(んーと…)
いい匂い、と小さなブルーが浮かべた笑み。
学校から帰って、家の門扉をくぐって、直ぐに。
キッチンの方から漂う匂い。
きっと焼き立てのケーキの匂いで、この感じだと…。
(ハーレイの好きな、パウンドケーキ!)
あれだよね、と嬉しくなる。
母が焼き上げるパウンドケーキは、ハーレイの大好物だから。
(ハーレイのお母さんが焼くのと、おんなじ味で…)
いわば、ハーレイの「おふくろの味」。
焼いているのは別人なのに、ハーレイにとっては「懐かしい味」。
食べる前から、もう本当に喜んでいるのが分かる。
鳶色の瞳に宿る光も、笑みを湛えている唇も。
(どうしてママのが、同じ味かは分かんないけど…)
不思議なことに、ハーレイの母のパウンドケーキに瓜二つ。
「おふくろが焼いて、コッソリ届けに来たのかと思ったぞ」とハーレイが言ったくらいに。
パウンドケーキを目にする度に、「おっ!」と瞳が輝くほどに。
(いつかは、ぼくもママに焼き方、教わって…)
同じ味のを焼けるようになるのが、目標の一つ。
ハーレイの家へ「お嫁に行く」なら、取り柄がないと、と思うから。
「おかえりなさい!」と迎えた時に、「焼いてくれたのか?」と笑顔になって欲しいから。
そのハーレイは、今日は来るのか、来ないのか。
まるで全く分からないけれど、もし、ハーレイが来なくても…。
(今日のおやつは、パウンドケーキで…)
大好きな味が食べられる。
あれがハーレイの大好物だと知った時から、パウンドケーキは、とても特別。
ただし、「母の」に限るのだけれど。
他の誰かが焼いたものでは、話にならないパウンドケーキ。
どんなに「美味しい」と評判の店の、パウンドケーキを貰っても。
ご近所さんや母の友達、そういう人から「作りましたから」と届けて貰っても。
やっぱりママのケーキでないと、と思う「特別な」パウンドケーキ。
ハーレイの母が作るケーキと、全く同じ味だから。
レシピ通りに作ってみたって、ハーレイには真似の出来ないケーキ。
何度も挑戦したらしいのに。
隣町に住んでいるハーレイの母に、レシピもコツも、何度も尋ねたらしいのに。
(…作る人の癖が出るんだろう、って…)
ハーレイは、そう言っている。
卵と小麦粉、それに砂糖とバター。
全部の材料を一ポンドずつ、使って作るから「パウンド」ケーキ。
単純なレシピのケーキだからこそ、味が変わってくるのだろうと。
材料を合わせる時の加減や、混ぜる力の違いなどで。
(ハーレイには、お母さんの真似は無理みたいだけど…)
自分にも「無理」かもしれないけれども、それでもマスターしてみたい。
ハーレイが顔を綻ばせる味、「おふくろの味」のパウンドケーキの焼き方を。
家に帰って来たハーレイが、見ただけで喜んでくれるケーキの作り方を。
(だけど、ママには、まだ言えないし…)
教われはしない、パウンドケーキの作り方。
「ぼくにも教えて」と言おうものなら、「どうしたの?」と訊かれてしまう。
学校の調理実習だったら、家でわざわざ教わらなくても、授業で説明してくれるもの。
「こういう風に作りましょうね」と、時にはプリントなども配って。
(…調理実習の予習なんだよ、って誤魔化せば…)
母は教えてくれるだろうけれど、「予習」出来るのは一回だけ。
「後は学校で教わった方がいいと思うわよ」と、励ましの言葉を貰いもして。
(…テスト勉強なら、何回したっていいけれど…)
調理実習の予習なんかは、一回もすれば充分なもの。
第一、誰も「予習」をしたりはしない。
ぶっつけ本番、今日までの「自分」もそうだった。
作る料理の予告があっても、「こういうお菓子を作りますよ」と、聞かされても。
「ちゃんと作れればいいんだものね」と、エプロンを用意して行っただけ。
料理が好きな生徒を除けば、揃いも揃って、初心者ばかりの集団だから。
(…家庭科の成績、調理実習だけで決まるってわけでもないし…)
テストや裁縫、色々な要素を考慮した上で、決まる成績。
誰でも知っていることだから、調理実習の予習は「しない」。
ごくごく一部の料理好きの生徒、そういう子たちが「家でも作ってみる」だけで。
(ママを騙して、予習したって…)
本当に、ただの一回きり。
次に作れるチャンスがあるなら、「復習したい」と言えばいいけれど…。
(…それをするには、学校で貰ったレシピとか…)
そういった「証拠」が必要になる。
調理実習をして来た証明、それが無ければ「出来ない」復習。
(偽物のプリントを作っても…)
母は「自分で教えてくれずに」、「それの通りにやってみなさい」と言うのだろう。
「ママは見ているだけにするから、頑張って」と。
(…それだと、意味が無いもんね…)
母と同じに焼き上げたいなら、母の指導が欠かせないから。
「自分流」で焼いたパウンドケーキは、「母の味」にはならないから。
(……うーん……)
パウンドケーキも奥が深いよ、と考え込んでいる間に、どのくらい経っていただろう。
玄関の扉を開けもしないで、庭先に立って。
焼き上がったばかりのパウンドケーキに、すっかり心を奪われて。
(…五分くらいかな…?)
