(怖いものなあ…)
俺には無いな、とハーレイが唇に浮かべた笑み。
夜の書斎でコーヒー片手に、今日の出来事を思い返して。
ブルーの家には寄れなかったけれど、古典の授業をしに出掛けた。
もちろん、ブルーのクラスへと。
ブルーは熱心に聞いていたって、他の生徒たちはそうはいかない。
いくら「ハーレイ先生」の人気が高くても…。
(授業ってヤツをしてる限りは、俺は嫌われちまうんだ)
テストが好きな生徒が一人もいないのと同じ。
授業が好きな生徒というのは、「いない」と言ってもいいだろう。
どんなに好きな科目であっても、自分のペースで学べるわけではない授業。
あまり好きではない科目となったら、嫌になる生徒だって出てくる。
(もう駄目だ、と投げ出すヤツとか、退屈になるヤツだとか…)
そうなると途切れる集中力。
余所見をしたり、欠伸をしたり、今にも寝そうな顔の生徒も。
それでは教師の自分も困るし、授業は其処で一休み。
生徒が食い付きそうな雑談の時間で、「よく聞けよ?」と始めてやったら…。
(現金なモンで、パッと教室の雰囲気が…)
変わってしまうから面白い。
居眠りしかけていた生徒までが、興味津々でこちらを見てくる。
「今日の話は何だろう?」と、好奇心に瞳を煌めかせて。
(…ああいう調子で、授業も聞いてくれればだな…)
いいんだがな、と思ってはみても、それが無理なことは百も千も承知。
仕方ないな、と始める雑談。
集中力は戻ったわけだし、そういう意味では大成功だ、と。
今日の話は「怖いもの」。
「怪談ですか?」と震え上がった生徒や、「怖い話」に期待する生徒もいたけれど。
(残念ながら、そうじゃなくてだ…)
聞かせてやったのは昔の落語。
ただし「あらすじ」、落語を全部話していたなら、もはや雑談とは呼べないから。
それの中身が「まんじゅうこわい」。
人間が地球しか知らなかった時代の日本で生まれた、有名な落語。
男たちが集まり、「お前の怖いものはなんだ」という話題に花を咲かせた。
蜘蛛だのムカデだの、色々なものが挙げられる中で、「無い」と答えた男が一人。
この世に怖いものなどは無いとうそぶいたから、周りの誰もがムッと来た。
「なんてヤツだ」と。
皆に睨まれた男の方では、もう渋々といった具合で…。
(本当は、一つだけあると…)
白状したのが「まんじゅう」だった。
SD体制が崩壊した今は、ちゃんと売られている「饅頭」。
中に餡子が詰まった食べ物、緑茶やほうじ茶が似合いの和菓子。
遠い昔も、やはり同じにあった「饅頭」、それが男の「怖いもの」。
そういうことなら、と他の輩は考えたわけで、「怖いものは無い」と言った男を…。
(饅頭攻めにしてやろう、と…)
男がいる部屋に次から次へと、「怖い」饅頭を投げ込んだ。
悲鳴を上げて騒ぐだろうと思っていたのに、男の方は…。
(とても怖いから、食ってしまえば無くなるだろうと…)
そう言いながらパクパクと食べて、平らげてしまった饅頭の山。
流石に「騙された」と誰でも気付くし、「本当に怖いものはなんだ」と詰ったら…。
(今だと、一杯のお茶が怖いと…)
饅頭にピッタリのお茶を挙げたから、お手上げとなって落語はおしまい。
生徒たちは「へえ…」と聞き入っていた。
「饅頭が怖い」と答えた男の頓智と、騙された他の男たちの話に笑い転げて。
一気に戻った集中力。
「お前たちも、こういう具合にだな…」
上手く切り抜ける頭を持てよ、とクラスを見回し、「授業に戻る」と言おうとしたら。
「先生!」と男子の一人が手を挙げた。
ブルーのクラスのムードメーカー、何かと言えば出てくる彼。
そうしてぶつけられた質問、「先生の場合は何ですか!?」と。
「…俺だって?」
「はい! 先生の怖いものは何なんですか?」
一つくらいはありますよね、という質問に沸き立った教室。
柔道の強さは知られているし、水泳の腕が立つというのも学校中に広まっている。
その上、身体も飛び抜けて大きく、頑丈に出来ているものだから…。
(俺の怖いものを知りたいというのは…)
分からないでもないんだがな、と今だって思う。
「ハーレイ先生にも怖い何かがあるのだろうか」と、生徒たちが興味を抱くのも。
けれども、怖いものなどは無い。…本当に。
そうは言っても知りたがるのが生徒たちだし、話題は「まんじゅうこわい」だったし…。
「ふむ…」と腕組みをして、暫し、考えるふり。
