(ハーレイ、来てくれなかったよ…)
それに当ててもくれなかった、と小さなブルーが零した溜息。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
来てくれるかと待っていたのに、鳴らないままで終わったチャイム。
訪ねて来てはくれなかったハーレイ、何度も窓を眺めたのに。チャイムの音を待ったのに。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
今は自分が通う学校、其処で古典の教師をしているハーレイ。
(頑張って手を挙げたのに…)
古典の授業がある日だったから、胸を弾ませて登校した今日。
もう確実に会える恋人、学校では「ハーレイ先生」だけれど。
授業中には「古典の先生」、「ハーレイ先生」以上に距離が開くのだけれど。
それでも顔が見られる時間。
好きでたまらない声も聞けるし、どの授業よりも待ち遠しいのが古典の時間。
今日もドキドキ胸を高鳴らせて、ハーレイが入ってくるのを待った。
授業の始まりを告げるチャイムが聞こえたら。…教科書やノートを机に置いて。
直ぐに入って来たハーレイ。
「今日は此処から」と広げた教科書、「この前の授業は覚えているな?」と。
そして授業が始まったけれど、残念なことに…。
(ぼくには当ててくれない日…)
今日はそうだ、と何回か手を挙げたら分かった。
ハーレイが生徒に投げる質問、それに応えて「はいっ!」と右手を挙げている内に。
(…いつも当たるとは限らないけど…)
同じ生徒ばかりが指されはしないし、そう簡単には当てて貰えない。
けれど難しい問題だったら、格段に上がる「当てて貰える」確率。
他に手を挙げている生徒が減るほど、当たりやすくなる「手を挙げた生徒」。
それで運よく当たった時には、張り切って「はいっ!」と立ち上がる。
ハーレイと二人で向き合えるから。
教師と教え子、そんな二人でも、その時は「二人きり」だから。
授業中に誰かを名指ししたなら、ハーレイはけして余所見をしない。
当てた生徒を真っ直ぐ眺めて、「答えは?」と鳶色の瞳で促す。
もちろん、温かな声までついて。
(ぼくが当たったら、「ブルー君」って…)
それで始まる二人きりの時間、他の生徒は割り込めない。
当てられたのは自分なのだし、答えを期待されるのも自分。
(他に答えられる生徒がいたって…)
横から勝手に正解を言えば、私語と同じで叱られるだけ。それは余計なことだから。
当たった生徒が答えられなくて、詰まっていたなら別だけど。
何も言えずに俯いたままで、ハーレイが「誰か、答えが分かるヤツ!」と言ったなら。
その場合でも、やはり「手を挙げる」ということが大切。
ハーレイが誰かを指さない限りは、自分の席から叫べはしない。どの生徒だって。
教師と生徒の真剣勝負が「質問に答えている」間。
いわば試合で、一対一で勝負する時。
其処に横から割り込むなどは言語道断、ハーレイが許さない限り。
割り込む時にも必要な作法、手を挙げて当てて貰うこと。
だから自分が当たった時には、暫く独占できるハーレイ。
「ブルー君!」と当てて貰って、「はいっ!」と椅子から立ち上がったら。
質問の答えをスラスラ答えて、「よし」とハーレイが頷くまで。
とても難しい質問だったら、「しっかり勉強しているな」と褒めて貰える時だって。
(先生と教え子なんだけど…)
その間だけは二人きりだよ、と思えるハーレイとの時間。
私的な会話はまるで無しでも、質問に答えるだけのことでも。
ハーレイは余所見をしないから。
自分の方でも、ハーレイだけを真っ直ぐ見詰めていられるから。
誰も変だと思いはしないし、「それで当然」なのが「当てられた」時。
どの生徒でも同じになるから、みんな一対一だから。
教室に立つハーレイと。質問を投げて、当てた「ハーレイ先生」と。
ハーレイと二人きりの時間が欲しくて、いつも懸命に手を挙げる。
質問の度に「はいっ!」と、前の生の最後に凍えた手を。
ハーレイの温もりを失くしてしまって、メギドで冷たく凍えた右手を。
(…授業中は、そんなの忘れてるけど…)
少しも意識はしていないけれど、挙げている手はいつでも右手。
ただの偶然、元から右手が利き手だから。
下の学校でも、幼稚園でも、いつも右手を挙げていたから。
(でも、ハーレイなら気付いてるよね?)
