(この一杯が幸せなんだよなあ…)
酒じゃなくってコーヒーなんだが、とハーレイが唇に浮かべた笑み。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で。
愛用のマグカップにたっぷりと淹れた熱いコーヒー、それを片手に。
酒も好きだし、夜に飲むなら酒でも構わないけれど…。
(こう、丁寧に淹れたコーヒーってのも…)
うんと幸せになれるモンだ、とカップの中身を傾ける。
絶妙な苦みで、そのくせ、薬などの苦さとは違うコーヒーの深い味わい。
豆から挽いたら、コーヒー豆の癖まで、更に引き立つ。
(産地によって違うってのが、また素晴らしいんだ)
飲んで産地を当てられるほどではないのだけれども、「違う」というのは分かるもの。
だからこそ、こうして幸せな時間を持つことが出来る。
「ブルーの家には、行きそびれたな」と、少しガッカリした日でも。
長引いてしまった会議を恨んで、遅い時間に学校を出るしかなかった日でも。
(晩飯を作って、のんびりと食って…)
それから皿などを洗って片付け、おもむろにコーヒー豆を取り出す。
「今日は豆から挽いてみるか」と、「時間はたっぷりあるんだからな」と。
ブルーの家に寄って帰って来た日は、そこまでこだわったりしない。
大抵、次の日も仕事があるから、コーヒーを淹れるにも、まずは手早く。
(挽いてある豆を使うなんぞは、序の口で…)
インスタントのコーヒーなんかも、実は充分、役立っている。
なにしろ、いくらコーヒー党でも…。
(…学校でコーヒーを飲むとなったら…)
ゆっくり淹れている時間は無いから、当然、インスタントの出番。
誰かが淹れてくれるにしたって、せいぜい好みを聞かれる程度。
「ハーレイ先生は、濃いめでしたっけ?」だとか、「ブラックですか?」だとか。
それに関しても、本当の所は、さほど好みは無かったりする。
「これでなければ」という、こだわりは。
コーヒーは濃いのが一番だとか、砂糖は絶対、入れない、などは。
その点について、特に不思議には思わなかった。
食べ物に好き嫌いが無いのと同じで、嗜好品だってそうなのだろう、と。
けれど、今なら腑に落ちる。
「コーヒーってだけで、充分なんだ」と。
本物のコーヒー豆から作った、正真正銘、本物の味。
それが最高の贅沢なのだと、遠く遥かな時の彼方で、前の自分が知っていた。
白い鯨になった船では、もう「本物」は無かったから。
コーヒーと言ったらキャロブのコーヒー、イナゴ豆で作った代用品。
(あれも不味くはなかったんだが…)
本物の味を知った舌には、やはり何処かが違ったもの。
キャロブはキャロブで、コーヒー豆とは違うから。
所詮は身代わり、代用品に過ぎないのだから。
(多分、そいつを覚えていたんだ)
今の俺もな、と可笑しくなる。
ブルーに出会って、記憶が戻って、様々なピースが嵌まり始めた。
「俺の好みだ」と思っていた色々なことが、時の彼方に根っこを持っていたりする。
好き嫌いが無いのも、インスタントのコーヒーでも全く気にしないのも。
(…でもって、今では…)
白い鯨の頃とは違って、たった一杯のコーヒーにまでも、こだわれる暮らし。
「こだわりたい」と思いさえすれば。
豆から選んで、そう、その先の淹れ方にまで。
(濃いめか、薄めか、ってだけじゃなくって…)
その気になったら、エスプレッソも淹れられる。
「家で淹れるぞ」と、専用のコーヒーメーカーを買ったなら。
コーヒーにミルクを足すのも自由で、そのミルクだって泡立てられる。
そう、いくらでもバラエティー豊かに、自分の家で楽しめるのが今のコーヒー。
前の自分が生きた頃には、まるで想像も出来なかった日々。
青い地球まで辿り着かねば、ミュウに、シャングリラに未来は無かったから。
本物のコーヒーの味わいどころか、生きる自由さえ持たなかったから。
(そいつを思えば、今の俺は、だ…)
うんと幸せ過ぎるんだよな、と改めて思う。
普段は意識してさえもいない、ごく平凡な教師の暮らし。
それが「途方もない幸せ」なのだと、幸せ過ぎるというものだ、と。
(…前の俺だと、この時間には…)
どうだったかな、と壁の時計に目を遣った。
白いシャングリラで暮らした頃には、何をしていた時間だろうか、と。
(……ふうむ……)
多分、航宙日誌だろうな、と机の羽根ペンに目を留めた。
「前の俺なら、こいつで日誌を書いてたんだ」と。
ブルーに貰った、白い羽根ペン。
誕生日のプレゼントに、と今のブルーがこだわった。
百貨店まで探しに出掛けて、其処で白いのを見付けて来て。
