(…うーむ……)
なんだか小腹が空いたような…、とハーレイが軽く傾げた首。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で。
(コーヒーだったら、此処にあるんだが…)
少しばかり冷めて来ていても、と眺める愛用のマグカップ。
夕食の後に淹れたコーヒー、いつものようにたっぷりと。
それをお供に、のんびり読書の真っ最中。
(しかし、その前に…)
ひと仕事、片付けたのだった。
学校から持って帰ったプリント、教え子たちに出した課題の採点。
さほど労力は要らないけれども、頭は使うのかもしれない。
(採点だけで済ませるんなら、世話要らずだが…)
それでは生徒のやる気が出ないし、必ず一言、書き添える主義。
「次も頑張れ」とか、「この調子だ」とか。
ブルーのような優等生には、点数だけでいいのだけれど。
(下から数えた方が早いようなヤツは、励みが無いと…)
「どうせ駄目だ」と手抜きでサボリ。
すると下がってゆく成績。
下がり始めたら、ますます「やる気」を失くして、一番下まで真っ逆様に…。
(…落ちちまうから、怖いんだ)
そうならないようサポートするのも、教師の役目。
だから一言、添えてやる。
生徒の顔を思い出しながら、その子に相応しいものを。
お茶目な子ならば、そのように。
とても真面目な生徒だったら、頑張りを後押し出来るようにと。
(……一種の頭脳労働ではあるな)
授業ほどでは無いんだが…、と思い返した仕事の内容。
普段よりは頭を使っただろう。
本を読むだけの夜よりは。
お気に入りの本や、買ったばかりの本を読み耽る夜に比べて。
(頭を使うと、エネルギーが要るわけだから…)
腹が減っても不思議ではない。
柔道や水泳などとは違って、目に見える形で使うのとは異なるエネルギー。
(俺も、それほど詳しくはないが…)
脳味噌を使って何かしたなら、相応のエネルギーを消費する。
すると欲しくなる、減った分だけのエネルギー。
甘い物だったり、夜食だったりと。
(…何か食うかな…)
コーヒーだけでは腹は膨れん、と飲み干したカップのコーヒーの残り。
やはり減らない、空腹感。
(こういった時は、食わんとな?)
でないと眠れないじゃないか、と椅子から立ち上がった。
「腹が減った」と思いながらでは、質のいい睡眠は得られない。
考えなくても分かることだから、胃袋に何か入れるべき。
空腹感が消える何かを。
「食った」と満足できる何かを、使ったエネルギーの分だけ。
書斎に食料は置いていないし、灯りを消して、向かったキッチン。
空のマグカップをサッと洗って、干すための籠に置いてやる。
(こいつは、今夜はお役御免だ)
明日の朝まで出番は無いな、と別れを告げて、キッチンの中を眺め回した。
いったい何を食べようかと。
「小腹が空いた」といった気分に、何が一番、合うだろうかと。
(…ベーコンエッグは…)
どちらかと言えば朝食向け。
チーズやサラダは、一緒に酒が欲しくなる。
(酒まではなあ…)
要らないからな、と考える内に、頭にポンと浮かんだもの。
湯を注ぐだけで出来る食べ物、いわゆるカップ麺。
(うん、それでいいな)
あれなら確かに腹が膨れる、と戸棚を開けて、取り出した一個。
こういう夜には食べたくなるから、幾つかは常に買ってある。
(あとは湯を沸かして…)
注いで、少し待つだけだよな、と進めた準備。
じきにグラグラと湯が沸き立って、ケトルから勢いよく注いだ。
「ここまで入れて下さい」と引かれた線まで、キッチリと。
待つこと三分、蓋を開けたら…。
(出来上がり、ってな!)
