(今日は会い損なっちまったなあ…)
学校でちょいと会えただけだ、とハーレイがついた小さな溜息。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎でコーヒー片手に。
今日は会えずに終わってしまった愛おしい人。
前の生から愛し続けた恋人、生まれ変わってまた巡り会えた最愛の人。
(会議が長引いちまったから…)
あいつの家には行きそびれたんだ、と残念な気分。
会議の予定は知っていたけれど、もっと早くに終わるだろうと思っていたから。
(こうなるんだと分かっていたら、もう少しだな…)
あいつと話しておけば良かった、と学校で会った恋人を想う。
廊下で出会って、二言、三言、交わした言葉。
立ち話とまではいかない程度で、「じゃあな」と別れてしまったけれど。
今日は家まで会いに行けるし、とブルーと離れてしまったけれども、大失敗。
(あいつには、家に行くとは言ってないから、そうガッカリはしてないだろうが…)
俺がすっかりガッカリなんだ、とコーヒーを満たしたカップを傾ける。
愛用のマグカップにたっぷりと淹れた熱いコーヒー、「こいつのお蔭で救われるがな」と。
そうしたら…。
「いい御身分だな」と聞こえた声。何の前触れもなく、頭の中で。
(…確かにそうだな…)
いい御身分だ、と思わざるを得ない。
頭の中で聞こえた声は、思念波などでは無かったから。
心の声といった所で、けれども自分の心ではなくて、自分の心の一部でもあって…。
(…前の俺から見てみたら、だ…)
うんと結構な御身分だよな、と思う自分が置かれた状況。
恋人の家に行きそびれただけで、「すっかりガッカリ」なのだから。
カップに満たした熱いコーヒー、それのお蔭で「救われるがな」などと思っているのだから。
自分だけれども、自分とは違う前の自分。
それが自分の中にいるから、たまにこういうこともある。
今の自分には当たり前のことに驚かされたり、如何に自分が恵まれているかを知らされたり。
(俺の中には、前の俺が入っているわけで…)
そっちも俺には違いないが、と考えながらも「おい」と呼び掛けてみた。
今夜は少し話してみるか、と思ったから。
小さなブルーと話す代わりに、前の自分と話すのもいい。
もっとも、前の自分と言っても、魂はまるで同じものだから、多分、一種の独り言。
自分自身に話し掛けてみて、心の中で語り合うだけ。
けれど、時には楽しくもある。…相手は自分自身だけれども、違う時代を生きたのだから。
今の自分とは違う人生、それを生きたのが前の自分だから。
「いい御身分だと言ってくれたよな?」と返してやったら、「ああ」と答えた前の自分。
「俺はそうだと思うがな? たかがブルーに…」
会いそびれただけのことだろうが、というのが前の自分の返事。
遠く遥かな時の彼方で、キャプテン・ハーレイと呼ばれた男。
「けっこうなものを飲んでるじゃないか」とも言われてしまった。
「そのコーヒーは本物だろう?」と。
「俺は本物とは殆ど御縁が無かったがな?」と、「コーヒーと言えば代用品だ」と。
「…分かっているさ。キャロブのコーヒーだったことはな」
白い鯨になった後にはそうだったよな、と頷いて見詰めるカップの中身。
今では毎日、コーヒーを飲んでいるけれど。
朝食の時に飲んで出掛けて、夜も寛ぎの一杯だけれど、間違いなく本物のコーヒー。
豆から挽いたりすることもあるし、正真正銘、コーヒー豆。
けれども、前の自分は違った。
自給自足で生きてゆく船、白いシャングリラが出来上がってからは。
コーヒーはキャロブ、イナゴ豆で出来た代用品。
それまでの船なら、前のブルーが人類の船から奪った本物だったのだけれど。
今と同じにコーヒー豆から出来たコーヒー、本物を愛飲したのだけれど。
そんな具合だから、前の自分に「いい御身分だ」と笑われる。
ガッカリしている理由を笑われ、そのガッカリを癒すコーヒーを「けっこうなものだ」と。
(…お前さんには、勝てやしないんだ…)
