(……ん……?)
この音は…、とハーレイが見回した、自分の周り。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で。
愛用のマグカップにたっぷりと淹れた、熱いコーヒー。
それを傾けていたのだけれども、耳に届いた微かな羽音。
(…何処だ?)
音が止んだら分からんぞ、と順に部屋の中を目で追ってゆく。
まずは天井、お次は本棚が無い部分の壁、といった具合に。
(…うーむ……)
厄介な、と思いもする。
なにしろ、羽音が羽音だったから。
もちろん鳥の羽音ではない。第一、鳥なら直ぐに見付かる。
(あんなに小さな鳥はいないぞ…)
とても小さい鳥のハチドリでさえも、今の羽音の主より大きい。
部屋の何処かに止まっていたなら、「あそこだ」と分かることだろう。
つまり、羽音の持ち主は「虫」。
しかも厄介なことに「平たくて」、何処にでも入り込める虫。
自慢の書斎の本の間でも、アレならば「入ってしまう」ことが出来る。
入ってそのまま「冬越し」でもして、出てゆくのならばいいけれど…。
(俺が本を出そうとした時に、だ…)
知らずに一緒に掴もうものなら、本が台無しになるのは確実。
「プーン…」と独特の羽音がした虫、あの音は「カメムシ」で間違いはない。
平たくて、四角いような身体をしたカメムシ。
ただ「いる」分には害はなくても、触った途端に「酷いことになる」。
それはとんでもない臭いを放つものだから。
一度、臭いがついてしまったら、そう簡単に消えはしないから。
手ならば「洗い続ければ」いいし、服でも「洗えば」いつかは消える。
けれども、本を洗えはしなくて、「臭い」がついたら、それでおしまい。
本を開く度、カメムシの臭いが立ち昇って。
そいつは御免蒙りたいぞ、とサイオンで部屋を探ってみても分からない。
相手はカメムシ、思念波なんぞは持っていないから。
(…どの辺りだった?)
音がしたのは…、と自分の耳に尋ねるけれども、「さて…?」という返事。
机に向かって、ゆったりと傾けていたマグカップ。
その時に「何処かで」音がした、としか「耳」は覚えていなかった。
強いて言うなら「背中の方」で、どちらかと言えば「上」だろう、としか。
(……天井に止まっていたんなら……)
直ぐに解決するんだがな、と端から端まで眺めても、「いない」。
書斎の天井の何処を見詰めても、カメムシの四角い姿は「見えない」。
壁にもいないし、こうなってくると、「本棚の何処か」しかない居場所。
本の間に潜り込んだか、背表紙にでも止まっているか。
(…ページの上ってこともあるよな…)
閉じて本棚に入れてある本、それのページは「ぎっしり詰まって」板のよう。
その上にならば、カメムシも乗れる。
たった一枚きりの紙では、薄すぎて乗っていられなくても。
しがみつくのが精一杯でも、閉じた本なら悠々と「ページの上に」止まれるもの。
場合によっては「其処で」冬越しするつもりで。
そうとも知らずに本を掴んだら、たちまち目覚めて、最後っ屁で。
(…また、そういった本に限って…)
大切な本に決まってるんだ、と溜息までが零れてしまう。
とても気に入っている愛読書だとか、重宝している資料だとか。
(……いっそ、その手の本を端から……)
調査するのがいいだろうか、と顔を顰めてコーヒーを一口。
「カメムシがいる」とハッキリしている間に、本を相手に始める家捜し。
何処にカメムシが潜んでいるのか、「大切な本」を最優先で。
「いたら困る」場所から捜し始めて、「まだマシ」な場所は後回しで。
(…その方がマシというものか…)
やられてからでは遅いからな、と立ち上がる。
まずは道具を…、と引き出しに「ソレ」があったかどうかを、考えながら。
(……無いな……)
書斎に置いているわけもないか、と取りに出掛けた道具。
カメムシが「他の部屋へ移ってくれる」ことを祈って、扉を大きく開け放って。
(…虫ってヤツは、明るい方へと行くもんだが…)
カメムシもソレと同じだろうか、と「消して」出て行った書斎の明かり。
運が良ければ、明るい廊下に行くだろう、と。
(…出て行った所で、出て行く姿を見ないと「出た」とは分からんし…)
とにかく道具だ、と持って戻った粘着テープ。
カメムシを退治するのだったら、それに限ると父が教えてくれたのだったか。
四角い背中にテープをペタリと貼ってやったら、もう「最後っ屁」は放たない。
テープにくっついて、足をバタバタさせていようとも、臭いはしない。
「包んで」捨ててしまえば終わりで、「本に臭いがつく」被害は防げる。
ただし「本ごと」くっつけないよう、注意しないと駄目なのだけれど。
(なんたって、本は紙だから…)
粘着テープがくっついたならば、剥がす時に本は傷んでしまう。
背表紙の一部が剥げてしまうだとか、ページの端が破れるだとか。
(…退治するのも、厄介だってな)
出て行ってくれたなら、いいんだが…、とパチンと書斎の明かりを点けた。
そして椅子へと座り直して、少し温くなったコーヒーを飲む。
「ヤツは何処だ?」と、警戒心を保ったままで。
今度「プーン…」と羽音がしたなら、逃さないぞ、と。
それが聞こえて来ないようなら、計画通りに家捜しだけれど…。
(……来たか!)
