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未来がある今

(明日の授業は、と…)
 このクラスと此処と、とハーレイが数える明日の授業。
 ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎でコーヒー片手に。
 授業の準備はとうに済んでいるし、頭に浮かんだというだけのこと。
 「何処のクラスで授業だっけな?」と、何の気なしに。
 一つ考えると続きがあるもの。
 明後日は…、と授業の予定を確認、ついでに明日行くクラスの方も…。
(明日にやって、その次に行くのはだな…)
 この日なんだ、と数えてゆく。
 自分が受け持つクラスの授業を、この次はいつ、といった具合に。
 気付けば来週の分まで数えて、会議の予定も織り込んでいた。
 「この日は会議もあったっけな」とか、「この会議は早めに終わるヤツだ」とか。
 教師の仕事は先が読みやすい。
 決まった範囲を、決まった時間の間に教えるのが役目だから。
 少なくとも「授業」に関してだったら、先の先まで予定を立てられる。
(予定は未定、なんて言うヤツだっているほどだから…)
 あくまで予定なんだがな、と思いはしたって、その気になったら年度末まで予定は組める。
 この日に此処まで進めておいて、と。
 此処でテストで、成績の悪い生徒のためには此処で補習をしてゆこう、と。
 遅れる生徒が増えそうだったら、この頃までに少しペースを落として復習を、とか。
(ザッと予定を立てさえすれば…)
 それを基本に臨機応変、年度末までの「未来」を描ける。
 「だいたい、こんな感じだな」と。
 「これで一年分が終わるぞ」と、「続きは次の年次第だな」などと。
 翌年も自分が担当するかは、その頃まで読めはしないもの。
 異動がなくても、学校の中でどう変わるかは謎だから。


 それでも一年分は描ける、と思った「未来」。
 今からだと数か月分だけれども、年度末までの「未来」の授業。
 教室に立つ自分の姿も見えるよう。
 教科書を広げて、前のボードに次々と文字を書いてゆくのが。
 「分かったか?」と、「お前たち、ちゃんとノートに書けよ!」と見回す姿も。
 そして合間に生徒を名指しで、「此処を読め」と音読させてゆく所。
 手を挙げた生徒を「よし!」と当てては、答えに頷く光景だって。
(うんうん、いつもそうだってな)
 何処の学校でも、何年生を担当しても、授業の流れは変わらない。
 年度初めに一年分を「描いて」しまえる、「未来」の授業。
(生徒の方でも、その気になれば…)
 一年分の勉強の予定が立てられそうだが、と教科書の中身を考える。
 プリントなどを配りはしたって、授業の基本は教科書の方。
 年度初めに手にしたならば、「今年はこれを教わるのか」と分かる筈。
 ならば授業の中身を先取り、いわゆる「予習」。
 「この頃までに此処までやっておこう」とか、「夏休みまでに此処までやる」とか。
 そうやって予習をしておいたならば、ずいぶんと楽になるのだろうに…。
(あいつらときたら、まずやらないな)
 予習をしようというタイプでも、直前にやっているのが普通。
 先の先まで見据えて先取り、そんな生徒は滅多にいない。
(よっぽど好きな科目にしても…)
 そうそう数はいないんだ、と分かっているのが「先の先まで予習する」生徒。
 未来の予定は立てられるのだし、その気になったら出来るのに。
 現に「教える」自分の方では、一年分の「未来」を直ぐに描けるのに。
(まあ、あいつらには未来が山ほど…)
 ありすぎて忙しいからな、と苦笑する。
 友達と遊ぶ予定が入れば、もうそれだけで変わるのが「未来」。
 予習どころか、宿題さえも「忘れ果てる」のが生徒だから。


