(切羽詰まった状態でだ…)
仕事はしない主義なんだが、とハーレイが眉間に寄せた皺。
ブルーの家には寄れなかった日に、夜の書斎で。
愛用のマグカップにたっぷりと淹れたコーヒー、それは机にあるけれど。
コーヒーの香りもするのだけれども、ゆったりと飲むわけにはいかない。
(なんたって、非常事態だからな…!)
明日の会議に必要な資料、それを作ってゆかなければ。
それも「今夜の間」に、という本当に切羽詰まった状況。
明日、学校に着いてからでは、足りない時間。
朝は柔道部の朝練があるし、それが終われば授業が始まる。
(授業の合間に作りたくても…)
そういう時に限って「やって来る」のが、質問などがある生徒。
彼らの相手をしていたならば、休み時間は無いも同然。
空き時間の方にしても同じで、何かと入りがちな雑用。
(資料作りで忙しいから、と言えば断れるんだが…)
それは自分の信条に反する。
「放課後の会議」のための資料を、「ギリギリで」作っているなどは。
どんな理由があるにしたって、誰もが納得してくれたって。
(…この俺に任せられたからには…)
何が何でも今日中なんだ、と学校で渡された文書の山を繰ってゆく。
それを纏めて資料を作って、明日の会議に間に合わせる。
この仕事のために、ブルーの家にも寄らずに真っ直ぐ帰ったほど。
(もっとも、ギリギリではあったがな…)
そっちの方も、と思いもする。
資料作りを引き受けた後に、学校でやった打ち合わせ。
ついでに文書なども受け取り、遅い時間になってはいた。
ブルーの家へと出掛けてゆくには、もうギリギリだと言える時間に。
だから、そちらは「諦めた」。
ギリギリの時間に出掛けて行って、夕食を食べてくるような暇があるなら…。
(このギリギリの仕事の方を、だ…)
一刻も早く仕上げてこそだ、と考えたから。
急いで帰宅し、手早く作った今夜の食事。
後片付けもサッサと済ませて、コーヒーを淹れて、取り掛かる作業。
(俺の名誉のために言うなら…)
ギリギリになったのは、俺のせいではないからな、と誰にともなく言い訳する。
自分が「引き受けた」仕事だったら、資料はとっくに出来ている筈。
余裕を持たせて、遅くとも三日ほど前までには。
早い話が、「自分のもの」ではなかった仕事。
少なくとも、「今日の」昼休みまでは。
其処で「お鉢が回って来る」までは、他の教師の担当だった「それ」。
(……急病じゃ、仕方ないんだが……)
それにしても、と零れる溜息。
自分が「その教師」の立場だったら、資料はとっくに出来ていた。
今日の朝になって具合が悪くて、「休みます」と連絡をするよりも前に。
(…資料さえ、出来ていたんなら…)
欠勤の連絡を寄越すついでに、「取りに来て下さい」と言えば済むこと。
誰でもいいから、手の空いた先生を家に寄越して下さい、と。
(酷い風邪とかで、移る恐れがあるにしたって…)
受け渡しの方法は幾らでもある。
本人が律儀に渡さなくても、家族の誰かに託すとか。
妻だの、それこそ幼稚園に出掛ける前の子供にだって。
「これを頼む」と言いさえすれば、「どうぞ」と使いの誰かに届く。
妻であろうが、幼稚園の制服を着た子供だろうが、資料を持って家の表まで出て。
そうしないのなら、ポストが使える。
資料の束を突っ込んでおいて、「持って帰って下さい」と連絡しておけば。
取りに出掛けた使いの者が、ポストから「それ」を引っ張り出せば。
(俺の場合は、そうなったろうな…)
急病など、まず有り得ないけれど、万一、罹ってしまったら。
今朝、起きた時に「これはマズイ」と欠勤を決めて、病院に行くことにしたのなら。
(手渡してくれる家族はいないし…)
資料をポストに押し込んでおいて、病院に出掛けたことだろう。
そうすれば「誰も困らない」のだし、迷惑をかけるのは一人だけ。
「資料を取りに来る」羽目になった誰か、その一人にだけ、後で詫びればいい話。
(それにしたって、お互い様だし…)
取りに来た者も「お気になさらず」と笑っておしまい。
「次は、私かもしれませんしね」などと、「急な病気で」休んだ件は責めないで。
(…今日、休んじまったヤツにしてもだ…)
お互い様には違いない。
明日は「自分」がそうならないとは、誰にも言えはしないのだから。
(しかしだな…)
