(怖いものかあ…)
ハーレイの場合はコーヒーなんだよね、とブルーがクスッと零した笑い。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
今日は訪ねて来てくれなかった、愛おしい人。
けれど古典の授業で会えた。学校の、自分の教室で。
その時にハーレイが始めた雑談、クラスの生徒の集中力を取り戻すために。
いつもながら見事な技だけれども、今日の雑談の中身は落語。
(まんじゅうこわい…)
人間が地球しか知らなかった頃に、日本で生まれた落語の一つ。
怖い話だと聞いて「怪談なの?」と思ったけれども、全く違っていた話。
(怖いものは何か、って話になって…)
蜘蛛だ、ムカデだ、と話に花を咲かせていた男たち。
その中に一人、「怖いものなど一つも無い」と威張る男がいたものだから…。
(誰だってムッと来ちゃうよね?)
自分たちは「怖いもの」を披露したのに、「俺には無い」などと言われたら。
それで問い詰めたら、「実は…」と男が白状したのが饅頭。
他の者たちは怒っていたから、その男を饅頭攻めにした。
男の部屋に次から次へと、饅頭を山ほど投げ込んで。
(そしたら、怖いから食べちゃおう、って…)
男は端から平らげたわけで、「騙された」と気付いた、様子を見ていた男たち。
腹を立てながら「本当は何が怖いんだ」と尋ねたけれども、男の答えは…。
(今だと、一杯のお茶が怖いって…)
お茶は饅頭にピッタリの飲み物。
SD体制が崩壊した今は、饅頭だって売られている。緑茶も、それにほうじ茶なども。
「饅頭が怖い」と言って山ほど食べた後には、「一杯のお茶」を怖がった男。
教室中の生徒が笑って、雑談はそれで終わりの筈が…。
「授業に戻る」とやったハーレイ、其処で「はいっ!」と手を挙げた生徒。
クラスのムードメーカーの男子、彼の質問はこうだった。
「ハーレイ先生の怖いものは何ですか?」と。
柔道で鍛えたハーレイの強さ、それは誰でも知っている。水泳の腕がプロ級なのも。
その上、飛び抜けて立派な体格、頑丈そうなその身体。
(怖いものなんか無さそうだから…)
聞きたくだってなるだろう。
「ハーレイ先生にも怖い何かがあるのだろうか」と、「是非、知りたい」と。
もちろん自分も例外ではなくて、ワクワクと待ったハーレイの答え。
(ハーレイは何が怖いのかな、って…)
興味津々で瞳を煌めかせたけれど、返った答えは…。
(……コーヒーだなんて……)
ドッと沸き立ったクラスの生徒。
「先生、それは反則です!」と、さっきの落語の話と絡めて。
ハーレイがコーヒーが大好きなことは、生徒たちもよく知る周知の事実。
休み時間や放課後に質問などで出掛けて行ったら、ハーレイが飲んでいるコーヒー。
怖いどころか大好きなわけで、「饅頭が怖い」と言った男と同じこと。
けれどハーレイは「コーヒーだな」の一点張り。
上等なものほど怖いらしくて、コーヒー豆でも駄目らしい。
(…本当に怖いものが何かは…)
聞けないままで、終わりになってしまった雑談。
ハーレイは再び授業に戻って、それっきり。
「本当に怖いものが何か」は話しもしないで、「コーヒーが怖い」と言い切ったままで。
もっとも、相手はハーレイだから…。
(きっとホントに、怖いものなんか無いんだよ…)
ハーレイだものね、と顔を綻ばせる。
誰よりも強くて優しい恋人、それがハーレイ。
怖いものなどあるわけがないし、「怖いものはコーヒーだけなんだよ」と。
それに比べて、自分の方はどうだろう?