 同じ教科書でも、こうも変わるか、と可笑しくなる。
 教師の自分には「一年分の未来が描ける」予定表なのに、生徒は違う。
 次の授業の分の未来ですらも、描かないのが生徒たち。
 予習なんかはしても来なくて、当たろうものなら大慌て。
(前の日にちゃんと読んでおいたら…)
 ああはならんぞ、と思う酷い音読、それは教室で馴染みの光景。
 「そう読むのか?」と眉間に皺を寄せながら、「読み直しだ!」とやることも。
 なにしろ古典は、今の文章とは違うから。
 同じ文字でも、今のようには読まないことも多いから。
(明日もそういうパターンだろうな)
 誤読する生徒や、答えられなくて「えっと…」と詰まる生徒やら。
 「未来を先取り」して来た生徒は、皆無に近い教室で。
(まったく、若いヤツらってのは…)
 俺にも覚えはあるんだがな、と学生時代を覚えているから、怒りはしない。
 「未来がドッサリある」状態では、あっちにフラフラ、こっちにフラフラ。
 「明日はテストだ」と分かっていたって、ついつい遊びに行くだとか。
 家に帰って勉強しようと帰宅したって、気付けば「やっていなかった」とか。
(テストで酷い点を取っても、死にやしないし…)
 音読に詰まって赤っ恥でも、ただ笑われるだけで済む。教師には叱られるけれど。
 まるで危機感が無いのも当然、「命懸け」ではないのだから。
(俺の方でも、命は懸かっていないしな?)
 お互い様だ、と思った所で気が付いた。
 当たり前のように描いた「未来」。
 年度末まで描けると思って、一年分でもスラスラと描ける「未来」の予定。
 それをこなして一年が過ぎて、来年はまた「未来」を描く。
 「この学年の担当なのか」と、「ならば教えるのはコレだよな」と。
 前の年から教えた学年を引き継ぐのならば、そういったことも織り交ぜて。
 未来はいくらでも「描けるもの」で、一年分の授業の未来も描けるけれども…。


(…その未来ってヤツを…)
 持っていなかったのが前の俺だ、と蘇って来た遠い遠い記憶。
 今の青い地球に生まれて来る前、キャプテン・ハーレイと呼ばれた頃。
 白いシャングリラで、地球を目指して進んでいた時。
(…あの頃の俺は、もう未来なんか…)
 既に持ってはいなかった。
 前のブルーをメギドで失くして、魂はとうに死んでしまっていたようなもの。
 ブルーの望みを果たすためにだけ、「地球」という星を目指していた。
 地球には何の夢も抱かず、旅の終着点として。
 「地球に着いたら全て終わる」と、「そしたら、ブルーを追ってゆこう」と。
 そうなる前には、「未来」を持っていたというのに。
 「いつかブルーと青い地球へ」と夢を見た頃は、確かに「未来」があったのに。
 あった筈の未来は消えてしまって、未来の代わりに何を見たのか。
 「死」だけを思って生きていたって、「未来」はまるで無いのと同じ。
 「地球へ行かねば」という目標だけで、それは「未来」と呼べないもの。
 予定と呼んでいいのかどうかも、怪しいと言っていいくらい。
(…その目的を果たしたって、だ…)
 待っているのは「死」という「終わり」。
 ブルーを追って旅立つだけで、それは「先へと繋がりはしない」。
 流れる時間の更に「先」へは。
 「これが済んだら、次はこうだ」と、続いてゆきはしないもの。
 キャプテン・ハーレイは死んでしまって、時の流れの中から消える。
 それでは、何も始まらない。
 少なくとも、「時の流れ」の中では。
 ブルーを追い掛けて旅立った先で、どんな幸せがあろうとも。
(前の俺が、ああやって生きてた時には…)
 無かったよな、と気付かされた未来。
 地球のその先は「無かった」から。「地球に着いたら、終わり」だったから。


 なんてこった、と見詰めてしまった自分の手。
 前と同じに生まれ変わって、見た目はあの頃と変わっていない。
 コーヒーが入ったマグカップを傾ける手は、授業の時に文字を書いたりする手は。
(だが、今の俺は…)
 前の自分と同じようでも、再び「未来」を手に入れた。
 遠く遥かな時の彼方で、一度は失くしてしまった「それ」を。
 夢見ることさえ忘れた「未来」を、当たり前のように「描いていた」。
 「一年分だって描けるんだ」と、「生徒たちだって、その気になったら描けるんだ」と。
 前の自分は、それを「失った」のに。
 愛おしい人を失くしてしまって、もう「未来」などは無かったのに。
(…そうか、俺には普通なんだが…)
 一度は失くしてしまったんだ、と気付かされたら、「今がある」のがとても嬉しい。
 こうして未来を描き続けて、もう何年か経ったなら…。
(あいつが嫁に来てくれるんだ)
 今はまだまだチビなんだがな、と思い浮かべる小さなブルー。
 愛おしい人とまた生きてゆける、幸せな今。
 もう一度、「未来」を手に入れたから。
 「未来がある今」を生きているから、何処までも「未来」を描けるから…。

 

          未来がある今・了


※授業の「未来」はいくらでも描ける、と思ったハーレイ先生。その気になれば一年分でも。
 今では当たり前に「未来」があるのに、それは一度は失ったもの。考えてみると幸せなことv









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