そして、重々しく答えてやった。眉間に深い皺まで刻んで。
「実はな…。俺は、コーヒーが怖いんだ」と。
途端にドッと起こった笑い。
コーヒー好きなのは、誰でも知っていることだから。
「先生、それは反則です!」と声が幾つも上がったけれど。
「いや、コーヒーが怖いんだ。…あえて言うなら、上等なヤツほど怖くてたまらん」
時間をかけて丁寧に淹れたヤツほど怖い、と震えてみせた。
「俺を怖がらせるなら、コーヒーだろう」と。
コーヒー豆など見ただけで怖いし、淹れたコーヒーなら尚更だな、と。
生徒たちは「嘘は駄目です!」と食い下がったけれど、サラリと無視した。
「授業に戻る」と背中を向けて。
(…コーヒーなあ…)
これが怖い、と愛用のカップを傾ける。
マグカップにたっぷりと淹れたコーヒー、実の所はお気に入り。
(怖いものは何ですか、と訊かれてもだ…)
本当に「無い」から、そう答えたまで。
それで納得してくれないから、「まんじゅうこわい」の落語よろしく「コーヒーだ」とも。
今の時代はとても平和で、悪ガキとして育った自分のようなタイプは…。
(蛇が出ようが、ムカデだろうが…)
少しも怖いと思いはしないし、とても敵わない猛獣などは動物園の檻の中。
猛獣と戦うわけではないなら、「怖い」と思うわけがない。
「ほほう…」と鋭い牙や爪を眺めて、「いくら俺でも勝てないな」と思う程度で。
(こんな平和な時代じゃなあ…)
いったい何を怖がれと言うんだ、と生徒たちの顔を思い浮かべて苦笑する。
幼い子供だったらともかく、「いい年をした大人」たちには、「怖いもの」など無いだろうと。
(俺だけじゃなくて、誰だって…)
そういうモンだ、と思った所で気が付いた。
今の自分は「怖いものなど無い」のだけれども、前の自分はどうだったか、と。
遠く遥かな時の彼方で生きたキャプテン・ハーレイ、あちらの方は、と。
(…前の俺だと…)
まず挙げるのなら、人類軍。
シャングリラがあれば大丈夫だ、と思ってはいても強敵ではあった。
思考機雷の群れに追われて、三連恒星の藻屑になりかけたこともあったほど。
その人類軍にいた「人類」の方も、色々な意味で怖かった。
ミュウの敵だし、アルタミラでは酷い人体実験をされて生き地獄。
(…あれは確かに怖かったが…)
しかし今だと、どれもいないな、と考えるまでもない時代。
人間は誰もがミュウになったし、平和な宇宙に軍などは無い。
それに兵器も武器も無いから、怖いものなど「無い」と答えて当然だろう。
前の自分が時を飛び越えて来ても、「怖いものは無い」と言う時代。
そんな時代に生まれた自分に、「怖いもの」などある筈もない。
(うんと平和で、おまけにブルーも…)
ちゃんといるしな、と思い浮かべた小さなブルー。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
ブルーは帰って来てくれたのだし、もう充分だ、と思う今の生。
けれど…。
(…あいつが俺に惚れていなかったら…)
もしもブルーが新しい身体と命に相応しく、まるで別の恋をしていたら。
自分の方など向いてもくれずに、他の誰かに恋をして去ってしまったならば…。
(…俺の人生は真っ暗じゃないか…!)
それだ、と気付いた「怖いもの」。
前の自分はブルーをメギドで失くしたけれども、そうやって「ブルーを失くす」こと。
どんな形であれ、「それが怖い」と、「ブルーがいない人生なんて」と。
ブルーが他の誰かに恋して、幸せに生きていたならば…。
(俺も温かく見守ってやれるが、それでもだな…)
日々、悲しくてやりきれない。辛くて、とても寂しくて。
つまり自分の「怖いもの」とは…。
(…ブルーがいない人生なんだ…)
ブルーだらけの人生だったら歓迎だが、と幸せな未来を頭に描く。
いつかそういう時が来るから、結婚して一緒に暮らすのだから。
(あいつと一緒の人生だったら、怖いものなど…)
一つも無いさ、と自信をもって言えること。
平和な今でも「怖いもの」が一つあるとしたなら、それは「ブルーがいない人生」。
けれどブルーと一緒だったら満足なのだし、怖いものなど全く無いな、と…。
怖いものなど・了
※「怖いものはコーヒー」だと答えたハーレイ先生。怖いものなど一つも無いな、と。
けれど怖いのが「ブルーのいない人生」。ブルー君さえ一緒だったら、「怖いもの」無しv