(……うーん、ちょっぴり……)
なんだか、お腹が空いちゃったかも、と小さなブルーが傾げた首。
ハーレイが寄ってはくれなかった日、夜に勉強机の前で。
とっくの昔に、食べた夕食。
それから此処で本を広げて、ページをめくっていたのだけれど…。
(晩御飯、足りなかったのかな…?)
全部きちんと食べたのに、と少し途惑う。
食が細いから、「お腹が減った」と夜に感じることは少ない。
学校から戻れば、毎日、母が用意してくれるおやつ。
それに夕食、ハーレイが来た日は、他にも「お茶の時間」がある。
だから「足りない」と思うことなど、本当に滅多に無いのだけれど…。
(…今夜は、珍しいパターン…)
夕食のメニューが、消化が良すぎるものだったろうか。
おやつに食べた母のケーキも、アッと言う間に胃袋を通り過ぎたのだろうか。
こんな時間に「お腹が空いた」と感じるくらいに。
いつもだったら「そろそろ、お風呂に入って寝なきゃ」と思う時間に。
(…えーと…?)
ほんの僅かな空腹感。
きっとクッキーを一枚だとか、その程度で治まる腹の虫。
そうはいっても、この部屋には…。
(……今は、なんにも無いんだよ……)
普段から夜食の習慣は無いし、部屋に食べ物を置いてもいない。
前にハーレイがくれたクッキー、あれが今でもあったなら…。
(…瓶を開けて、一枚、食べるのに…)
生憎と、とうに食べ尽くした後。
ハーレイに貰った、とても美味しいクッキーは。
柔道部員用に買うのだと聞いた、徳用袋の、割れたり欠けたりしたものは。
口に入れるものが部屋に無いなら、「食べに行く」しか無いだろう。
まだ両親は起きているから、階段を下りて一階へ。
キッチンを覗いて何か探すか、「ママ、何か無い?」と尋ねるか。
(…作って貰うって程じゃないから…)
夜食が欲しいとまでは思わないし、母の手を煩わせはしない筈。
自分で探して食べる方にせよ、母に尋ねてみる方にせよ。
(…やっぱり、何か食べないと…)
お腹は空いてゆくだけだろう。
朝食までには、まだまだ時間があるのだから。
壁の時計を確かめてみても、八時間どころでは済まない時間が。
(もっと夜中になっちゃってから…)
お腹が空いた、と下りて行ったら、階段を下りる足音で…。
(パパとママが、目を覚ましちゃって…)
下まで様子を見に来るだろうし、そうなれば迷惑がかかってしまう。
両親の眠りを破った上に、ベッドから階下までやって来させて。
(…それじゃ、パパとママに悪いよね…?)
夜の夜中に、自分の勝手で「食べに出掛けて」起こすだなんて。
早い時間に食べておいたら、そんなことにはならないのに。
(……晩御飯、足りなかったのか、って……)
どうせ同じに笑われるのなら、「迷惑は抜き」にしたいもの。
今だったならば、笑い話で済むのだから。
「珍しいな」と父が笑って、母も可笑しそうな瞳になって。
(…食べるなら、今…)
何でもいいから、食べられれば…、と机の前から立ち上がった。
部屋の扉を開けて廊下を歩いて、階段をトントン下りて行ったら…。
「あら、ブルー。もうお風呂?」
今日は早いわね、と母とバッタリ出くわした。
確かに、お風呂には些か早い。
けれども、丁度いいとばかりに、母に尋ねた。
「ママ、クッキーか何かある?」
「…クッキー?」
「うん。…お腹、ちょっぴり空いちゃって…」
クッキーが一枚あればいいんだけれど、と正直に話したお腹の事情。
母は「あらあら…」と目を丸くして、「珍しいわね」と予想通りの言葉。
「ブルーが、「お腹が減った」だなんて…。でも、いいことだわ」
食べた分だけ育つものね、と母は早速用意してくれた。
「好きなのを取って食べなさい」と、クッキーが何枚も入った箱を。
「ありがとう、ママ!」
ズラリと並んだ色々なクッキー。
綺麗なパッケージに一枚ずつ入って、味も形も様々なもの。
(……んーと……?)
