(……うーん……)
なんだか眠くなっちゃったかも、と小さなブルーが擦った目元。
ハーレイが寄ってはくれなかった日、夜に勉強机の前で。
机の上に広げた本。
いつもだったら、まだまだこれから読み進める時間。
けれども襲って来た眠気。
急に瞼が重く感じて、口から「ふああ…」と欠伸まで出て。
(…なんで…?)
今日は疲れてはいないと思う。
体育の授業は見学だったし、学校で沢山歩いてもいない。
(あとはバス停と、家との間の往復…)
そんな程度の運動量。
たったそれだけで疲れ果てるほど、多分、やわには出来てはいない。
いくら身体が弱くても。
前の生と全く同じに虚弱で、ちょっとしたことで熱を出しても。
(…ハーレイが寄ってくれなかったから…)
ガッカリしちゃって、気落ちしたかも、と心当たりは、そのくらい。
「来てくれるかな?」と、何度も窓から覗いたから。
ハーレイの車とは違う音でも、「もしかしたら」と表の道路の方を。
(……気持ちがピンと張り詰めてると……)
眠くなったりはしないもの。
ならば、その逆もあるだろう。
気落ちして気分が落ち込んでいたら、眠気が増してくることだって。
普段なら眠くならない時間に、身体が「眠い」と訴え出して。
(…寝ちゃおうかな?)
起きていないで、と眺めた時計。
この時間なら、もう両親も心配しない。
「何処か具合が悪いのでは」と思いはしないし、「眠いんだな」と考えるだけ。
それなら「寝る」のがいいだろう。
少しばかり早い時間でも。
早めにベッドにもぐってしまって、部屋の灯りもパチンと消して。
(うん、そうしよっと…!)
決めた、とパタンと閉じた本。
読みかけの所に栞を挟んで、続きは明日に読むことにして。
(学校の用意は、してあるし…)
でも念のため、と鞄の中身を確かめた。
教科書はちゃんと入っているのか、ノートの類も揃っているか。
(これで良し、っと…!)
明日、目覚めたら着る制服も、きちんと所定の場所に置いてある。
後はゆっくりお風呂に入って…。
(パジャマに着替えて、寝るだけだよね)
眠いんだもの、とパジャマを抱えて部屋から出た。
トントンと下りていった階段、そこでバッタリ出会った母。
「あら、もうお風呂?」
早いのね、と母は微笑んだけれど、それだけだった。
「どうかしたの?」と訊かれはしなくて、「ごゆっくり」と見送られただけ。
お風呂好きなのは知られているから、いつものように。
「好きなだけ、ゆっくり浸かりなさいな」と、優しい笑顔で。
(…ふふっ……)
お風呂、と足が速くなる。
本当にお風呂が好きだから。
具合が悪くて熱があっても、入ろうとするくらいだから。
バスルームに入って、ふわりと包まれた温かな湯気。
その中でシャワーのコックを捻って、たっぷりと浴びた。
それから浸かった、大きなバスタブ。
ゆったり手足を伸ばしていたって、まだ余る広さ。
(パパなら、丁度いいんだろうけど…)
ぼくだと溺れてしまうかもね、と思うくらいに。
お風呂の中で眠ってしまったら、ブクブクブクと沈んでいって。
お湯の中で呼吸が出来なくなって、溺れそうになって、手足をバタバタさせて…。
(這い上がったら、凄くゲホゲホ…)
激しく咳き込み、お湯を吐き出すことだろう。
母たちが飛んで来るかもしれない。
「どうしたの!?」と、血相を変えて。
そして「眠って溺れた」と知って、呆れながらも叱るのだろう。
「次からは気を付けなさい」と。
「池とか海なら分かるけれども、家のお風呂で溺れるなんて」と。
(…だけど、大好き…)
このまま眠ってもかまわないくらい、心地よいお湯に浸かるのが。
心も身体もリラックスできる、「お風呂の時間」というものが。
(小さい時から、お風呂好き…)
熱があっても「入る」と騒いで、駄々をこねたのを覚えている。
「仕方ないわね」と母が苦笑したのも、「少しだけだぞ?」と父が睨んだのも。
なにしろ、お風呂に入れないと…。
(うんと機嫌が悪くなるから、余計に熱が上がって…)
ろくな結果にならなかったから、折れた両親。
ただでも身体の弱い息子が、もっと辛い目に遭わないように。
「お風呂で具合が良くなるのなら」と、仕方なさそうに。
(…ちょっぴり悪い子だったかな…?)