時の彼方のキャプテン・ハーレイが使っていたのも、白かったから、と。
(しかし、あいつの小遣いで買うには…)
羽根ペンの値段は高すぎたから、諦めざるを得なかったブルー。
とても小遣いでは買えない値段で、けれど貯金は使えないし、と。
(…そこまで高価なプレゼントなんぞ…)
「ハーレイは喜びはしないだろう」と、小さなブルーは考えた。
それでも羽根ペンを諦め切れずに、すっかり元気を失くしてしまって…。
(俺が心配になって訊いたら、悩みは羽根ペンだったんだよなあ…)
だからブルーに提案した。
「俺とお前と、二人で買おう」と。
大部分は自分が支払うけれども、ブルーも「無理のない分だけ、負担する」形にして。
(…俺が自分で買いに行ったが、ちゃんとブルーに箱を渡して…)
誕生日の日に、ブルーの手からプレゼントされて、受け取った。
前の自分が使っていたのと、同じ色をした羽根ペンを。
航宙日誌を書くためにあるのではなくて、好きなことを書いていい羽根ペン。
今の自分は、航宙日誌を書かないから。
きちんと記録を残さなくても、誰も困りはしないのだから。
本物のコーヒーを好きなだけ飲めて、好きな淹れ方が出来る今。
白い羽根ペンを持っていたって、航宙日誌は要らない時代。
なんと幸せな時代だろうか、と書斎の中を見回してみる。
ずらりと並んだ本にしたって、どれも生死が懸かってはいない。
キャプテン・ハーレイが暮らした部屋には、そういう本が幾つもあったのに。
(…パイロットの免許は、持っていなかったが…)
無免許運転だったけれども、シャングリラの操舵には自信があった。
「俺でなければ、乗り切れないぞ」と、あの船で、何度、思ったことか。
(…マードック大佐の船に追われて、三連恒星の重力干渉点から…)
ワープして追跡を振り切った時やら、アルテメシアを脱出した時のワープやら。
(重力圏からの亜空間ジャンプなんぞは…)
文字通り、前例の無いことだったけれど、前の自分はやり切った。
そうしないと船が沈むから。
白いシャングリラが沈められたら、全員が死んでしまうのだから。
(…やってやれないことはない、と…)
前の自分が下した判断、その後ろには、本で学んだ知識が鏤められていた。
「船長として、学んでおかないと」と、懸命に読んだ、航宙学の専門書たち。
人間が宇宙で学んだ全てが、其処に詰まっているのだから。
一つ間違えたら命を失う、過酷な場所が宇宙空間。
其処で「死なずに生き延びる」方法、そのためのヒントが本には山ほど。
(…お蔭で、あの船を、無事に地球まで…)
運んで行けたのが前の自分で、その責任は重かった。
今の時分の書斎と違って、好みだけでは揃えられなかった本。
それを思えば、この書斎だって、贅沢過ぎる空間だろう。
(…そりゃあ、教師には必須の本ってヤツも…)
一緒に並べてはあるのだけれども、殆どは趣味で集めた本たち。
前の自分には許されなかった、「好きな本だけ集める」こと。
こうも違うか、と驚嘆させられてしまう。
「こんなに幸せ過ぎていいのか」と、「ちょっと幸せ過ぎないか?」と。
(……うーむ……)
今の時代は当たり前になった、「ミュウが幸せに生きてゆく」こと。
人間が一人残らずミュウになった今は、前の自分の時代とは違う。
戦いも世界から消えてしまって、穏やかな日々が流れてゆく。
誰もが「今」を満喫しながら、幸せに生きてゆく世界。
(…今の俺には、そいつが普通で、当たり前の暮らしなんだがな…)
ちょっとばかり不安になるってモンだ、と自分の頬を軽く抓ってみる。
「夢じゃないよな」と、「俺は本当に、そういう世界にいるんだよな」と。
(よし、こう抓ったら、痛いから…)
間違いなく現実なのだけれども、こうして「ちょっぴり不安になる」のは…。
(…前の俺が生きた頃の記憶が、俺の中に戻って来たモンだから…)
比べちまって、夢じゃないかと思うんだよな、と苦笑する。
「どうも貧乏性らしい」と。
幸せ過ぎると、不安になってしまうから。
その分、余計に「幸せ」を実感出来るわけだし、お得なのかも知れないけれど。
人間が全てミュウな今では、幸せで当たり前だから。
当たり前の日々を「幸せ過ぎる」と思う人など、きっと、そうそういないのだから…。
幸せ過ぎると・了
※今のハーレイには当たり前の日々、それが前のハーレイには「幸せ過ぎる」という現実。
ちょっぴり不安になってしまうくらいに、今は幸せが普通なのです。幸せですよねv
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