(……うーむ……)
困ったな、とハーレイが眉間に寄せた皺。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で。
愛用のマグカップに淹れた熱いコーヒー、困った件は、それとは別。
「そういえば…」と気になった来週の予定のこと。
(…何も考えずに引き受けちまった…)
俺としたことが、と唸る失態。
同じ古典の教師の一人が、出る予定になっていた会議。
ところが用が出来たと言うから、「私が出ますよ」と引き受けた代理。
困った時はお互い様だし、いつか自分が「お願いします」と頼む日だってあるだろう。
今日までに勤めた幾つもの学校、其処で経験済みだから。
(…引き受けたまではいいんだが…)
その日には何の予定も無いから、「いいですよ」と名乗りを上げた。
わざわざ手帳を開かなくても、「用のある日」は把握している。
だから引き受けたのだけれども、その日の予定が空いていただけで…。
(…前の日は、俺が研修でだな…)
代わりに会議に出る次の日は、自分が出席する会議。
それも放課後、代理を引き受けた会議も放課後。
(…研修の日は、学校に戻れそうにないしな…)
つまり続けて三日もの間、自由にならない放課後の時間。
ブルーの家にも寄れはしなくて、きっとブルーは膨れっ面。
「今日もハーレイ、来なかったよ」と唇を尖らせて怒っているか、残念がるか。
十四歳にしかならないチビの恋人、寂しがるのも無理はない。
けれど、問題はブルーのことではなくて…。
(…柔道部の指導が、三日もお留守になっちまう…)
そいつはマズイ、と考え込んだ。
部員だけでも稽古は出来るし、会議の日なら、朝練の時に指導も出来る。
放課後の活動内容の方も、「こうするように」と指示してはおける。
「俺の指導の通りにしろよ」と、徹底するよう、睨みもして。
柔道部の活動で心配なのが、生徒の怪我。
顧問の自分がついていたって、時には起こりがちなもの。
まして「顧問が不在」となったら、部員たちは無茶をしかねない。
実力以上の技を使って、挙句に自分が怪我をするとか、相手に怪我をさせるとか。
(…これが、よくあることなんだ…)
お目付け役が三日もいないと、三日目には何が起こることやら。
そちらの方も心配な上に、気がかりなのが「伸びている」部員。
順調に力をつけているから、ここぞとばかりに指導中。
その「彼」に稽古をつけてやれない。
三日もの間、不在だから。
彼に指導をしてやりたくても、「自分」は二人いないから。
(…どうしたもんだか…)
本当にウッカリしていたな、と後悔しても始まらない。
一度引き受けた会議の代理を、更に「他の誰か」に回すことなど、論外だけに。
(……三日のブランクは大きいぞ……)
自分にも経験があるから分かる。
子供時代に家族と旅行に出掛けた後には、明らかに落ちていた実力。
旅先で柔道の稽古はしないし、どうしても鈍ってしまった技。
流石に今では、そんなことなど無いけれど。
もう安定して「強い」けれども、そうなるまでの道は長いもの。
せっかく強くなれそうな部員、大きく伸びるチャンスを三日も失うと…。
(…取り戻すには、三日で済みやしないんだ…)
彼が稽古に熱心なだけに、なんとも惜しい。
しかも「稽古が出来なくなる」のは、自分のせい。
あの時、手帳を広げていたなら、直ぐに「駄目だ」と気付いたろうに。
何も予定は無い日であっても、「其処は柔道部に行かないと」と。
(……弱ったな……)
誰か代わりの者がいれば、と思ってはみても、代わりになれる教師はいない。
何処の学校へ赴任した時も、着任するなり任されたのが柔道部やら、水泳部。
「ハーレイ先生なら、間違いないから」と、プロ級の腕に期待をされて。
今の学校でも、そうだった。
少し遅れて着任したのに、それまで顧問をしていた者から引き継いだのが柔道部。
(…あの先生なら、いるんだが…)
素人だしな、と零れる溜息。
柔道に関しては、まるで素人だったのが前任者。
やっていたのは他のスポーツ、サッカーだったか、バスケットボールだったか。
(運動だけは出来るもんだから…)
柔道部の顧問をしていただけで、直接、指導に入ってはいない。
部員たちの稽古に目を光らせて、怪我をしないよう見張るのが仕事だっただけ。
(…三日間、監視は頼めたとしても…)
指導が出来なきゃ、どうにもならん、と「伸びつつある部員」の顔を思い浮かべる。
三日間、指導が出来ないばかりに、どれほどの損をさせてしまうことか。
彼自身には自覚が無くても、その三日間が「もったいない」。
(…週末だったら、道場で習っているんだが…)
大抵の柔道部員はそうだし、「彼」も土日は家の近くの道場に行く。
その道場に任せられるなら安心だけれど、平日の稽古は柔道部になっているものだから…。
(あいつだけ、そっちに行けというのも…)
変な話で、他の部員にも公平ではない。
だから「なんとかしたい」とはいえ、入れてしまった会議の予定は変えられない。
自分の身体も二つ無いから、「会議も、それに柔道部も」と欲張るのは無理。
(……迂闊だったな……)
なんとも困った、と額を軽くコツンと叩く。
「ウッカリ者め」と、「ちゃんと手帳を見ないからだ」と叱り付けるように。
そうした所で、どうなるわけでもないけれど。
分身の術など使えはしないし、三日間の間、柔道部の方は指導者不在。
(…どうにもならんな…)
俺のミスだ、と少し冷めかけたコーヒーを傾け、ハタと膝を打った。
「そうだ、あの手があるじゃないか!」と。
自分は「二人いない」けれども、「柔道に強い」者なら何人もいる、と。
(道場のヤツらに頼めばいいんだ…!)
