(おや…?)
風か、とハーレイの耳に届いた音。
ブルーの家には寄れなかった日、夕食の後で。
後片付けを手早く済ませて、寛ぐために淹れたコーヒー。
愛用のマグカップにたっぷり注いで、移動しようとしていた所。
書斎でのんびり本でも読もうと、ダイニングを後に。
そこへ庭先を吹き抜けた風。
書斎と違って大きな掃き出し窓があるから、音が聞こえた。
カーテンは閉まっていたのだけれども、吹いてゆく音が。
(…冷える予報じゃなかったが…)
風ってヤツは気まぐれだしな、とカーテンの隙間から覗いてみた。
庭園灯に照らされた庭で、木々の梢が揺れている。
さっきほど強くは吹いていなくても、枝を揺すってゆく程度の風。
(冷え込まないといいんだがなあ…)
ブルーが風邪を引いちまうしな、と心配なのは恋人のこと。
十四歳にしかならないブルーは、今の生でも身体が弱い。
風邪を引くのも珍しくなくて、喉を傷めることもしばしば。
「喉風邪には、これがいいんだぞ」と金柑の甘煮を贈ったほどに。
隣町で暮らす母のお手製、金柑の実をコトコト煮込んだものを。
(…天気予報だと、大丈夫な筈で…)
明日も暖かいと言っていたから、ただの風だと思いたい。
単なる空気の流れのせいで、この町を吹いてゆくだけだと。
(ふむ…)
収まって来たな、と弱まり始めた風を見詰めて頷いた。
正確に言えば「風は見えない」から、木々の動きを見るだけだけれど。
これなら今夜は、きっと冷えない。
もう安心だ、とマグカップを手に向かった書斎。
ただの風なら心配は無いし、ブルーも風邪は引かないから。
いつもの書斎に灯りを点けて、向かった机。
ゆったりと椅子に腰を下ろして、熱いコーヒーを一口飲んだ。
(落ち着くなぁ…)
今夜は何の本を読もうか、読みかけの本もいいけれど…。
(前に読んだ本を読むっていうのも、いいモンなんだ)
どれにするかな、と本棚を眺めて追った背表紙。
様々な本があるのだけれども、ふと思い出した机の引き出し。
(…此処にも、大事な一冊が…)
あるんだっけな、と引き出しは開けずに、視線を落とす。
其処に仕舞った一冊の本。
読み物ではなくて、写真集。
前のブルーの写真を集めて編まれた、『追憶』というタイトルの。
とても有名なブルーの写真が表紙に刷られた、宝物とも呼べる一冊。
いつも自分の日記を被せて、布団代わりにしてやっている。
ブルーが寂しがらないように。
自分が留守にしている間も、「ハーレイ」を感じていられるように。
(ブルーに知れたら、確実に嫉妬されるしな…)
小さなブルーには、この本は、内緒。
持っていることさえ話していないし、自分だけの秘密。
それのページを繰るのもいいな、と考えた所で、掠めた記憶。
遠く遥かな時の彼方で、ナキネズミのレインが言っていたこと。
「ブルーは風の匂いがしたね」と。
前のブルーがいなくなった後、青の間でレインと出会った時に。
一人と一匹で思い出話をしていた折に。
青の間はブルーがいなくなっても、そのままの形で残されていた。
たまに一人で訪ねて行ったら、先客のレインがいたことも多い。
そういった時はあれこれ話して、前のブルーを懐かしんだ。
他の者とは、ブルーの話は、それほど出来なかったから。
どうしても辛くなってしまって、涙が溢れて来そうになって。
(前のあいつは、風の匂いか…)
それを感じたことは無かった。
前のブルーを前にした時、「風の匂いだ」と思ったことは。
(シャングリラで吹いていた風は…)
人工の風で、公園を彩る風物の一つ。
四季折々の草木を植えていたから、それに合わせて。
春なら暖かい風を流して、冬には冷たく肌寒いものを。
ただそれだけの人工の風に、匂いがあったかどうかも謎。
花の香りが混じることなどは、あったけれども。
(ついでにレインは、本物の風の匂いなんぞは…)
知らない筈だと思っていたから、今のブルーと考え込んだことがある。
レインが言った「風の匂い」とは、何だったのか、と。
(ジョミーを救出した時の、硝煙の匂いかもしれん、って話まで…)
出たのだけれども、結論としては、「雨上がりの風」に落ち着いた。
前のブルーは、降りないままで終わったナスカ。
赤い星には恵みの雨が降り注いだし、レインの名前も、そこからついた。
レインは雨上がりの風の匂いを、「ブルーの匂いだ」と思ったのだろう、と。