資料は「早めに」作っておいて欲しかったんだが…、と思う気持ちは止められない。
「彼」には「彼の事情」があって、そうなったとは分かっていても。
休日ともなれば家族サービス、資料作りよりも遊園地だとか、ショッピングだとか。
(家族がいるなら、そっちが優先…)
分かっちゃいるが、と百も承知でも、納得できない「自分」の現状。
切羽詰まった仕事なんかは「やりたくない」から、何事も「早め」。
引き受けた仕事は責任を持って、早め、早めに仕上げるもの。
「急病で欠勤」になってしまったなら、「資料はポストに入れておきます」と言えるように。
自分は病院に出掛けるけれども、「その間に取りに来て下さい」と。
ところが、そうではなかった同僚。
資料作りは「ギリギリでいい」と思っていたのか、自分に自信があったのか。
(今日、帰ってから取り掛かっても…)
充分だろうと決めてかかって、まるで手を付けていなかったとか。
それの結果が「急な欠勤」、ついでに「全く出来ていない」資料。
明日の会議には「それ」が要るのに、会議は明日の放課後に迫っているというのに。
そんなこんなで、大騒ぎになった昼休み。
明日までに「資料を作れる」教師が、誰かいないかと。
(そういった時に、真っ先に外されちまうのが…)
既に仕事を山と抱えている教師。
テストを控えて、問題を作成中だとか。
終わったテストの山を採点している途中で、どう見ても忙しそうだとか。
レポートなどの課題を課したばかりの者も免除で、他にも色々。
(…俺は、どれにも当て嵌まらないし…)
その上、気ままな独身生活。
当然のように打診されたから、「断る」わけにはいかなかった仕事。
此処で断ったら、他の誰かが代わりに苦労することになる。
ギリギリに迫った仕事を引き受け、「今の自分」がそうであるように。
(そいつは、些か気の毒ってモンで…)
そう思ったから、「私で良ければ」と名乗りを上げた。
「なんとかします」と文書を貰って、作るべき資料の内容なども詳しく聞いて…。
(もう文字通りに、切羽詰まって、ギリギリで…)
仕事中だ、と手に取るマグカップ。
気分転換にコーヒーをゴクリ、カップを置いたら作業の続き。
文書の山を端からめくって、「こうだったか?」と照らし合わせてみて。
間違ったことを書いていないか、指でなぞるように確認もして。
(此処まで出来たら…)
後は仕上げだ、と残りを急いで、なんとか形になったとは思う。
ギリギリで作業をしていたものとは、思えない出来に。
数日前には「ちゃんと出来上がって」、何度も読み返しをしたかのように。
(よーし…)
これでいいな、と肩をトントンと叩き、眉間の皺も揉みほぐしてやる。
資料は無事に出来上がったから、明日の会議に立派に間に合う。
ブルーの家にも寄らずに帰って、懸命に作業したのだけれど…。
(……うーむ……)
忘れちまっていた、と思う「恋人」。
前の生から愛し続けて、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
(…あいつの家にも寄れなかった、と…)
残念に思いつつ作業を始めて、どの辺りで「忘れてしまった」のだろう。
片時さえも「忘れない」人を、いつも心に住んでいる人を。
(……忙しい時は、それどころではないってか?)
ブルーのことさえ忘れちまうのか、とショックな気分。
これが小さなブルーに知れたら、間違いなく膨れっ面になる。
「ハーレイ、酷い!」と、「ぼくのことを忘れてしまうだなんて!」と、プンプン怒って。
キスを断られた時と同じに、まるでフグみたいに頬を膨らませて。
(…あいつも怒るし、俺だって大いに不本意でだな…)
こんなのは好かん、と思うものだから、「ギリギリの仕事」は御免蒙りたい。
自分が仕事を引き受けた時は、余裕を持たせて早めがいい。
(…あいつのことさえ、忘れちまうなんて…)
忙しい時は、そうなるのならば、いつでも余裕たっぷりでいたい。
愛おしい人を、忘れないように。
いつも心に住んでいる人を、「ウッカリ」忘れたりはしないで、愛おしめるように…。
忙しい時は・了
※切羽詰まった仕事をしている間に、ブルー君のことを忘れてしまったハーレイ先生。
これはショックだ、と思ったようです。同じことが二度と起こらないよう、仕事は早めにv