いわゆる出稽古、たまに下の学校に教えに行ったりするのが道場の仲間。
彼らは「教える」のが仕事なのだし、手が空いている者もいるだろう。
(…来てくれる分の費用は、俺が支払いさえすれば…)
学校も文句を言いはしないし、むしろ歓迎かもしれない。
三日間も顧問が不在になるより、「腕に覚えの柔道の達人」が来てくれるなら。
(よし…!)
それだ、と急いで通信機のある部屋に走った。
この時間でも、道場の仲間に連絡はつく。
誰にしようか少し迷って、「こいつでいいか」と入れた通信。
呼び出し音の後に、彼の声が「はい?」と聞こえたものだから…。
「急な話で申し訳ないが、来週、誰か、空いていないか?」
俺の学校で指導を頼みたい、と通信しながら頭を下げたら、「いいぞ」と返って来た答え。
「俺が行こう」と、早速に。
「来週なら、俺が空いているから。…しかし、いきなり、どうしたんだ?」
「それがだな…。ついウッカリと、下手に予定を入れちまって…」
こういうわけだ、と事情を話して、「よろしく頼む」と費用などのことを尋ねたら…。
「水臭いヤツだな、そんなのは要らん。困った時はお互い様だろ?」
お前もそれで会議の代理に行くんだろうが、と豪快に笑い飛ばした相手。
「俺ならタダでかまわないぞ」と、「後進の指導もいいもんだ」と。
こうして決まった、「顧問の代理」。
彼が来たなら、部員たちも喜ぶことだろう。
(…俺と違って、道場の師匠というヤツだしな?)
実力は俺と変わらないが…、と分かってはいても、重みが違う。
「顧問の教師」と、「道場で教えている師匠」では。
(…これで来週も安心だ)
柔道部も会議も両立したぞ、と嬉しくなる。
自分は二人いないけれども、代わりの者が来てくれるから。
「困った時はお互い様だ」と、引き受けてくれた道場仲間が。
ホッと息をつき、傾けたカップ。
コーヒーはすっかり冷めているけれど、その甲斐はあった。
(俺が抜ける分を、埋めて貰えることになったし…)
ブルーが膨れるだけで済むな、と思った所で気が付いた。
「今の自分」が困った時は、どれほどの者が「自分を助けてくれる」のかと。
「困った時はお互い様だ」と、何人が「代わりをしてくれる」のか。
(…一人や二人どころじゃないぞ?)
シャングリラの頃とは、まるで違うな…、と浮かんだ笑み。
あの頃は、誰もいはしなかった。
キャプテンの代わりが務まる者など、ただの一人も。
(…だからブルーも、俺にジョミーを託して行って…)
俺はシャングリラに残されちまった、と思い返して、今の幸せを噛み締める。
ブルーが膨れっ面になろうと、「自分の代わり」は見付かったから。
ただそれだけのことが嬉しい。
困った時は、お互い様。
そう言ってくれる者が何人もいるし、何人もが助けてくれるのだから…。
困った時は・了
※ついウッカリと予定を入れてしまった、ハーレイ先生。困っていたんですけれど…。
「お互い様だ」と代理を引き受けてくれた、道場の仲間。それだけのことが、嬉しい今v