(……記憶喪失なあ……)
そういう病気もあったんだっけな、とハーレイがふと考えたこと。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎でコーヒー片手に。
今の自分は記憶喪失どころか、二人分も持っているのだけれど。
キャプテン・ハーレイだった頃の記憶と、古典の教師のハーレイの分と。
(なんとも贅沢な話ってモンで…)
何をするにも二人分だ、と嬉しくもなる。
「古典の教師のハーレイ」だけなら、半分以下に減る感動。
こうしてコーヒーを傾けるにしても、書斎にのんびり座るにしても。
(前の俺だと、コーヒーなんぞは代用品しか無かったからな?)
白いシャングリラで飲んだコーヒー、それはキャロブから作られたもの。
イナゴ豆とも呼ばれたキャロブ、その豆を挽いて作ったチョコレートやら、コーヒーやら。
自給自足の船になる前は、本物のコーヒーだったのに。
人類の船から奪いさえすれば、香り高いコーヒーがあったのに。
(しかし、そいつは前のブルーにしか出来なくて…)
ブルーの強いサイオンがあれば、リスクは皆無だったけれども、それではいけない。
ミュウが「一つの種族」として生きてゆくには、自分の力で歩かなければ。
(そのために船を改造したわけで、自給自足が前提だから…)
コーヒーは代用品に変わって、酒の類は合成品。
前の自分は其処で暮らして、キャプテンの任に就いていた。
肩書きに相応しく広い部屋まで貰ってはいても、「今の自分」とは違った人生。
壁の棚には、同じように本が並んでいても。
木で出来ていた机、その趣が今の机とよく似ていても。
(…所詮は、宙に浮いていた船で…)
おまけに明日さえ知れない毎日、夜が明ける度にホッとしていた日々。
今では当たり前に朝が来るのに、それさえ無かった遠い時の彼方。
(前の俺の記憶を持ってるってことは、今の人生の有難味が…)
よく分かるのだし、素晴らしいこと。
二人分の記憶を「一人で持つ」ということは。
けれど、その記憶が戻るより前。
「ただの古典の教師」だった頃は、何も覚えてはいなかった。
白いシャングリラも、愛おしい人がいたことさえも。
生まれ変わったブルーと出会って、その聖痕を目にするまでは。
「ブルーなんだ」と気付いて、記憶が蘇るまでは。
(…あれも一種の記憶喪失というヤツかもな?)
ある筈の記憶が無かったのなら、そうだとも言えるかもしれない。
「本当の自分」が誰か分からず、困り果てるのが記憶喪失。
今の時代は、もう無いけれど。
医学がとても進んだ今では、記憶喪失に罹った患者も、直ぐに回復するのだけれど。
(一時的には、あるらしいよなあ…)
治療を始めて、それの結果が出るまでは。
自分が何者なのかも掴めず、家族の顔さえ分からないと聞く記憶喪失。
(ずっと昔だと、治らないままで…)
何十年も「別人」として生きていた例も多かったらしい。
ある日、突然、記憶が戻ってみたら「新しい家族」の家にいたとか。
(…俺たちは、思い出したんだが…)
そして忘れやしないんだが、と改めて思う「ブルーとの絆」。
今の自分も、子供になった今のブルーも、もう忘れない。
「記憶喪失だった時代」は終わって、お互い、記憶が二人分。
前の生で目指した青い地球の上で、二人分の記憶を大切に持って生きている。
色々なことに、「二人分の感動」を覚えながら。
「此処は地球だ」とか、「なんて平和な世界なんだ」といった具合に。
のんびりと傾ける愛用のマグカップ、中身は本物の地球のコーヒー。
この書斎だって、「今の自分」の好みの本がズラリと並ぶ。
キャプテン・ハーレイだった頃の本棚、其処に並べられていた本と違って。
毎日綴った航宙日誌も、航宙学などの本さえ一冊も無くて。
これほど素晴らしい世界に来たなら、もう忘れない。
何があろうと、「取り戻した」前の自分だった頃の懐かしい記憶たちを。
(…今の俺だと、もう柔道も達人だしな?)