前のブルーが暮らした青の間、其処には水が満ちていたから。
巨大な貯水槽が造られ、いつも澄んだ水を湛えていた。
だから部屋にも水の匂いがしていただろう。
前の自分やブルーは慣れてしまって、まるで気付いていなくても。
「水の匂いだ」と思ったことさえ、一度も無かったままであっても。
(…だからレインには、前のあいつは、雨上がりの風と同じ匂いで…)
風の匂いがしたのだと懐かしんでいた。
もう、いなくなってしまった人を。
主を失くして空っぽの部屋で、空になったベッドの持ち主を指して。
(…今のあいつは、風の匂いはしないよなあ…)
小さなブルーの部屋には、貯水槽は無い。
熱帯魚なども飼っていないから、水槽も無い。
レインが感じた「風の匂い」は、今のブルーには無いだろう。
代わりに何か匂いがあるなら、その日に食べた甘いお菓子の匂いだろうか。
(そうなってくると、ケーキ屋の前に行かないと…)
今のブルーの「風の匂い」は、きっと吹いては来てくれない。
焼き立てのパイや、オーブンから出したばかりのケーキの匂いを纏った風。
(…さっき吹いてったような風だと…)
お菓子の匂いは混じらないから、今のブルーの匂いはしない。
ついでに雨の予報でもないし、前のブルーの匂いでもない。
(せっかくの、地球の風なんだがなあ…)
前のブルーが焦がれた地球。
最後まで「肉眼で見たい」と思って、見られないことに涙した星。
その地球の上に、二人で来た。
気が遠くなるほどの時を飛び越え、青く蘇った水の星の上に。
吹く風は、その地球の息吹で、この星の呼吸。
青い地球が生きている証拠。
(もっとも、前の俺が見た地球も…)
赤茶けた死の星だったけれども、風くらいは吹いていたのだろう。
有毒の大気が覆っていたから、出ることも叶わなかった外。
吹いてゆく風も毒を含んで、生き物の命を奪っただろう。
それでも「匂い」はあったのだと思う。
ブルーの匂いとは似ても似つかない、悪臭としか呼べないものでも。
吸い込んだ途端に息が止まるか、意識を失うものであっても。
その地球の上に、今は清らかな風が吹く。
木々の梢を鳴らして吹き抜け、この町を通り過ぎてゆく。
(あいつの匂いじゃないってトコが…)
残念だがな、と思うけれども、風の匂いも様々なもの。
シャングリラの頃には分からなかった、地球ならではの自然の恵み。
青葉の季節と、冬の最中では、すっかり違う匂いになる。
みずみずしい新芽が萌え出る季節と、うだるような夏の季節でも。
(…今のあいつは、どういう風が似合うんだろうな?)
風の匂いがするかはともかく、イメージとして。
甘いお菓子の香りではなく、小さなブルーに似合いそうな風。
(身体も弱いし、まだチビだから…)
とても柔らかな春風だろうか、それは穏やかに、花びらをそっと揺するような。
暖かな陽だまりに座っていたなら、心地よく頬を撫でてゆくような。
(…そんな風かもしれないなあ…)
ブルーは、まだまだ子供だから。
本人が何と言っていようと、子供なことは確かだから。
(そうして、いつか育ったら…)
前のブルーと同じ背丈に育ったならば、今度は、どんな風だろう。
雨上がりの風のような匂いは、きっと纏っていないから…。
(爽やかな初夏の風ってトコか?)
今のブルーのお気に入りの場所が、庭で一番大きな木の下。
其処に据えられた白いテーブルと椅子が、ブルーの大好きなティータイムの場所。
(あそこで吹いていくような…)
風がブルーに似合うだろうか。
木漏れ日が細かいレース模様を描き出す上で、木の葉を鳴らしてゆくような。
けして強くはない風だけれど、「吹いているな」と感じる風が。
(…先のことは、まだ分からんが…)
どういう風が似合うのやらなあ、と思いを馳せる。
これからも何度も思うのだろうか、今夜のように風が鳴ったら。
「ブルーは風の匂いがしたね」とレインが語った、あの日を思い出したなら。
そんな日も、きっと悪くない。
吹いてゆく風は地球の呼吸で、ブルーと地球に来たのだから。
今のブルーと二人で暮らせる時が来るまで、ゆったりと待てばいいのだから…。
風が鳴ったら・了
※前のブルーは風の匂い。レインにしか分からなかった匂いですけど、雨上がりの風。
生まれ変わった今のブルーには、どういう風が似合うのでしょう。育つまでが、楽しみv