう素敵なホットケーキを、朝御飯の時に食べたい、と。
(前のぼくの夢、そこまでだけど…)
ホットケーキには地球の小麦や、地球で育った鶏の卵も使われている。
なんとも贅沢な限りの朝食、今の自分には、普通だけれど。
ごく当たり前のメニューだけれども、前の自分には、夢で終わってしまった朝食。
青い地球には辿り着けずに、ただ一人きりで、メギドで生を終えたのだから。
(…今のぼくって、うんと幸せ…)
当たり前に明日の朝が来るのも、前の自分が生きた頃には無かったこと。
白いシャングリラが出来上がった後も、「明日が来る」とは限らなかった。
夜の間に人類軍に沈められたら、其処で全てが終わってしまう。
誰一人として、次の日の朝は、迎えられずに。
翌朝の朝食を用意していた、厨房で働く者たちも。
(…それに比べたら、ホントに幸せ過ぎるよね…)
今のぼくは、と頬っぺたを軽く抓ってみた。
「夢じゃないよね?」と。
ベッドにチョコンと腰掛けた自分、チビの自分は夢ではないか、と。
前の自分が、青の間のベッドで見ている夢。
青い地球まで辿り着いたら、こんな風に生きてゆけたらいい、と。
(だけど、頬っぺた、痛いから…)
これは間違いなく現実なのだし、第一、前の自分は死んだ。
遠く遥かな時の彼方で、命と引き換えに、メギドを一人きりで沈めて。
白いシャングリラとミュウの未来を、たった一人で守り抜いて。
(…今じゃ、英雄扱いだけど…)
英雄なんかじゃなかったんだよ、と今でも決して忘れられない、前の自分の悲しい最期。
右手に持っていたハーレイの温もり、それを失くして泣きじゃくっていた。
「もうハーレイには、二度と会えない」と。
「絆が切れてしまったから」と、絶望の淵に突き落とされて。
泣きじゃくりながら死んだ前の自分は、英雄からは遠いと思う。
もしも誰かが見ていたならば、「あの泣き虫が?」と呆れるだろう。
英雄だったら、毅然としたまま、笑みさえ浮かべているだろから。
右の瞳を撃たれていたって、左の瞳で前を見据えて。
ミュウの未来は守り抜いたと、自分の役目を果たしたことに満足して。
自分の命は消えるけれども、仲間たちの命は続いてゆく、と。
(…誰も見ていなくて良かったよね?)
見られていたなら、どうなったかな、とクスッと笑う。
「大英雄には、なれなかったかも」と。
写真集はドッサリ出ていたとしても、顔だけを評価された結果で。
今の時代も語り継がれる、ソルジャー・ブルー。
ミュウの時代の始まりを作った、大英雄だと讃えられて。
(でも、そんなことは、今のぼくには…)
少しも関係無いもんね、と十四歳の子供になった今の自分の右手を眺めた。
前の自分が失くしてしまった、「最後まで持っていたい」と願った、ハーレイの温もり。
それを失くして「右手が冷たい」と、泣きじゃくっていた前の自分。
右手が冷たく凍えたままで、前の自分は死んでいったのに…。
(…今のぼくの手、少しも冷たくないんだよ)
温かいお風呂にゆっくり浸かって、今だって、まだ身体ごと温かい。
部屋も少しも寒くはないから、手が冷たくなる心配も無い。
(それに、冷たくなったって…)
暖房を入れるとか、ベッドの中に潜り込むとか、温める方法は幾らでもある。
おまけに、どうしようもなく冷えた時には…。
(…ハーレイに貰った、サポーター…)
それを着ければ、右手は、たちまち温かくなる。
メギドの悪夢に悩まされていた時、ハーレイがくれたサポーター。
「こいつを着ければ、右手は冷たくならないさ」と。
ハーレイが大きな手で握ってくれる時の、力加減まで再現してあるから。
(だから、安心…)
こうしてパジャマで起きていたって、と幸せな気分に包まれる。
「本当に、なんて幸せなんだろう」と。
不幸のドン底だと思っていたのに、そう考えたことさえ、嘘だったように。
(ホントに、幸せ過ぎちゃうくらいで…)
前のぼくには、夢のまた夢、と白いシャングリラを思い出す。
白い箱舟で生きた頃には、あれでも充分、幸せだった。
明日の朝が来る保証など無い、降りる地面さえ持たない白い箱舟でも。
それでもミュウの楽園だったし、「シャングリラ」の名に相応しかった。
船の中では、人らしく生きてゆけたから。
人体実験をされることもなく、きちんと三度の食事も出来て。
(あの頃の、ぼくに比べたら…)
本当に幸せ過ぎる暮らしを、今の自分は送っている。
毎日、毎日、当然のように。
それが特別幸せなのだと、こうして気付くことさえせずに。
(…うんと幸せで、ちゃんとハーレイだっているのに…)
不幸のドン底だと嘆くだなんて、前の自分が耳にしたなら、きっと叱られることだろう。
「メギドで死んだ時の自分」でなくても、赤い瞳でキッと見据えて。
「今の自分を、よく見たまえ」と、「何処が不幸だと言うんだい?」と。
(……うーん……)
もう間違いなく叱られるよ、と首を竦めた。
前の自分が此処にいたなら、お説教を食らうことだろう。
「君が不幸だと言うんだったら、ぼくと代わってやってもいい」と。
そうすれば毎日、必ずハーレイに会えるわけだし、幸せに暮らしてゆけるだろう、と。
(ハーレイと本物の恋人同士にも、なれるんだけど…)
今の幸せは、全て消し飛ぶ。
明日の朝が来るとは限らない日々、おまけに青い地球だって「無い」。
母が焼いてくれるかもしれない、朝御飯のホットケーキも、全部。
(パパとママがいる家も無くなっちゃって、学校も無くて…)
これから先にある筈の未来、それもすっかり消え失せてしまう。
結婚出来る年になったら、ハーレイと結婚することも。
同じ家で暮らしてゆける未来も、二人であちこち旅をすることも。
(それじゃ困るよ、そんなの、絶対、嫌なんだから…!)
だけど、ホントに言われちゃいそう、と前の自分を思い浮かべる。
仲間たちには優しかった前の自分だけれども、自分自身には厳しかった。
そう、命さえも、投げ出したほどに。
ハーレイの温もりだけを握って、一人きりでメギドへ飛び去ったほどに。
「ソルジャー・ブルー」と同じ魂を持っているのに、今の自分は、どうだろう。
叱られてしまいそうなくらいに、うんと我儘で、贅沢で…。
(きっと、幸せ過ぎちゃうと…)
それに慣れちゃって、忘れちゃうんだよね、と軽く叩いた自分の頬っぺた。
「もっと、しっかりしなくっちゃ」と。
不幸だなどと嘆いていないで、今の幸せを噛み締めて。
前の自分と比べてみたなら、自分は、うんと幸せだから。
幸せ過ぎると言えるくらいに、幸せが当たり前なのだから…。
幸せ過ぎちゃうと・了
※ハーレイ先生に会えなくて、不幸のドン底だったブルー君。でも、考えたら幸せな今。
幸せ過ぎるくらいに幸せ過ぎて、それを忘れてしまうほど幸せな日々。それこそが幸せv