実に簡単で美味いんだ、とカップ麺の匂いに惹き付けられる。
流石に腹は鳴らないけれども、「待ってました」と喜ぶ腹の虫。
「ご主人様、早く食べましょうよ」と御機嫌で。
どうということもない、カップ麺。
特別高いわけでもなければ、期間限定品でもない。
定番中の定番だけれど、この味わいは気に入っている。
(なんたって、飽きが来ないんだ…)
ロングセラーの品だけはある、と二本の箸で口に運ぶ麺。
合間に熱いスープも啜って、腹の虫を満足させてゆく。
もちろん自分の空腹感も、たちまち綺麗に消えてゆくのが面白い。
(これだから、非常食ってヤツは…)
欠かせないんだ、と思った所で、遠い記憶が反応した。
遥か彼方の時の向こうで、「前の自分」が見て来たものが。
(……非常食……)
それが最初の「食事」だった。
メギドの炎で燃えるアルタミラ、其処を脱出した後の船で。
皆に配られ、パッケージの封を切って食べたもの。
開けるだけでふんわり膨らむパンや、たちまち温まるものを。
(…最高に美味いと思ったモンだが…)
人というのは、不思議な生き物。
実験動物だった時代の「餌」に比べれば、非常食は素晴らしい御馳走なのに…。
(じきに慣れちまって、調理したものが欲しくなるんだ)
食材から用意するものが。
鍋でコトコト煮込んだシチューや、焼き上がったばかりのパンなどが。
(どうやら俺は、料理に向いてて…)
厨房の担当者になった。
船の仲間たちの胃袋のために、毎日、食事を作る係に。
食料品が積み上げられた倉庫で、何が出来るか、考えて。
「今日はこれだ」と選び出したものを、調理して「料理」の形に変えて。
(…順調にいってたんだがな…)
アルタミラが在った宙域を遠く離れて、暗い宇宙を航行する船。
人類軍とも出会うことなく、穏やかな日々が流れていった。
船の中を整理し、暮らしやすいよう、色々な工夫などをして。
誰もが満足だったけれども、「その日」は、突然、やって来た。
本当の所は「突然」ではなく、いつか必ず訪れる「必然」。
誰も気付いていなかっただけで、考えさえもしなかっただけ。
(…食料ってヤツは、食えば減るんだ…)
食べた分だけ、調理されて胃袋に消えた分だけ。
非常食だろうと、食材だろうと、どちらも同じに減ってゆく。
そして追加の分が来ないなら、食料は、いずれ底を尽く。
食料品用の倉庫に山と積まれていても。
今は「どれから料理すればいいか」と眺めてはいても、悩む余地さえ無くなっていって。
(…船のヤツらの数を考えれば、いつになったら全部、消えちまうのか…)
前の自分には、すぐに分かった。
「終わりの日」が遠くないことが。
暗い宇宙を飛んでゆくミュウたちの船に、食料の補給などは無い。
これが人類の船だったならば、いつでも補給できるのに。
近い惑星に降りてもいいし、救難信号を出すことも出来る。
「食料が尽きてしまいそうだ」と、「補給を頼む」と。
けれども、ミュウに「それ」は出来ない。
アルタミラで星ごと殲滅されそうになった、SD体制の異分子には。
人類軍と出会ったが最後、沈められるだけの「ミュウの船」では。
あの時の恐怖を、忘れはしない。
「じきに終わりだ」と、背筋がゾクリと凍えたことも。
終わりが来ると分かってはいても、打つ手など、ありはしなかった。
何処からも補給する手段は無くて、食料は、日々、減ってゆくだけ。
どんなに切り詰めて使っていっても、終わりの時を先延ばし出来るというだけで…。
(……終わりが来ないわけじゃないんだ……)
それが、どれほど恐ろしかったか。
滅びの時がやって来るのに、仲間たちには明かせない。
せっかく自由を手に入れたのに、「もうすぐ終わりが来るのだ」とは。
少しでも長く「自由な暮らし」を味わって欲しい、と思ったから。
(…誰にも言えん、と思ったんだが…)
自分一人の胸だけに秘めて、黙っておこうと決意したのに…。
(ついつい、あいつに話しちまった…)
時の彼方で、前のブルーに。
「もうすぐ食料が尽きちまうんだ」と、「本当のこと」を。
(……そうしたら……)
ブルーは飛び出して行ってしまった。
「ぼくが食料を手に入れるから」と、生身のままで、暗い宇宙に。
そして持ち帰ってくれた食料。
コンテナいっぱいに詰まっていた「それ」、あの有難さを…。
(…今でも、忘れちゃいないんだがな…)
贅沢な時代になったもんだ、とカップ麺をしみじみ見詰めて頷く。
「小腹が空いた」と思った時には、こんな具合に「食べられる」何か。
カップ麺でも、自分で料理をするにしたって。
(…腹が減っても、飢え死にすることは無いんだ、今は…)
店にだって食べに行けるんだしな、と浮かんだ笑み。
夜の夜中も、開いている店は多いから。
「食べに行くか」と車を出したら、様々な料理が食べられるから。
しかも、憧れの青い地球の上で。
前のブルーが焦がれ続けた、あの頃は宇宙の何処にも無かった、青い水の星で…。
腹が減っても・了
※ハーレイ先生の夜食のカップ麺。思い付いたら、お湯を沸かして注ぐだけ。
お腹が減ったら、いつでも食べられるんですけれど…。前の生と比べてみると、贅沢な今。