カメムシは書斎に「居残っていた」。
独特の羽音がする方を見れば、天井の近くを飛んでいる姿。
(焦ったら駄目だ…)
飛んでいる間は、粘着テープを振り回しても無駄。
当たり所が悪かったならば、たちまち「臭い」が満ちるだけ。
本にも服にも移りかねない、あのカメムシの「酷い臭い」が部屋中に。
まだ飛んでいるカメムシを睨んで、待ち続けたチャンス。
止まってくれても、「其処はマズイ」と思う場所にしか「止まらない」だけに。
(もう少し場所を選んでくれ…!)
本の無い場所にしてくれないか、と粘着テープを握って、ひたすら待って。
ようやく止まってくれたカメムシ、本棚の端っこの方に。
(よし、今だ…!)
逃がさん、と立って、そっと足音を忍ばせて行って、ペタリと貼った粘着テープ。
本棚の隅にいたカメムシの背中に、くっつけて。
(…取れた!)
被害はゼロだ、と粘着テープに「くっついた」虫の腹を見据える。
足は動いているのだけれども、もう「臭い」などは出せない虫を。
(…俺の書斎に来るからだ!)
家の外にいればいいものを…、と粘着テープを畳むようにして、包んだカメムシ。
二度と中から出られないよう、ピッタリと。
そうしてペシャリと潰してトドメで、ゴミ箱にポイと捨てたのだけれど。
「厄介な虫を退治できた」と、大満足で、冷めたコーヒーを傾けたのだけれども…。
(……待てよ?)
あんな虫などいなかったぞ、と蘇って来た、遠い昔の記憶。
ずっと遥かな時の彼方で、前の自分が生きていた頃。
(…シャングリラの中で、虫と言ったら…)
ミツバチだけしか、いなかった。
花粉を運んでくれる働き者で、蜂蜜まで作る虫がミツバチ。
「役に立つから」と巣箱が置かれていた農場。それに公園といった場所にも。
けれど、他には「いなかった」虫。
花から花へと舞う蝶でさえも、シャングリラでは見られなかった。
役に立たない生き物までもを「飼う」余裕などは無かったから。
前のブルーが「欲しい」と願った青い鳥さえ、船では飼えなかったから。
そういう船では、カメムシがいるわけもない。
役に立たないどころではなくて、「嫌われ者」の虫なのだから。
(……ふうむ……)
捨てちまったが、と眺めるゴミ箱。
その中で「死んでいる」だろうカメムシ、とても嫌われ者の虫。
とはいえ、「今だからこそ」なんだ、と感慨深く。
ミュウが生きるだけで精一杯だった白い箱舟、あの船では「会えなかった」虫。
(…カメムシは臭いということさえも…)
意識して生きちゃいなかったよな、と顎に手を当てて考えてみる。
「いない」虫など意識しないし、「嫌う」ことだって無かっただろう。
船の何処にも「いない」のでは。
「俺の大事な持ち物に、あんな臭いは困る」とさえも思わないのでは。
(……カメムシなあ……)
嫌われ者だが、ちと可哀相なことをしちまったかもな、とコーヒーのカップを傾ける。
前の自分が出会っていたら、しげしげと見詰めそうだから。
ウッカリ触って臭いがしたって、「地球の虫か」と喜びそうにも思うから。
嫌われ者の虫が放った、最後っ屁でも。
キャプテンの制服に臭いがついても、嫌いはせずに。
(価値観の違いというヤツか…)
嫌われ者でも愛されるのか、と可笑しくなる。
前の自分が出会っていたなら、カメムシはきっと、「地球の珍しい虫」だろうから…。
嫌われ者だが・了
※ハーレイ先生の書斎に「入った」カメムシ。困る、と退治したわけですけど…。
今は「臭い」と嫌われ者でも、前のハーレイにとっては「珍しい虫」。価値観の違いv