それとも、ほんの一分ほどか。
パウンドケーキの甘い匂いは、まだ漂っているのだから。
(ちょっぴり、失敗…)
こんな所で止まっちゃった、と向かった玄関。
鍵はかかっていない扉を開けて、「ただいま!」と奥に向かって叫んだ。
キッチンか、ダイニングにいるだろう母に。
「帰って来たよ」と、元気一杯に。
「おかえりなさい」と声が返って、出て来た母。
優しい笑顔で、「今日のおやつはパウンドケーキよ」と。
(…大当たり…!)
ホントにパウンドケーキだったよ、と御機嫌になる。
自分の鼻にも自信が持てたし、なにより、ハーレイの大好物のケーキ。
(ハーレイが来てくれなくっても…)
食べれば、素敵な夢が見られる。
「いつかは、ぼくも焼くんだよ」と、「おふくろの味」をマスター出来る日の夢を。
ハーレイに「おふくろの味のパウンドケーキ」を、自分が作って食べて貰える日のことを。
(きっと、ハーレイも、ぼくと同じで…)
仕事を終えて家に帰った時には、甘い匂いに気付くのだろう。
ハーレイが帰る時間に合わせて、パウンドケーキを焼いたなら。
「そろそろかな?」と時計を見ながら、材料を計って、オーブンに入れて。
(…混ぜる時間とか、そんなのも…)
すっかり頭に入っていたなら、そうしたことも出来るようになる。
「今からだよね?」と作り始めて、焼き立てのパウンドケーキの匂いで迎えることが。
ハーレイの車がガレージに着いて、ドアをバタンと開けたなら…。
(ぼくみたいに…)
甘い匂いだけで、胸を躍らせることだろう。
「俺の好物のパウンドケーキだ」と、「ブルーが焼いてくれたんだな?」と。
まだ玄関にも着かない内から、匂いだけで「アレだ」と分かってくれて。
(庭先に立って、考え込んだりはしないだろうけど…)
きっと真っ直ぐに玄関に急いで、「ただいま」と扉を開けるのだろう。
仕事の鞄も、買って帰った荷物なんかも全部提げたままで、キッチンの方にやって来て…。
(焼き立てだな、って…)
嬉しそうに言ってくれるのが先か、自分が出迎えに出るのが先か。
「おかえりなさい!」と、顔を輝かせて。
ハーレイが好きなパウンドケーキの、甘い匂いを纏い付かせて。
(…どっちが先かは分からないけど、大喜びだよね?)
食事の支度が出来ていたって、ハーレイは「試食」するのだと思う。
「こいつはデザートになるんだろうが、その前にな?」と、自分で一切れ、切って。
もしかしたら、スーツを脱ぎさえしないで、「まずは一口」と。
(ふふっ…)
そういうのも素敵、と描く夢。
今日の自分が、パウンドケーキの匂いに迎えて貰ったみたいに、いつかは自分も。
ハーレイが仕事から帰った時には、甘い匂いが漂うように、時間を合わせて焼き上げる。
小麦粉とバター、それに砂糖と卵。
全部の材料を、一ポンドずつ合わせて、混ぜて。
ハーレイの母のパウンドケーキと、そっくり同じの味に仕上がる「おふくろの味」を。
(頑張るんだから…)
あの匂いだけで嬉しいものね、と二階の自分の部屋で着替える。
まだ母からは習えないけれど、いつか教わって、マスターしようと考えながら。
(…そのためにも、ママのケーキの味を…)
ぼくも覚えておかなくちゃ、と心はダイニングのテーブルへと飛ぶ。
着替えて下に下りて行ったら、其処で「おやつの時間」だから。
ハーレイのために「マスターしたい」パウンドケーキが、自分を待っていてくれるから。
(帰った時には、うんと嬉しい気分になれて…)
幸せになれる匂いがいいよね、と大きく頷く。
今日の自分がそうだったように、「ぼくも、ハーレイのために焼かなくちゃね」と…。
帰った時には・了
※ブルー君が家に帰って来たら、パウンドケーキの甘い匂いが。もうそれだけで夢心地。
いつかは自分も作りたいわけで、夢は膨らむ一方です。ハーレイ先生の大好物ですもんねv