入門したての頃と違って、試合で負けることなどは無い。
もちろん練習の真っ最中に「頭を打つ」ような目にも遭わない。
(…柔道の稽古で頭を打つなど、論外なんだが…)
あってはならないことなんだがな、と思いはしても、たまにそういう事故もある。
投げられたはずみに、上手く受け身を取れなかったり、仕掛けられた技が未熟だったりして。
(そういった時に、記憶喪失ってのも…)
昔だったらあっただろうか、と考えてみる。
遠い昔の「日本」の柔道、その道場では記憶喪失になった人間もいただろうか、と。
昔は治療法も無いから、さぞや困ったことだろう。
記憶喪失になった人間も、周りの者も。
(そう簡単には、記憶は戻らなかったようだし…)
年単位だったりしたかもしれん、と昔の人たちに思いを馳せる。
どんなに困ったことだろうかと、記憶喪失なるものを。
(まるで覚えていないんだから、今の俺の場合と変わらないよな…)
ソルジャー・ブルーの写真を見ようと、名前を聞こうと、何も反応しなかった頃。
それが愛おしい人だとさえも気付かないまま、ただ漫然と写真を眺めて、名を聞いただけ。
ミュウの時代の礎になった人だと、英雄の中の英雄なのだと。
(あんな具合に、記憶がスッパリ消えちまうとなると…)
記憶喪失というのは、なんとも悲しい。
自分が誰かも分からない上、愛した人さえ思い出せないままなのだから。
(もう一度、アレになっちまったら…)
大変だから、柔道の達人で良かったと思う。
頭を打ってしまったはずみに、ブルーを忘れはしないから。
治療を受けるまで「ブルーを忘れてしまう」ことなど、絶対にありはしないから。
大丈夫だな、と考えたけれど、これが逆だったらどうなるのだろう。
ブルーは柔道をしないけれども、事故に遭うことはあるかもしれない。
学校の階段を踏み外すだとか、家の階段から落ちるとか。
サイオンが不器用な今のブルーは、落下する身体を止められない。
落ちたら危険だと分かっていたって、コロンコロンと落ちてゆくだけ。
(…あいつが頭を打つってか?)
学校や家の階段から落ちて…、と気付いた危険。
チビだから身は軽いだろうけれど、上手く受け身を取ることなどは…。
(あいつには、出来やしないんだから…)
落っこちた時に頭を打つような不幸な事故も、ブルーの場合は起こり得ること。
サイオンがとことん不器用なだけに、「身を守る」ことさえ出来はしなくて。
(…家で落ちても、学校で落ちても…)
直ぐに病院、治療の方も安心だけれど、肝心の治療を始める前。
ブルーの中から「ハーレイ」の記憶が抜け落ちていたら、どうだろう。
「大丈夫か!?」と抱え起こしてやったら、キョトンとした瞳が見上げてくるとか。
そうでなければ、酷く怯えた瞳。
「…誰ですか?」と、とても他人行儀に口にしながら。
まるで知らない人を見る目で、それは不安そうに。
(俺を見たって、俺だと分かってくれなくて…)
安心して身を任せるどころか、後ずさりさえしそうなブルー。
「知らない誰かが、ぼくを見てる」と、「大きくて、とても怖そうな人」と。
ブルーの記憶が無かったならば、「大きな人」でしかない「ハーレイ」。
しかも眉間に皺まであるから、その人となりを知らなかったら…。
(大丈夫だからな、と俺が微笑み掛けない限りは…)
きっと「怖い人」でしかないのだろう。
ブルーが頭を打ったことで慌てて、「大丈夫か!?」と焦っていたら。
記憶喪失になってしまったと知って、険しい顔になったなら。
(……うーむ……)
忘れちまったら、そうなるのか、と気付かされた「ブルーから見た」自分。
ブルーの記憶がストンと抜けたら、それが戻って来るまでは。
病院できちんと治療を済ませて、「元通りのブルー」になるまでは。
(……怖い人なあ……)
そいつは困る、と思うものだから、ブルーには忘れて欲しくない。
自分は決して忘れないから、ブルーにも覚えていて欲しい。
頭なんかを打ったりしないで、記憶喪失にならないで。
今の時代は「直ぐに治る」けれど、忘れられたらショックだから。
「怖い人だ」と思われるのも、「ハーレイ」を覚えていないブルーも悲しいから。
二人分の記憶を手放すことなく、今のブルーのままがいい。
我儘なチビの子供だろうと、「ぼくにキスして」ばかり言われて困ろうとも…。
忘れちまったら・了
※記憶喪失について考えるハーレイ先生。今は二人分の記憶を持っていて、お得ですけど…。
「忘れていた頃」もあっただけに、怖いのが記憶喪失。ブルー君に忘れられたら、ショック。