(……ハーレイ、来てくれなかったよ……)
待ってたのに、と小さなブルーが零した溜息。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は来てくれなかったハーレイ、前の生から愛した恋人。
青い地球の上に生まれ変わって、また巡り会えた愛おしい人。
遠く遥かな時の彼方では、同じ白い船で暮らしていた。
ソルジャーとキャプテン、そんな肩書きに隔てられていても。
誰にも恋を明かせないまま、命を失くしてしまったけれど。
(…だけど、いつでも夜は一緒で…)
今のように離れて暮らすことなど、ただの一度も無かった時代。
ソルジャーだった自分は青の間、ハーレイにはキャプテンの部屋があっても。
(…夜になったら、ハーレイが青の間に来てくれて…)
朝まで二人で過ごしていた。
愛を交わして共に眠って、シャングリラに朝が訪れるまで。
船の中には、朝の光が差さなくても。
雲海に潜んだ白い船からは、昇る朝日が見えなくても。
(…ハーレイが仕事で遅くなった日も、ぼくが眠ってしまった後に…)
ちゃんと来てくれていた、前のハーレイ。
朝、目覚めたら、隣にハーレイの姿があった。
「おはようございます」と微笑んで。
「じきに朝食の時間ですよ」と、優しいキスを贈ってくれて。
(…ハーレイはいないし、キスも貰えないし…)
寂しいよね、と思ってしまう。
今の自分がチビでなければ、一緒に暮らせたのだろうに。
ハーレイと出会って、前の自分の記憶が戻ってくれた途端に。
聖痕はとても痛かったけれど、あれが「ハーレイ」を連れて来てくれて。
(俺のブルーだ、って抱き締めてくれて…)
きっと、直ぐにでもプロポーズ。
こうして離れて暮らす代わりに、同じ家で共に暮らせるように。
今のハーレイが一人でいる家、其処へ「お嫁さん」として迎えるために。
けれど、世の中、上手くいかない。
生まれ変わった自分はチビで、十四歳にしかならない子供。
ハーレイはキスさえしてはくれずに、子供扱いするばかり。
「俺は子供にキスはしない」だとか、「キスは駄目だと言ってるよな?」と叱るとか。
おまけに一緒に暮らせはしなくて、今日のように会えない日だって多い。
ハーレイの仕事が忙しい日は、帰りに寄ってはくれないから。
学校では顔を合わせられても、あくまで教師と生徒の関係。
「ハーレイ先生!」と呼び掛けるのが精一杯。
運よく立ち話などが出来ても、話題は他の生徒たちのと変わらない。
「元気そうだな」とか、「次の授業は何なんだ?」とか。
恋人同士の会話は出来ずに、挨拶をして別れるだけ。
今日もやっぱり、そうだった。
廊下で出会って、「ハーレイ先生!」とペコリとお辞儀。
それから少し言葉を交わして、右と左に別れて行った。
ハーレイは、次の授業をするクラスへと。
自分の方も、授業を受けに教室へと。
(……こんな日ばっかり……)
どうしてなの、と頬を膨らませていたら、不意に背中に感じた違和感。
「あれ?」と思った時には、痒くなっていた。
蚊の羽音などはしなかったのに。
チクンと刺された痛みなんかも、まるで覚えは無いというのに。
(…背中の真ん中…)
うんと痒い、と自分の背中が訴えてくる。
蚊に刺されたというわけではないなら、パジャマが悪さをしたろうか。
痒くなるような生地ではなくても、ほんのちょっぴり。
背中の柔らかな肌の何処かに、繊維が擦れて悪戯をして。
(……痒いんだけど……!)
なんで背中、と慌てて右手を突っ込んだ。
早くバリバリと掻きたくて。
痒い辺りを掻き毟ろうと、パジャマの襟の所から。
直ぐに掻けると思った背中。
ところが右手は届いてくれずに、ただ痒さだけが増してゆく。
「此処までおいで」と、ペロリと舌を出すかのように。
「掻けるものなら掻いてみろ」と、「あっかんべー」とするかのように。
(……届かないよ……!)
右手じゃ届かない所が痒い、と左手の力を借りることにした。
「こっちは引退」と右手を引っ込め、代わりに左の手を突っ込んで。
けれど、やっぱり届いてくれない。
痒い所は、もう少しばかり右の方だという気がする。
(ぼく、焦っていて間違えた…?)
右手のままで良かったのかな、と再び右手の出番。
それでバリバリ掻こうとしたって、届きはしないものだから…。
(…首の方から掻くのが間違い?)
