「ハーックション!」
突然、ハーレイの口から飛び出したクシャミ。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で寛いでいたら。
コーヒー片手の夜のひと時、急にムズムズした鼻の奥。
「ありゃ?」と頭で思うよりも先に、派手なクシャミが飛んで出た。
猫のミーシャが今もいたなら、驚いてピョンと跳ねそうなほどに。
もしも膝の上で眠っていたなら、きっと慌てて逃げただろう。
(…ミーシャがいた頃の俺だったら、子供だったしなあ…)
同じクシャミでも、もっと小型で、ミーシャは驚かなかったかもしれない。
飛び起きたとしても、「ふあぁ…」と欠伸で、すぐに目を閉じて…。
(寝ちまったろうな…)
だが、今のだと…、と考えるクシャミ。
ずいぶん身体が大きくなったし、ミーシャにとっては凄い騒音。
膝の上にいたなら、振動だって大きいだろう。
(……とんだ目に遭った、と……)
恨みがましく見上げる瞳が、見えるかのよう。
白い毛皮によく映えた、青く輝く瞳。
それが自分をジッと見詰めて、「うるさいじゃない」と。
とてもゆっくり寝られやしないと、喋れない分、苦情を山ほど詰め込んで。
(…そうなってたかもしれないなあ…)
一人で良かった、と見回す書斎。
幸いなことにミーシャはいないし、同居人だっていない家。
そこは、ちょっぴり残念だけど。
小さなブルーがいてくれたならば、今のクシャミで…。
(風邪ひいたの、って…)
心配してくれたかもしれない。
ミーシャのように飛びのく代わりに、近付いて来て。
心配そうな瞳で、覗き込んで。
けれど、この家にブルーはいない。
一緒に暮らせるようになる日は、まだまだ、ずっと先のこと。
クシャミが出たって、ブルーの耳に届きはしなくて、今の時間なら…。
(…寝ちまってるな…)
いつもより夜更かししていない限り、暖かなベッドにもぐり込んで。
夢の世界の住人になって、もしかしたなら…。
(…前の俺と、デート中かもなあ…)
そいつは嬉しくないんだが、と零れた溜息。
小さなブルーが夢の世界で幸せだったら、それ自体はいい。
前の生の悲しい思い出よりかは、幸せだった時の夢を見ていて欲しい。
そうは思っても、夢の中でデートされたなら…。
(今の俺の立場が無くなっちまうし…)
ついでに、次にブルーの家に行ったら、御機嫌斜めかもしれない恋人。
「前のハーレイは、優しかったのに」と、夢の話を持ち出して。
キスもくれない「ケチなハーレイ」よりも、遥かに素敵な恋人だった、と。
(……さっきのクシャミは……)
まさかソレか、と見開いた瞳。
(誰かが噂をしていたら…)
クシャミが口から飛び出すという。
夢の世界で、小さなブルーが言っただろうか。
とても優しい恋人の、「前のハーレイ」に。
「今のハーレイは、ケチなんだよ」と。
信じられないくらいにケチだと、「ハーレイとは比べられないくらい」と。
(…おいおいおい…)
勘弁してくれ、と頭を抱えたくなる。
所詮はブルーの夢であっても、そんな不名誉な噂は勘弁。
ブルーのためを思っているから、絶対にキスはしないのに。
いくらブルーが誘おうとも。
あの手この手で求められても、「ハーレイのケチ!」と詰られても。
(…前の俺と、噂話というのは…)
有難くない話だけれども、口からクシャミが出たのは事実。
小さなブルーが夢の世界で噂しているか、それとも他の誰かだろうか。
(飲みに行ったヤツらは、いない筈だが…)
同僚は全員、今夜は真っ直ぐ自分の家へと帰った筈。
「酒の肴」になってはいない、と考えたものの、世界は広い。
(…前の学校の同僚ってことも…)
有り得るだろうし、もっと範囲を広げたならば…。
(この地球じゃなくて、何処か他所の星で…)
誰かが噂したかもしれない。
「そういえば…」と、「ハーレイ」のことを思い出して。
教師仲間か、柔道仲間か、はたまた昔の同級生か。
(……うーむ……)
心当たりがありすぎるぞ、と頭の中に浮かんでくる顔。
もはや特定不可能なほどに。
「俺の噂をしていただろう?」と尋ねたならば、同時に幾つも手が挙がるほどに。
(…こいつが、前の俺だったなら…)
直ぐに誰だか分かったろうな、と考えてみる。
白いシャングリラは、とても大きな船だったけれど…。
(所詮は、ミュウの箱舟でしかなかった船で…)
