(……うーむ……)
やっちまったか、とハーレイが見下ろす自分の手元。
ブルーの家には寄れなかった日、夜のキッチンで。
より正確に言うのだったら、キッチンのシンク。
夕食の後片付けをしていて、滑った手。
(何のはずみだか……)
シンクだったから良かったんだか、悪かったんだか…、と心で呟く。
割れてしまったガラス瓶。
硬いシンクに落とさなかったら、きっと割れてはいなかったろう。
今日までの間に、何度もあった「床に落とす」こと。
ダイニングの床でも、キッチンの床でも、割れてしまったことは無かった。
それが見事に真っ二つ。
ガチャンと音が聞こえた時には、とうに手遅れ。
(シンクの中だし、飛び散ったりはしていないから…)
そういう意味では「シンクで良かった」のだろう。
床だったならば、かなりの範囲を「掃除する」ことになったろうから。
ガラスの破片が落ちていたなら、怪我をする。
ほんの小さな欠片にしたって、鋭いものは侮れない。
(掃除の後にも、粘着テープで仕上げってトコで…)
手間暇かかったろう「掃除」。
シンクの方なら、こういう時には「流せばいい」。
目に見えないような細かな欠片は、強い水流で洗い流すだけ。
後は野菜クズなどの「流れたゴミ」と纏めて、専用のネットを取り替えて終わり。
手間いらずではある、シンクの中で「割れた時」。
(…他の器がある場所だったら…)
厄介だがな、という面もシンクには「ある」のだけれど。
洗いたい器が浸けてある場所で「割れた」時には、床と同じに面倒だけれど。
幸いなことに、被害は瓶が一個だけ。
真っ二つなのを専用のシートにくるんで捨てて、シンクの中も洗い流した。
他の皿や鍋も洗い終わって、拭いた後には棚に片付け、コーヒーを淹れる。
愛用のマグカップにたっぷりと、いつものように。
それを書斎で飲むことにして、運んで行って腰掛けた。
机の前に座って一口、其処で「やっちまったよな…」と小さく溜息。
シンクで割ったガラス瓶。
仕方ないから捨てたけれども、あれがなかなか便利ではあった。
(元々はジャムの瓶なんだがな…)
イチゴだったか、ブルーベリーか何かだったか。
朝食の時には、隣町で暮らす母が作った、夏ミカンの実のマーマレードが気に入りの品。
庭のシンボルツリーとも言える、夏ミカンの実をもいで作られるもの。
ブルーの家にも届けるくらいに、母の自慢で評判もいい。
(しかし、たまには…)
違う味も、と思うものだから、市販のジャムを買う時もある。
食料品店で目に付いた時に、「おっ?」と手に取って。
コケモモなどの珍品だったら、ついつい買ってしまったりもする。
(あの瓶のジャムも、そういったジャムで…)
何のジャムかは忘れたものの、使い勝手が良かった瓶。
空になって直ぐに、ピンと来た。
「こいつは使える」と、その有能さに。
だから回収などには出さずに、洗って手許に残しておいた。
ジャムのラベルは剥がしてしまって、瓶だけを。
(ピクルスなんかを作るのに…)
少しだけなら、丁度良かった。
あの瓶に詰めて、出来上がるのを待ったりして。
余った果物をジャムにするにも、出来る量が少ないものだから…。
(あの瓶が大いに役立つってわけで…)
便利だったんだがな、と残念になる。
役に立った瓶は割れてしまって、もうゴミ箱の中だけに。
ジャムの瓶には色々あっても、「これは」と思う瓶は「無い」もの。
大きすぎたり、小さすぎたり、色々なことで。
(…大きさの方は良くてもだ…)
蓋の部分が「しっくりと来ない」。
もう少しばかり大きく開いていたならば、と見詰める瓶やら、その逆やら。
大抵の瓶は「そうした瓶」で、空になったら回収に出す。
「もう要らないな」と綺麗に洗って、専用の場所へ。
(さっき割っちまった瓶みたいなのは…)
そうそう無いぞ、と分かっているから、「やっちまった…」と額を押さえる。
「俺としたことが」と、「次にああいう瓶に会えるのは、いつになるやら」と。
(…瓶だけのために、ジャムを買うのも…)
馬鹿のようだし、ガラス瓶だけを買うつもりも無い。
一人暮らしで料理が好きでも、「わざわざ買った」瓶が大活躍するほどではない。
それだけに「次」は「偶然の出会い」を待つことになる。
たまたま「いいな」と買って来たジャム、その瓶が「優れもの」だと思うだろう時を。
