(……まったく……)
とんだ日だった、とハーレイがフウとついた溜息。
ブルーの家には寄れなかった日に、夜の書斎で。
机の上には熱いコーヒー、愛用のマグカップにたっぷりと。
ついた溜息で吐いた空気の分、コーヒーを喉に流し込む。
独特の苦味や、香りなどを。
(…これで気分は直るんだがな…)
それに切り替えも早い方だが、と思ってはいても、零れる溜息。
今日の出来事を思い出したら。
「とんだ日だった」と、放課後の方へと目を向けたら。
その「放課後」は、学校に置いて来たけれど。
とっくの昔に別れた放課後、「教師としての仕事」は終わり。
けれども、最後の最後に「放課後に」起こってくれたこと。
溜息の原因で、「とんだ日になった」理由というヤツ。
(まったく、あいつらと来たら…)
あれだけ何度も言っているのに、と溜息しか出ない「柔道部員」。
それも一人や二人ではなくて、今日の問題は全員分だと言えるほど。
(…会議があるから、少し遅れるとは言ってあったんだが…)
朝練の時に、そう伝えておいた。
「放課後は来るのが遅くなるから、先に稽古を始めるように」と。
ただし、柔道は「危険と背中合わせ」な部分もある。
気を抜いていたり、気が散ったりすれば、「慣れた者」でも怪我をすることも多い武道。
そうならないよう、重々、注意をしておいた。
「俺が来るまでの間は、自分の力量以上のことはするな」と、皆に向かって。
自信が無いなら、「ストレッチでもしていろ」とまで。
個々の力量には差があるものだし、主将でさえも「全体を」把握出来てはいない。
稽古をするなら「誰と組ませるか」、彼自身の目で分かる範囲は狭い。
いつもの部活の内容からして、「この辺りだ」と思う程度で。
後は、それぞれの資格などを参考に決めるだけ。
そんなトコだ、と分かっているから、「力量以上のことはするな」と刺しておいた釘。
怪我をしてからでは遅いのだから、下手な部員はストレッチだ、とも。
(……なのにだな……)
会議が終わって、急いだ着替え。
柔道着を着て、有段者の証の黒帯を締めて、体育館へと出掛けたら…。
(あの馬鹿どもが…!)
「下手な部員はストレッチ」どころか、皆がやっていた乱取りの稽古。
「顧問の自分」がいない時には、「やるな」と前から言ってあるのに。
直接指導をしている時でも、乱取りをしてもいい者は…。
(普段の腕やら、その日の調子を見極めてだな…)
選び出しては、「この中でやれ」と決めてゆく。
上手い者なら、上手い者ばかりをメンバーに決めて。
下手な者だと出来はしないし、「やりたい」者には「自分が」相手。
ダテに道場で「教えられる」資格を持ってはいなくて、プロへの道さえあったほど。
(そこまでの腕があって、初めて…)
自分よりも遥かに下の者でも、怪我をさせずに試合が出来る。
「かかって来い!」と一度に大勢を相手にしたって、何の問題も無いほどに。
(…それに憧れるのは分かるんだが…!)
まずは自分の腕を磨け、と口を酸っぱくして指導して来た。
充分に分かってくれているのだと思っていたのに、現に「分かっている」筈なのに…。
(…相手は所詮、悪ガキと言ってもいい年で…)
顧問の教師が「いない」となったら、羽目を外しもするだろう。
普段は出来ないことをやろうと、悪戯と「さほど変わらない」気分で。
(俺が入って行った途端に…)
マズイ、とばかりに蜘蛛の子を散らすように「散った」のが、柔道部員の生徒たち。
乱取りは中断、「普通の稽古」をしていた風に見せかけようと。
(悪戯だったら、逃げておしまいでもいいんだが…)
そうじゃないんだ、と承知なだけに、彼らを集めて怒鳴り付けた。
「大馬鹿者が!」と、「俺の言葉の意味も分かっていなかったのか!?」と。
シュンとしてしまった部員たち。
「すみませんでした」と皆が素直に謝ったけれど、その場で零してしまった溜息。
彼らが「分かっていない」というのが、自分の力量不足に思えて。
(そうじゃないとは、分かっていても、だ…)
あの年頃だと、目を離したなら「ああなる」ものだと思ってはいても、こたえるもの。
現場を目にしてしまったら。
「先生が来たぞ!」と言わんばかりに、「約束を守っている」ふりをされたら。
だから彼らを叱り飛ばして、散々、垂れておいた説教。
