(……うーむ……)
どうも眠いな、とハーレイが軽くこすった目元。
夜の書斎で、読んでいた本を開いたままで。
何故だか襲って来た眠気。
特に疲れてはいないと思うし、疲れるようなことだって…。
(…してはいないと思うんだがな?)
ブルーの家にも寄っていないぞ、と考える。
逆に言うなら「ブルーの家に寄って帰るには遅すぎた」ということになるけれど…。
(あいつの家に寄って帰ると、晩飯を御馳走になってから…)
食後のお茶まで出たりするから、帰宅の時間は遅くなる。
学校で会議などをした後、家に真っ直ぐ帰るよりも。
(それでも、あいつの家に寄るとだ…)
疲れるのではなくて、元気になる。
心がすっかり満たされるから、とても幸せな気分になって。
(今日は、そいつが出来なかったから…)
眠気が襲って来たのだろうか、と考えもする。
「こんな日は早く寝るのに限る」と、心が癒しの方に走って。
ベッドでぐっすり眠る時間も、元気をくれるものだから。
(…そうなのかもな?)
ブルーの家に寄り損なって、ガッカリしたのは否めない。
その分、失せたかもしれない「元気」。
お蔭で身体が眠りを欲して、「早く寝よう」と出して来たサイン。
「別に仕事があるわけじゃなし」と、「今日は、ここまで」と。
そういうことなら、今日は寝るのもいいだろう。
持って帰った仕事は無いから、コーヒーの残りを飲み干して。
愛用のマグカップにたっぷりと淹れたコーヒー、それは眠るのを妨げはしない。
(…世の中、眠気防止にコーヒーなヤツも多いらしいが…)
生憎と俺には当てはまらんな、と一気に飲んだカップの中身。
読みかけの本はパタンと閉じて、ページには栞を挟んでおいた。
椅子から立って、書斎の灯りを消して…。
(後はカップを洗って、と…)
きちんと拭いて棚に片付けたら、熱いバスタブにゆったりと浸かる。
身体がほぐれて、いい具合にのんびり過ごしたら…。
(風呂から上がって、髪を乾かして…)
ベッドにもぐって眠るだけだ、と向かったキッチン。
まずはカップを洗うことからで、朝まで流しに放っておこうとは思わない。
いくら気ままな一人暮らしで、独身の中年男でも。
誰に咎められるわけではなくても、そういったことは…。
(やりたくないのが、俺の性分なんだ)
今日できることは今日の内に、というのがポリシー。
たかがカップを洗うことでも、拭いて片付けるだけのことでも。
(一事が万事で…)
やらないと気持ちが落ち着かないんだ、と洗ったカップ。
それを拭いて、棚へと片付ける時に、フイと昔の記憶が掠めた。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分がやっていたこと。
まだ名前ばかりだった、シャングリラという船の厨房で。
白い鯨ではなかった時代に、まだキャプテンでもなかった頃に。
(…洗って、片付けていたっけな…)
俺が厨房にいた頃には、と蘇る記憶。
皿洗いの係もいたのだけれども、料理の試作をした時などは自分で洗った。
「これは俺がやる」と、まな板も鍋も、何もかも全部。
あるべき場所へと片付けた後に、「さてと…」と後にした厨房。
夜遅くまで仕込みをしていた時にも、同じように。
(…厨房の頃なら、眠くなったら…)
一応、頼める「誰か」はいた。
自分が最後までいたのでなければ、「後は頼む」と、任せられた仲間。
皿洗い専門の係だろうが、調理担当の者であろうが。
(丸投げしたことは無いんだが…)
必ず自分でやっていたが、と思いはしても、気楽だったのが厨房の時代。
いざとなったら「頼める誰か」が、いたものだから。
眠くなったら後を任せて、自分の部屋へと戻って良かったのだけど…。
(……キャプテンの方は、そうはいかんぞ)
誰にも任せられんじゃないか、と軽く握った拳。
白い鯨になる前の船も、白い鯨になった後の船も…。
(…今みたいに、眠くなったからって…)
眠っていいような場所ではなかった。
キャプテンたる者、どんな時でも、毅然とブリッジに立っていてこそ。
勤務時間の真っ最中は。
そうでなくても、非常事態で叩き起こされた夜中でも。
(…眠いだなんて言っていたら、だ…)
船の仲間の命が危うい。
キャプテンが持ち場を離れていたなら、即座に出来ない様々な判断。