下から掻けば良かったかも、とパジャマの上着の裾から攻めた。
上に向かって掻けるようにと、右手を入れて。
今度こそバリバリ掻けるだろうと、腕を伸ばして。
(……あとちょっと……)
もうちょっとなのに、と頑張ってみても、掻けない背中。
ただ痒みだけがググンと増して。
「掻けない」ことで、余計に痒いように感じて。
(……うー……)
こんなの、我慢出来やしない、と立ち上がって部屋の外に出た。
まだ両親は起きているから、背中を掻いて貰おうと。
ダイニングにいるか、リビングにいるか、二人とも、きっと一階にいる。
(…パパでも、ママでもかまわないから…)
背中を掻いて、と急いで駆け下りて行った階段。
「パパー!」と、父を呼びながら。
「ママでもいいよ!」と、声を張り上げて。
少しでも早く掻いて欲しいし、助けを呼ぶならこれが一番。
二人とも直ぐに声に気付いて、こっちに駆けて来るだろうから。
「どうした、ブルー!?」
「何があったの!?」
リビングの扉がバタンと開いて、揃って飛び出して来た両親。
何事なのかと血相を変えて、一人息子の様子を見に。
「え、えっと…。背中、痒くて…」
掻いてちょうだい、と背中を向けたら、両親はプッと吹き出した。
「なんだ、背中が痒かったのか…。どうしたのかと思ったぞ」
「ママもよ。怪我でもしちゃったのかとビックリしたわ」
でも背中なのね、と母が笑って、父は「どっちがいい?」と尋ねた。
「パパが掻いたら、痛すぎるかもしれないぞ。…パパかママか、どっちにしたいんだ?」
「ん、んーと…。痛いのは嫌かも…」
「じゃあ、ママだな。…掻いて貰いなさい」
ママ、と父が促してくれて、母が「どの辺?」と優しく微笑む。
「何処が痒いの? 手が届かないのなら、真ん中かしら?」
「そう…。この辺の…」
上手く説明できないけれど、と指で差したら、母は「いいわよ」と襟元から手を突っ込んだ。
「この辺ね。もっと下? それとも右?」
「…もうちょっと下…。ううん、其処じゃなくて…」
何度か注文を繰り返した末に、痒い所を母が捕まえた。
「其処!」と叫んで、バリバリと掻いて貰った背中。
「痒いから、もっと強く掻いて」と、「大丈夫、痛くないから」と。
(…パパだったら、痛いかもだけど…)
ママだから気持ちいいだけだよね、と目を細めながら、痒みが引いてゆくのを感じる。
母の手が掻いてくれる度に。
「ブルー、本当に痛くないの?」と、気遣う声がする度に。
そうして痒くなくなったから、「もういいよ」と母に笑顔を向けた。
「ありがとう! 痒いの、収まったよ」
「良かったわ。何かに刺されたわけでもないわね」
そういう痕はついていないわ、と母は背中を確かめてくれた。
パジャマの上着の裾をめくって、父と二人で眺め回して。
何かに刺されたわけではないなら、痒さが収まれば、もう安心。
両親に「早くベッドに入りなさい」と急かされたから、「うん」と素直に頷いた。
「おやすみなさい。…ビックリさせちゃって、ごめん」
「いや、いいが…。痒いものは仕方ないからな」
「そうよ、自分じゃ掻けないんだもの」
おやすみなさい、と両親に見送られて、トントンと上って行った階段。
二階に戻って部屋に入って、ベッドに座ってホッと一息。
(…もう痒くないよ…)
パパたちがいてくれて、ホントに良かった、と嬉しくなる。
一人きりなら、痒い背中を抱えたままでいただろう。
掻いて欲しくても、誰もいないから。
「パパ、お願い!」とも、「ママでもいいから!」とも、助けを呼べはしないから。
(……一人暮らしじゃなくて良かった……)
痒い時には困るもんね、と思った所で気が付いた。
一人暮らしをしている恋人、今日は来なかったハーレイのこと。
(…ハーレイ、どうしているんだろ…?)
さっき自分がそうなったように、背中が急に痒くなったら。
バリバリと手で掻きたくなっても、痒い場所に手が届かなかったら。
(……もしかして、我慢するしかないの……?)
掻いてくれる人が家にいないのなら、そうなるだろう。
「こりゃたまらんな」と顔を顰めて、痒みが去るまで我慢するだけ。
きっとハーレイはそういう暮らしで、今日も困っていたかもしれない。
「痒いんだが、手が届かんな」と、痒くてたまらない背中を相手に。
(……一人暮らしって、大変なんだ……)
背中を掻いてくれる人もいないよ、と今のハーレイの境遇を思う。
キスもくれないケチだけれども、どうやら苦労をしているらしい、と。
(…もうちょっとだけ、我慢しててね…)
何年かしたら、ぼくが行くよ、と浮かべた笑み。
ハーレイのお嫁さんになったら、同じ家で暮らしてゆくことが出来る。
二人一緒に暮らしているなら、ハーレイの背中が痒い時には…。
(ぼくに任せて、って手を突っ込んで…)
バリバリと掻いてあげられるよね、と夢見る未来。
それに自分も掻いて貰えるし、早くその日が来ればいい。
痒い時には、お互いに助け合える日が。
「背中が痒い」と言いさえしたなら、ハーレイも自分も、バリバリと掻いて貰える時が…。
痒い時には・了
※背中が痒くなったブルー君。自分では掻けなくて、お母さんに掻いて貰うことに。
痒みは無事に収まったものの、一人暮らしのハーレイが心配。早くお嫁に行かないと…v