それに我儘、と幼かった頃を思い出す。
両親は心配だったのだろうに、「お風呂に入る!」と譲らなかった子。
(でも、好きなものは…)
仕方がないよ、と考えた所で気が付いた。
どうして、お風呂好きなのか。
いつからお風呂が大好きになって、入らずにいられなくなったのか。
(……アルタミラ……)
あそこのせいだ、とバスタブの中で震えた身体。
前の生での、一番古い記憶の一つ。
それよりも前の頃の記憶は、全く残っていなかったから。
成人検査と、その後に続いた数多の人体実験。
それらが奪い去ってしまった、幸福な子供時代の記憶。
本物の両親はいなかったけれど、養父母が与えてくれていた筈の。
(…実験動物にされて、全部忘れて…)
ただ檻の中で飼われていた。
実験動物を「お風呂に入れる」必要は無いし、専用の部屋で洗われただけ。
温かいバスタブに浸かる代わりに、冷たい水を浴びせられて。
洗われた後には風が吹き付け、丸ごと乾燥させられた。
バスタオルなどは、貰えもせずに。
実験で酷い火傷を負おうが、あちこちの皮膚が裂けていようが。
(…そんな目にばかり、遭っていたから…)
アルタミラから逃げ出した船で、どれほどにシャワーが嬉しかったか。
バスタブに浸かれるようになったら、本当に、どれほど幸せだったか。
そのせいで、お風呂好きだった。
遠く遥かな時の彼方で、生きた自分は。
「ソルジャー・ブルー」と呼ばれるよりも前から、ずっと。
生まれ変わっても「お風呂が好き」になるほど、魂に刻み込まれるほどに。
そうやって出来た、お風呂が大好きな子供。
十四歳になった今でも変わらず、この先もきっと、変わりはしない。
(…本当に気持ちいいもんね?)
お風呂の中でも寝ちゃいそうなほど、と零れた欠伸。
温かなお湯で身体も心もほぐれてゆくから、更に増した眠気。
このまま、お風呂で寝てしまう前に…。
(ちゃんと上がって、パジャマを着て…)
髪も乾かして、それからベッドへ。
でないとバスタブで溺れてしまって、両親にかけてしまう心配。
第一、自分も酷い目に遭う。
アルタミラの地獄には及ばなくても、お湯が気管に入ってしまって、苦しくて。
(それは困るよ…!)
お風呂で寝ちゃ駄目、と自分を叱って、心地よいバスタブに別れを告げた。
バスタオルで身体を綺麗に拭いて、着込んだパジャマ。
(ホントに眠い…)
早く寝よう、と髪を乾かし、バスルームを後に向かった部屋。
リビングの両親に「おやすみなさい」と挨拶をして。
階段をトントン上がって行って。
(…後は、寝るだけ…)
おやすみなさい、とパタリとベッドに倒れ込んだ。
上掛けの下にゴソゴソ潜って、手探りで灯りを消そうとして…。
(……あれ?)
なんて幸せなんだろう、とハタと気付いた。
お風呂も幸せだったけれども、今の状態。
「眠くなった」とお風呂に入って、何も考えずに潜り込んだベッド。
わざとパタリと倒れ込んで。
「眠いんだもの」と、自分の身体が訴えるままに。
(……前のぼくだと……)
こんな風には運ばなかった。
もちろん眠れた時もあるけれど、そうでない時が多かった。
白いシャングリラの時代はもちろん、名前だけが「シャングリラ」だった時代も。
(…ぼくがいないと、いろんなことが…)
上手くいかなくなるのでは、と気がかりで懸命に起きていたもの。
今と同じにチビだった頃も、育った後も。
「ソルジャー」と呼ばれ始める前から、すっかり身体が弱った後も…。
(…ぼくが寝ちゃったら、船の仲間は…)
どうなるのだろう、と気が休まらなかった。
後継者のジョミーが船に来た後も、眠気を欲する身体に鞭を打つようにして…。
(起きていなくちゃ、って頑張って…)
力の限りに頑張り続けて、力尽きるように眠りに就いた。
十五年間も全く目覚めないほど、長い眠りに。
それまでの時間を取り戻すように、ただひたすらに眠り続けて。
(……あれに比べたら……)
とても幸せなのが今。
「今日は眠い」と感じただけで、「もう寝ちゃおう」とお風呂に入って…。
(…ベッドにもぐって、灯りを消して…)
後はぐっすり眠ればいい。
明日の朝、目覚ましに起こされるまで。
「学校に行かなきゃ」と、目を覚ますまで。
(…眠くなっちゃったら、寝ていいんだよ…)
今のぼくは、と浮かんだ笑み。
そうして眠ってしまった所で、誰も困りはしないから。
シャングリラにも、船の仲間たちにも、危険が及ぶことはないから。
(…なんて幸せなんだろう…)
ぼくはホントに幸せだよね、と灯りを消して、閉ざした瞼。
前の生から焦がれ続けた、青い地球の上で。
ハーレイと二人で生まれ変わった、水の星にある家のベッドの中で…。
眠くなっちゃったら・了
※急に眠くなったブルー君。いつもよりも、ずっと早い時間に。眠いなら、寝るだけ。
今はいつでも眠れますけど、前の生では違ったのです。いつでも眠れることが、幸せv