眠くなったら寝てもいい、という職ではなかった。
ベッドで眠っていた時にだって、よくあったのが緊急呼び出し。
雲海の星、アルテメシアを後にしてからは、頻繁に。
(ナスカに腰を落ち着けた後は…)
それも減ってはいたのだけれども、ナスカを追われて、再び多忙になった。
前のブルーを失った痛み、それさえも時には忘れるほどに。
人類軍との戦闘の日々が絶えず続いて、船の指揮だけに忙殺されて。
(徹夜したことも、珍しくなくて…)
もう「眠い」とさえ感じないほど、精神の糸が張り詰めていた。
「俺しか出来ん」と、ブリッジに立って。
時には主任操舵士だった、シドの代わりに操舵までして。
(…俺にしか舵を取れない場所も…)
まるで無かったわけではなかった。
「シドでも出来る」と考えはしても、それでは不安が残るもの。
皆の命を乗せた箱舟、白いシャングリラを沈めるわけにはいかない。
どんな局面であろうとも。
徹夜が続いて、「キャプテン、少しは寝て下さい」と皆に言われていても。
(…俺がベッドで眠ってしまったせいで…)
船が沈んだら、何と言って皆に詫びればいいのか。
死んでしまった仲間はもちろん、先に逝ってしまったブルーにだって。
ブルーが最後に残した言葉は、「頼んだよ、ハーレイ」だったから。
皆には内緒で思念で伝えて、メギドに向かって飛び去ったから。
(…あいつが命を捨ててまで…)
守った船を、自分が沈めてしまうことなど、出来る筈もない。
どれほどの激務が続いていようと、眠気すら感じないほどに疲弊していても。
そう、あの頃にはそうだった。
眠くなっても、眠れないのが当たり前で。
(…それが今では…)
眠っちまっていいんだな、と棚のカップをしみじみと見る。
カップは洗って片付けたけれど、今の自分の「仕事」は「そこまで」。
そのささやかな仕事にしたって、放って眠ってもかまわない。
「明日にするか」と、カップは流しに置きっ放しで。
明日の朝食の食器と一緒に、明日の朝、起きてから洗えばいい、と。
(……ついつい、洗っちまったが……)
そうしたって誰も困らないよな、と眺めるカップ。
前の自分が生きた頃なら、厨房で働いていた時代だって…。
(…俺がカップを放って行ったら…)
誰かが代わりに綺麗に洗って、所定の場所に片付けただろう。
それが「彼ら」の仕事だったし、ごく自然に。
(…そうなっちまうし、申し訳なくて…)
とても放っていけなかったが…、と噛み締める「今」との大きな違い。
今はカップは放っておけるし、眠くなったら眠ってもいい。
誰も困りはしないから。
キャプテン不在の船が沈んで、仲間たちの命が失われる事態も起こらないから。
(…なんとも贅沢な話じゃないか)
眠くなったら、眠っちまってもいいなんて…、と視線を自分の手に移した。
遠い昔は、この手で舵輪を握ったもの。
今の身体とは違うけれども、全く同じな大きさの手で。
ミュウの仲間たちを乗せた箱舟、白いシャングリラの命綱の舵を。
(…あの頃の俺は、どう転がっても…)
持ち場を離れて、好きに眠れはしなかった。
「キャプテン」が必要だった時には。
ブリッジでどっしり構えるにしても、自ら操舵を行うにしても。
(それが今では、「なら、寝るか」と…)
読みかけの本に栞を挟んで、閉じておしまい。
コーヒーの残りを一気に飲んで、カップを洗って片付ければ。
(その片付けさえも要らないくらいに…)
平和な時代に来ちまったんだな、と改めて思う。
欠伸を噛み殺しもせずに。
「眠い時には、寝るとするか」と、バスルームの方へ身体を向けて。
そうしたところで、今の時代は、誰一人として困らないから。
白いシャングリラが沈みはしないし、厨房の係の仕事を増やしもしないから。
(……いい時代だよな……)
今夜はいい夢が見られそうだ、と浮かんだ笑み。
ブルーと二人で生まれ変わった、青い地球の上で。
前の生では何処にも無かった、ブルーが焦がれた水の星の上で…。
眠くなったら・了
※ハーレイが急に感じた眠気。「寝るか」と思ったわけですけれど…。
眠くなっても、前の生では眠るわけにはいかなかった立場。今は平和な時代ですよねv
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