「こいつは実に使えそうだ」と、洗って「取っておきたくなる日」を。
(…当分、来そうにないんだが…)
壊れちまったものは「もう無い」んだし、と傾けるコーヒー入りのマグカップ。
愛用の「これ」が割れるよりかは、遥かにマシだ、と。
たかがジャムの瓶が割れただけだし、「ちょっぴり惜しい」というだけのこと。
(壊れちまったら、其処までの縁で…)
次の機会に期待だよな、と切り替える気分。
「壊れたもの」は返って来ないし、執着するだけ無駄なもの。
ガラス瓶にしたって、それとは違う「何か」にしたって。
(…ガキの頃から、色々とだな…)
壊しちまって駄目になったモンだ、と覚えは山ほど。
オモチャが壊れたこともあったし、柔道着などを入れるバッグも…。
(気に入ったデザインのが、破れちまっても…)
同じものは「もう無い」ことが多かったのだし、気にしない。
新たな出会いを待った方が良くて、「もっといい物」に会えもするから。
(どんな物でも、壊れちまったら、それっきりなんだ)
ジャムの瓶だろうが、バッグだろうが。
「壊れちまった」としょげているより、次の出会いを楽しみに。
もっといい「何か」に出会えるだろうし、人生というのは「そうしたもの」。
(覆水盆に返らず、でだな…)
後悔先に立たずなのだし、「過ぎてしまった」ことは仕方ない。
クヨクヨするより、前向きに。
それでこそ「いい人生」を送れるのだし、後悔したって「気が沈む」だけ。
(どんな物だって、そうしたモンだ)
壊れちまった物に執着してたら、やっていられないぞ、と思ったけれど。
「壊れた時には、次の出会いだ」と考えたけれど、其処で浮かんだブルーの顔。
十四歳にしかならない恋人、前の生から愛したブルー。
(…あいつとの恋が…)
壊れてしまったら、どうするだろう。
まさか壊れるとも思えないけれど、ブルーが「怒って」去って行ったら。
「ハーレイの馬鹿!」と捨て台詞を残すか、平手打ちでもされるのか。
(……チビのあいつは、やらないだろうが……)
前とそっくり同じ姿に育ったブルー。
二人でデートに出掛けた先で、いきなり「壊れてしまう」恋。
ブルーが機嫌を損ねてしまって、「ハーレイの馬鹿!」と眉を吊り上げて。
其処まで二人で乗って来ただろう車、それにも、もはや乗ろうとせずに…。
(ぼくは帰る、と…)
一人でずんずん歩き出したら、どうなるだろう。
追い掛けて腕を掴もうとしても、「離して!」と思い切り、振り払われて。
「駅も、バス停も遠いんだぞ!」と声を上げても、「分かってるよ!」と返されて。
(…俺の車に乗って帰るよりは…)
駅やバス停までが片道どのくらいだろうと、「一人で帰りたい気分」のブルー。
もう「ハーレイ」には目もくれないで。
二度とデートに来てやるものかと、怒り狂って「行ってしまって」。
そうした「悲惨なデート」をした後、ブルーが「知らん顔」だったなら。
通信を入れても「出てはくれなくて」、家に行っても門前払い。
「ハーレイなんか、大嫌いだ!」と恋が壊れて、相手にされなくなったなら…。
(……俺は諦められるのか?)
ブルーを諦めて、「次の出会い」を待てるだろうか。
「壊れちまったら、仕方ないよな」と、ブルー以外の「誰か」と恋に落ちる日を。
新しい「誰か」が現れてくれて、その人と恋をしてゆける日を。
(…おいおいおい……)
冗談じゃないぞ、と青ざめる顔。
ブルーとの恋が壊れたならば、そのまま「諦めてしまう」だなんて。
「次の機会に期待しよう」と、新しい恋を待つなんて。
(…ガラス瓶だの、バッグだのなら、それでもいいが…)
ブルーの件は別件だよな、と浮かべてしまった苦笑い。
きっと「どんなに苦労しようとも」、「壊れた恋」を元に戻そうとするだろう。
毎日通って土下座してでも、家の前に座り込んででも。
ジャムの瓶なら「次があるさ」と考えられても、ブルーの場合は「そうはいかない」。
前の生から愛し続けた「愛おしい人」を、諦められる筈がないから。
「仕方ないよな」と「次の出会い」を待つなど、狂気の沙汰というものだから…。
壊れちまったら・了
※気に入りのジャムの空き瓶を割った、ハーレイ先生。次の出会いに期待ですけど…。
ブルー君との恋が壊れてしまった場合は、「次の出会い」どころじゃないみたいですねv