「怪我をしたなら、困るのは、お前たちなんだぞ!」と睨み付けて。
「俺も困るが、それ以上に自分が困るってことを、きちんと肝に銘じておけ!」と。
そうして部活は終わったけれども、「とんだ日だった」と残った溜息。
夜の書斎まで「持ち込む」くらいに、珍しく尾を引いている。
(…この所、調子が良かったからなあ…)
柔道部のヤツら、と「教え子たち」の顔を思い浮かべて、また溜息。
彼らの目覚ましい成長ぶりに、目を細めることが多かった。
それを「裏切られてしまった」気分で、余計に溜息が出るのだろう。
「なんてこった」と、「俺がいなかっただけで、あそこまで弛んでしまうとは」などと。
放課後は「学校に置いて帰って来た」のに、この始末。
未だに消えてくれない溜息、コーヒーを淹れて飲むような時間を迎えても。
(……うーむ……)
これじゃいかんぞ、と分かってはいる。
気分の切り替えは早い方なのに、今日に限って引き摺るだなんて。
(溜息ってヤツは、良くはなくてだ…)
ついた分だけ、不思議に気分が沈むもの。
落ち込んでゆくと言うべきだろうか、「それ」をつく理由に捕まって。
(溜息の数だけ、幸せが逃げてゆく、っていう話も…)
あるんだよなあ、と思う言い回し。
前の生でも聞いたのだろうか、それとも「今の生」で覚えた言葉だろうか。
白いシャングリラで暮らした頃には、幸せは今より遥かに少ないものだったから。
(…あの船で幸せなことと言ったら…)
無事に夜が明けて、その一日を無事に終えられること。
それがキャプテンとしての幸せ、「ハーレイ」としての幸せならばブルーのこと。
前のブルーと過ごす時間は、「友達同士」だった頃から「幸せ」だった。
それこそ、厨房でフライパンを使っていた時代から。
(…あいつのことなら、何でも幸せだったっけなあ…)
今もだがな、と頭に浮かんだ小さなブルー。
青い地球の上に生まれ変わって、また巡り会えた愛おしい人。
(今日だって、あいつの家に寄れていたら…)
もう溜息など引き摺ってはいない。
小さなブルーと二人で過ごして、夕食はブルーの両親も一緒。
それから食後のお茶を済ませて、愛車に乗り込む頃になったら…。
(溜息なんぞは忘れちまって、綺麗サッパリ…)
洗い流していたんだろうな、と「とんだ日だった」と、またも溜息。
「ツイてないな、というように。
確かにツイてはいないのだろうし、溜息が出るのは「そのせい」だけれど。
(…そういや、溜息って言葉は、だ…)
ガッカリした時とは限らなかった、と気付いた「意味」。
同じ溜息にも「色々な種類があったんだ」と、古典を教える「教師」らしく。
(溜息は、古語っていうわけじゃないんだが…)
その「溜息」を含んだ文には、ガッカリとは違うものもある。
ホッとした時に零れる安堵の吐息も、「溜息」の一つと言っていい。
素晴らしい何かに出会った時に、思わず漏らす感嘆の息も。
(溜息ってヤツにも、色々か…)
どうせだったら、そっちの溜息が良かったんだが、と考える。
小さなブルーの家に寄れていたら、そっちの溜息だっただろうか、と。
好物のパウンドケーキが出たなら、「おっ?」と喜んで「美味い!」となって…。
(満足の息をつくってことも…)
あっただろうし、前の生での何かを思い出したはずみに、今の平和を実感するとか。
「なんて平和になったんだろう」と、今、生きていることに安堵の息。
溜息よりは、安堵の吐息。
感嘆の息の方でもいい。
そっちを口から吐き出していたら、今日は「いい日」になったろう。
同じつくなら、そういった息。
それがつけたら、今日は「素晴らしい日」になるのだけれど…。
(…また、明日だってあるんだしな?)
今はいくらでも「明日」があるから、その「明日」に期待することにしよう。
溜息よりは、安堵の息の方が「多い」のが今の自分の生。
感嘆の息も「ずっと多い」から、そういった息をつけたらいい。
今日は「溜息」に捕まったけれど、溜息よりは、嬉しくなる息をつきたいから…。
溜息よりは・了
※ハーレイ先生が、ついつい零してしまう溜息。原因は柔道部員なんですけれど。
そういった息を引き摺るよりは、嬉しくなる息の方がいい、というのは間違いないですよねv
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