どれがいいかな、と暫し迷って、軽めのものを選び出した。
口の中でほろりとほどけるタイプで、どっしりと重くないものを。
「それにするのね? ホットミルクかココアも飲む?」
「…いいの?」
「いいわよ、ママも飲もうと思っていたから」
パパはコーヒーにするんですって、とホットココアを入れてくれた母。
ダイニングのテーブルで、思いがけない「夜のお茶の時間」。
両親も一緒に、クッキーを食べて。
父に「一枚だけでいいのか?」と、からかわれながら。
クッキーが一枚と、ホットココアと。
空腹感はすっかり消えて無くなり、代わりに満ちた充足感。
「御馳走様!」と部屋に戻って、机の前に腰掛けた。
(…食べに下りて行って、良かったよね…)
お風呂の方は、もう少し後でいいだろう。
食べて直ぐより、その方がきっと、身体にもいい筈だから。
(夜中に下に下りて行っても、ホットココアは…)
母に入れては貰えないから、本当にタイミングが良かったと思う。
それにクッキーが一枚だけでも、お茶の時間は幸せ一杯。
「珍しいな」と父に笑われたって。
「もっと食べないと、早く大きくなれないぞ?」と、からかわれたって。
(……どうせ、ぼくの背……)
一ミリだって伸びないもんね、と心で嘆いた所で、掠めた記憶。
遠く遥かな時の彼方で、「前の自分」が見て来たもの。
(…あの頃は、前のぼくもチビ…)
今と同じにチビだったっけ、と思い出す。
アルタミラの檻で長く成長を止めて、心も身体も子供のまま。
成長したって、「いいこと」は何も無いだろうから。
「育つだけ無駄だ」と何処かで思って、無意識の間に止まった成長。
メギドの炎で燃えるアルタミラから脱出した時、船では一番のチビだった。
正確に言うなら、ただ一人だけの「子供」でもあった。
他の仲間は、とうに大人になっていたから。
実験動物にされてしまっても、檻の中で成長し続けていて。
(……ぼくだけ、ホントにチビだったから……)
ハーレイたちは、せっせと育ててくれた。
「早く大きくならないと」と、心も身体も、ちゃんと大人になるように。
食事を多めに食べさせてみたり、散歩に誘って運動させたり。
(……あの船の食事……)
一番最初に食べた食事は、非常食だった。
パッケージを開ければ膨らむパンと、火傷しそうなくらいに温まる料理。
檻で食べていた「餌」とは違って、どれほど美味しく感じたことか。
けれど、人とは不思議な生き物。
いつの間にか「食事」に慣れてしまって、非常食よりも…。
(厨房でコトコト煮込んだものとか、焼き立てのパンとか…)
そちらの方が好みになって、忘れ去られた非常食。
朝昼晩と、毎日、「食事」を食べる間に。
前のハーレイたちが作った、色々な料理を味わう内に。
(…だけど、食料…)
誰も気付いていなかったけれど、近付いて来ていた「終わりの時」。
船の倉庫に山と積まれた食料、その山は、日々、減ってゆく。
何処からも補給の船は来ないし、補給のために宙港に降りることも無いから。
SD体制の異分子のミュウは、そんなことなど出来ないから。
(……人類軍の船に会ったら終わりで……)
船ごと沈められて、おしまい。
そうなるのが先か、食料が尽きて、飢え死にするのが先になるのか。
(…前のハーレイ、それに気付いて…)
一人で心を悩ませていた。
ある日、ポツリと零したほどに。
「もうすぐ、食料が尽きちまうんだ」と、チビだった頃の前の自分に。
(……食料が尽きてしまったら……)
みんな飢え死にするのだけれども、それよりも先に起こりそうなこと。
「お前は食べろ」と、ハーレイたちが譲ってくれそうな食事。
飢え死にするのが「一番最後」になるように。
チビの子供は、少しでも長く生かしておいてやりたいから、と。
(……やだよ、そんなの……)
そんなのは嫌だ、と心の底から思ったから。
前のハーレイや船の仲間たちを、飢え死にさせたくなかったから…。
(……御飯、何処かで貰って来よう、って……)
生身で宇宙へ飛び出して行った。
たった一人で、輸送船から食料を奪って帰ろうと。
そして本当に奪って戻った、コンテナにぎっしり詰まった食料。
船の仲間たちは死なないで済んで、前のハーレイは厨房で料理を続けた。
「文句を言わずに、ちゃんと食えよ!」と、食材が偏ってしまった時も。
ジャガイモ地獄やキャベツ地獄で、船の仲間が音を上げた時も。
(…だけど、今だと…)
お腹が減っても大丈夫、と浮かんだ笑み。
人間がみんなミュウになっている今の時代は、誰も飢え死にしたりはしない。
夜に突然お腹が減っても、ちゃんとクッキーが食べられたりする。
(……ハーレイだって、おんなじだよね?)
今頃は何か食べているかも、と思い描いた愛おしい人。
「ハーレイなら、カップ麺かもね?」と。
それとも何か作っているのか、出来た料理を食べているのか。
平和な青い地球の上では、もう飢えたりはしないから。
前の自分が焦がれ続けた青い水の星は、もはや「夢」ではなくなったから…。
お腹が減っても・了
※夜にお腹が減ってしまったブルー君。食べに出掛けて、クッキーを一枚、それで満足。
けれども、前の生では違った事情。お腹が減ったら直ぐに食べられる今は、幸せv