閉じた世界に過ぎなかったから、「噂をしていた人物」の特定くらいは簡単。
監視カメラを端から当たれば、じきに答えが出ただろう。
そうでなければ、前のブルーに尋ねさえすれば…。
(ちょっと待ってて、とクスッと笑って…)
シャングリラ中に張り巡らせていた、サイオンの糸を辿ったと思う。
思念で紡がれた細い細い糸は、誰にも見えない。
けれどブルーは、それを使って、いつだって船を見守っていた。
深い眠りに就いた後にも、その糸は健在だったくらいに。
物騒な地球の男に気付いて、目覚めたばかりの身体で果敢に対峙したほどに。
前のブルーが船を守った、サイオンの糸。
それを辿って行きさえすれば、「誰がハーレイの噂をしたか」は、一瞬で分かる。
不名誉な噂か、そうでないかも、手に取るように。
(…しかし、あいつも…)
それに俺も、とシャングリラの頃を思い出す。
たとえクシャミが出たとしたって、噂は放っておいただろう、と。
ただでも娯楽が少ない船では、噂話も楽しみの種。
船に不安が満ちてゆくような噂だったら、直ちに消さねばならないけれど…。
(俺がしでかした失敗談なら、大いに笑って貰って、だ…)
愉快な気分になって貰って、笑いが船に広がってゆく方がいい。
噂の出処がブリッジだったら、其処から機関部、更に厨房や農場にまでも。
「キャプテンが、こんな失敗を…」と皆で笑って、噂をして。
(…うん、きっとそうだ…)
あいつも、俺も放っておくな、と白い鯨の仲間たちの笑顔を思ったけれど。
彼らが笑っていてくれるのなら、噂されても良かったけれど…。
(……ちょっと待てよ?)
クシャミをしたら噂だったか、と顎に当てた手。
さっきクシャミが飛び出した時に、「噂かもな」と考えた自分。
そして始めた犯人捜し。
小さなブルーか、同僚なのか、はたまた古い知り合いなのか、と。
(…だが、前の俺は…)
そんなことなどしなかった。
クシャミが出たら「風邪か?」と不安が掠めたもの。
キャプテンが風邪を引こうものなら、たちまち船に影響が出る。
操舵は誰かに任せるとしても、他にも山とある仕事。
代わりの者では瞬時に判断出来ない、船の航路の変更などが、その筆頭。
寝込んでなどはいられないから、体調には常に気を付けていた。
うっかり風邪など引かないように。
下手に疲労を溜め込んだりして、病を呼び込まないように。
(クシャミが出たら、噂ってのは…)
今の俺だ、と気付いた自分の考え方。
青く蘇った水の星の上で、新たに学んだ日本の文化。
(一つだったら、誰かが噂していて…)
そういえば「良い噂」だった、と今になってから思い至った。
クシャミの回数で決まってゆくのが、噂の中身。
一つだったら良い噂、二つだったら悪い噂といった具合に。
(すると、ブルーが夢で噂をしていても…)
悪口の方ではなかったろうか。
夢で「前のハーレイ」とデートをしていて、「今のハーレイ」のことを語っても。
(…ふむふむ…)
それなら逆に嬉しいもの。
その上、「噂か?」と、あれこれ思い巡らせたことも。
(……前の俺だと、知りようもなかったことなんだ……)
クシャミが出たら、噂をされたと思う文化は。
機械が統治していた時代は、日本の文化は消されていた。
他の「余計な文化」も消されて、神さえも一人しかいなかったほど。
(…クシャミが出たら、ゴッド・ブレス・ユー、だっけな?)
そう言う地域もあるのが今。
クシャミと一緒に魂が抜けてしまわないよう、周りの者が唱える言葉。
(…それだって、誰も言わなかったさ…)
そんな文化も消えていたしな、と満ちてゆくのは幸せな思い。
ブルーと二人で青い地球までやって来たから、クシャミが出ても要らない心配。
今の自分が風邪を引いても、仲間に危険が及びはしないし、その逆に…。
(噂が娯楽になると思って、大いにやってくれ、とだな…)
考えたのが今の自分で、今はそういう時代だから。
青く輝く水の星では、クシャミひとつで、あれこれと思い悩めるから…。
クシャミが出たら・了
※ハーレイ先生の口から飛び出したクシャミ。ブルー君が夢で噂をしているのかも。
あれこれ考えたわけですけれど、シャングリラの頃には無かった考え方。幸せですよねv
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