コーヒーは苦手でまるで飲めないから、もちろん怖い。
(そのままで飲めって言われたら…)
たちまち降参、一口だけでも口の中が苦くてたまらない。
どうしてもコーヒーを飲みたいのならば、まずは砂糖をたっぷりと。
それからミルクもたっぷりと入れて、仕上げにホイップクリームをこんもり。
(…そうしたら、うんと甘くなるから…)
やっと飲めるのが今の自分で、前の自分もそうだった。
キャロブで作った代用品のコーヒーだろうが、本物の豆のコーヒーだろうが。
(ぼくだとコーヒー、ホントに怖くて…)
他にも怖いものはある。
メギドの悪夢が何より怖くて、それを連れて来る夜の闇だって…。
(怖い時には怖いよね…)
こんなに暗いとメギドの夢を見てしまいそう、と明かりを点けておく夜もある。
常夜灯だけでは心細いから、他にも控えめに明かり。
(…それに、ハーレイのお蔭で怖くなくなったけど…)
フクロウの声も怖かった。
愛嬌のある姿はともかく、あの声が。
幼かった頃に庭の木に来て、「ゴッホウ、ゴロッケ、ゴウホウ」と鳴いていたフクロウ。
てっきりオバケの声だと思って、両親を起こして泣き叫んだ。
「オバケが来た」と、「庭でオバケが鳴いてるよ」と。
母は「フクロウだから大丈夫よ」と教えてくれたけれども、怖いものは怖い。
フクロウは「オバケの鳥」になってしまって、長く自分を悩ませた。
夜に庭から響く鳴き声は「オバケの声」。
とても怖くて、聞きたくもなくて…。
(あれが聞こえたから、メギドの夢まで見ちゃったんだよ)
恐ろしい悪夢を連れて来たのがフクロウの声。
あの声も「怖いもの」の一つで、なんとか克服できただけのこと。
こうして順に数えてみると、「怖いもの」が幾つもある自分。
ハーレイのように、「コーヒーだ」などと余裕たっぷりの答えは無理。
(…やっぱりハーレイはホントに強いよ…)
柔道と水泳で鍛えた心身、それはダテではないらしい。
前のハーレイにも負けない強さを持っているのが、今のハーレイ。
(…前のハーレイも強かったけど…)
柔道などはしていなかったけれど、精神はとても強かった。
キャプテンの激務に追われた時でも、けして弱音を吐いてはいない。
(…前のぼくがいなくなった後にも…)
ハーレイは「逃げはしなかった」。
誰よりも大切に想った恋人、それを失くしてしまっても。
白いシャングリラに独りぼっちで、生ける屍のようになっても。
(ちゃんとシャングリラを地球まで運んで、ジョミーを支えて…)
ソルジャー・ブルーが遺した言葉を守り続けた。
途中で投げ出してしまわずに。…恋人を追って、死の国に逃げてしまわずに。
(今も昔も、ハーレイには怖いものなんか…)
きっと無いのだ、と心から思う。
「ハーレイは、とても強いから」と。
前は心がとても強くて、今は心も身体も強い、と。
(だけど、ぼくだと…)
今では「怖いもの」が幾つも、「怖いものなんか無い」とは言えない。
前の自分だった頃にしたって、怖いものなら幾つもあった。
(…アルタミラの檻では、研究者たちや実験が怖くて…)
燃えるアルタミラを脱出した後も、「怖くない」とは言い切れなかった人類軍。
マザー・システムも、テラズ・ナンバー・ファイブも、それを相手にしてはいたものの…。
(怖くない、なんて思ったことは…)
多分、一度も無かったと思う。
怖くないなら、シャングリラごと雲海の中に潜む必要など無いのだから。
どうやら自分は弱虫らしい、と今日のハーレイの言葉を思い出す。
涼しい顔で「コーヒーが怖い」と言ったハーレイ。
あんな風には自分は言えない、好物が幾つあったとしても。
怖いものなら沢山あるから、余裕たっぷりに好物の名前を挙げられはしない。
「ホットケーキが怖いんだよ」とか、「パウンドケーキが怖くって…」だとか。
(…うーん…)
ホントにハーレイに比べて弱い、と思う自分の弱虫っぷり。
「怖いものなんか無いよ」と言ってみたいのに。
ハーレイみたいに「反則です!」と皆に抗議されても、「怖いもの」に好物を挙げたいのに。
(ぼくがやったら、嘘っぱちで…)
誰も笑ってくれないよ、と考えたけれど。
怖いものなら山ほどあるから、ハーレイの真似は無理そうだけれど…。
(…ちょっと待ってよ?)
そのハーレイと一緒に、青い地球に生まれて来た自分。
キスも貰えないチビだけれども、ハーレイは今でも自分の恋人。
遠く遥かな時の彼方で、一度は失くしてしまったのに。
右手に持っていたハーレイの温もり、それさえ失くして泣きじゃくりながら死んだのに。
(…だけど、ハーレイと、ちゃんと出会えて…)
前の自分と同じ背丈に育った時には、キスが貰える。
十八歳になれば結婚できるし、その時はもう離れない。
ハーレイが仕事に行っている間は、家で留守番するにしたって…。
(待ってる間に、ハーレイ、帰って来てくれるしね?)
誰よりも強いハーレイが。
「怖いものなど何も無いが」と言ってしまえるハーレイが。
そのハーレイと一緒だったら、怖いものなんか…。
(あるわけないよね、何処を探しても…?)
絶対に無いよ、と自信を持って言えること。
「怖いものなんか、何処にも無い」と。
ハーレイが側にいてくれるのなら、二人で生きてゆけるのならば。
(…コーヒーは、ちょっぴり怖いんだけど…)
苦いから苦手で怖いんだけど、と思いはしたって、大丈夫。
「コーヒーが怖い」と笑ったハーレイ、そのハーレイが一緒なら。
誰よりも強いハーレイの側なら、怖いものなんか、きっと一つも無いだろうから…。
怖いものなんか・了
※「コーヒーが怖い」と言ったハーレイ先生とは逆に、怖いものが沢山のブルー君。
けれど、ハーレイ先生と一緒だったら、怖いものなんか無いようです。頑張れ、ブルー君v