とうの昔に、「あの右手だ」と。
何度も大きな褐色の手で、包んで温もりを移してくれるハーレイ。
「温めてよ」と右手を差し出す度に、「これでいいか?」と、「温まったか?」と。
だからハーレイも知っている筈。自分が「はいっ!」と挙げる右手を。
それがどんなに悲しい記憶を秘めているのか、どれほど冷たく凍えたのか。
(分かっているんだろうけれど…)
授業の時には「ハーレイ先生」、前の生のことは無関係。
挙げている手が右手だろうが、左手だろうが、「手を挙げている」というだけのこと。
「あいつもだな」と気付いてくれれば、当てて貰える時だってある。
今日も期待に胸を弾ませ、「はいっ!」と何度も手を挙げたのに…。
(…当てて貰えない日だったんだよ…)
途中で「そうだ」と気が付いた。
手を挙げる生徒が少なかった質問、「ぼくが当たるかも!」と思った途端に指された生徒。
名前を呼ばれて慌てた生徒は、手などは挙げていなかった。
なのにハーレイは名指しで当てて、「答えは?」と訊いたものだから。
立ち上がった生徒が答えられなくても、「よく考えろよ?」とヒントを出したから…。
(……今日は駄目な日……)
自分は当てて貰えない日だ、と分かってしまった。
今日のハーレイは「答えられる生徒」を求めていない、と。
質問に答えられない生徒を指導する日で、授業を理解できる生徒は「聞いているだけ」。
そっちの方だ、と気付いたけれども、諦められない二人きりの時間。
ハーレイが当ててくれないとしても、手を挙げずにはいられない。
「此処にいるよ」と、「ぼくも当ててよ」と、何度でも。
他の生徒ばかりが当てられていても、優等生の出番は無い日でも。
(…だって、手を挙げるのをやめちゃったら…)
もう気付いてさえくれないハーレイ。
自分が教室にいることに。…この瞬間にもハーレイを見詰め続けていることに。
手を挙げたならば、「いるな」と思ってくれるだろうに。
「今日はお前は当てられないんだ」と、チラと意識してくれるだろうに。
当たらないから、と手を挙げるのをやめてしまえば、埋もれてしまう自分の存在。
他の生徒の間に紛れて、「クラスの一人」になってしまって。
頑張って右手を挙げ続けたなら、「あそこにいる」と目を引けるのに。
一度も当てては貰えなくても、ハーレイの目には入るのに。
(…だから、頑張ったんだけど…)
最後まで手を挙げ続けたけれど、やはり当てては貰えなかった。
二人きりの時間は貰えないまま、「今日は此処まで」と教科書をパタンと閉じたハーレイ。
授業の終わりを知らせるチャイムが響いたら。
前のボードに書いていた字を、最後まで書き終わったら。
(…後は、「質問は無いか?」って…)
ぐるりと教室の生徒を見回し、ハーレイは去って行ってしまった。
「質問のあるヤツは、いつでも来いよ」と穏やかな笑顔を投げ掛けて。
それでおしまい、何人かの生徒が追い掛けて行った。「ハーレイ先生!」と早足で。
古典の教科書やノートを手にして、何処から見たって質問が目当て。
きっとハーレイは、廊下に出るなり捕まっただろう。
彼らに囲まれ、質問に丁寧に答えていたのか、「ついて来い」と纏めて連れて行ったか。
どちらにしたって、其処に混じれはしない自分。
…質問などは無かったから。
授業について訊きたい生徒がいたなら、とても立ち話は出来ないから。
(…今日は、それっきり…)
ハーレイが訪ねて来てくれていたら、色々と話が出来たのに。
学校では出来ない恋人同士の話が出来て、甘えることも出来た筈なのに。
(…来てくれたらいいな、って待っていたのに…)
何度も何度も窓を眺めて、耳を澄ませたチャイムの音。ハーレイが鳴らしてくれないかと。
けれどチャイムは鳴らずに終わって、もうじき今日という日も終わる。
日付が変わるのはまだ先だけれど、自分がベッドに入ったら。
眠りの淵へと落ちて行ったら、終わってしまうのが今日で、無かったハーレイとの時間。
二人きりの時間は、ほんの少しも。
当てられて質問に答えるだけの、教師と教え子の時間でさえも。
(…ハーレイ、分かってくれてるよね…?)
今の寂しい自分の気持ち。「来てくれなかったよ」と零れる溜息。
この時間ならば書斎だろうか、夜は書斎でコーヒーを飲むことが多いと聞いているから。
書斎でなくても一杯のコーヒー、それが憩いの時らしいから。
(ぼくのこと、ちゃんと思い出してよ…?)
頑張って手を挙げたんだから、と愛おしい人に心の中で呼び掛ける。
思念波は上手く紡げないから、ハーレイに届きはしないけど。
届けられるほど器用ではないし、想うことしか出来ないけれど。
(学校じゃ教え子なんだけど…)
でも、ハーレイの恋人だよね、と念を押したくなる恋人。
忘れられたリしてはいないと分かっていても。
ハーレイはけして忘れはしないと、きっと想っていてくれるのだと分かっていても。
…今日は当てては貰えないまま、授業が終わってしまったから。
帰りに訪ねて来てもくれなくて、二人きりの時間は無しの一日だったから…。
教え子なんだけど・了
※ハーレイ先生に当てて貰えなかったブルー君。おまけに家にも来てくれなくて…。
夜になっても零れる溜息、「教え子だけど、恋人だよね?」と。寂しがり屋のブルー君ですv