あらゆる意味でな、と白旗を掲げるしかない、前の自分という男。
今の自分よりも遥かに過酷な人生を生きて、それをものともしなかった男。
船だけが全ての世界にいてさえ、前の自分は幸せに生きた。
前のブルーと長い時間を、最初は友達同士として。
恋だと互いに気付いた後には、恋人同士の二人として。
「…どうせ、今の俺のガッカリなんかはだな…」
お前さんから見れば些細なことに過ぎないんだろ、と零した愚痴。
「ブルーは生きているんだから」と、「それに、学校では会えたんだしな?」と。
もう間違いなく、前の自分には「けっこうすぎる」今の自分の立場。
前の自分は、ブルーを失くしてしまったから。
誰よりも愛した人を失くして、独りぼっちで地球までの道を生きたのだから。
「そう愚痴らんでもいいだろう。いい御身分だとは思うがな」
お前さんにとっては、それも立派なガッカリだから、と返った言葉。
「幸せに生きてりゃ、それに見合ったガッカリってヤツも来るもんだ」と。
「俺には俺のガッカリがあったし、お前さんにはお前の分が」と。
そう言われるから、「敵わない」と思うキャプテン・ハーレイ。
今の自分より、ずっと器が大きい男。
ブルーの家には行けなかった程度で、ガッカリしたりはしないのだろう。
もっと前向きに考えるだろうし、憩いのコーヒーがキャロブの代用品でも…。
(あいつなら充分、満足なんだ…)
本物のコーヒーがあった時代を、未練がましく振り返りはしない。
「もう一度、美味い本物を飲みたいもんだ」と考えるような男でもない。
常に前だけを見ていた男で、ブルーを失くしてしまった後も…。
(真っ直ぐに地球だけを見ていやがった…)
キャプテンだから、と自分を捨てて。魂はとうに死んでいたって、目指した地球。
「お前さんには敵わんよ」と改めて思うし、降参するだけ。
「俺はけっこうな御身分だから」と、「すっかり柔になっちまった」と。
こんな俺など可笑しいだろうと、「お前さんから見たら、つまらん男だよな?」と。
「どうなんだか…。それも必要だと思うんだがな?」
今はそういう時代だろう、と大らかに笑う心を感じる。前の自分の。
「時代に合わせて変わるもんだ」と、「お前さんには今の生き方が似合いなんだ」と。
そうだろう、と畳み掛ける声。
「ブルーもすっかり変わった筈だぞ」と、「それに合わせて変わらないとな?」と。
前と同じに生きていたのでは、今のブルーが途惑うだけ。
平和な時代に生まれたブルーが、幸せ一杯の子供時代を満喫している恋人が。
(…そうか、ブルーなあ…)
前の俺のままだと困るかもな、という気がして来た。
何かといえば膨れっ面で、我儘にもなる小さなブルー。
キャプテン・ハーレイだった頃のままなら、今のブルーをどう扱えばいいのだろう?
(甘やかし方は多分、分かるんだろうが…)
分かるというだけ、白いシャングリラの養育部門の子供を相手にするのと同じ。
膨れていたなら、「どうした?」と事情を尋ねてやったり、問題の解決に手を貸してみたり。
(今の俺だと、あいつの頬っぺた…)
両手でペシャンと潰したりもする。膨れっ面の理由によっては、笑いながら。
そうして頬っぺたを潰した後には、「ハコフグだな」などと言ったりもして。
頬っぺたを押し潰されてしまったブルーは、今の自分が海で出会ったハコフグに…。
(可笑しいくらいにそっくりなんだ)
元はブルーの顔なんだがな、と思い出してみる「ハコフグ」のブルー。
「酷いよ、ハーレイ!」とプンスカ怒って、抗議してくる小さなブルー。
前の自分が今のブルーの相手をしたって、そうはいかない。
きっと大真面目に話を聞くとか、叱るにしたって筋道を立てて…。
(分かって下さい、とやりそうだよな?)
頬っぺたを潰して笑う代わりに、ハコフグのブルーを作る代わりに。
なるほどなあ…、と思わされたこと。
今の自分はちっぽけだけれど、前の自分に敵わないけれど。
それは時代に合わせた変化で、恋人のためにもなる変化。
キャプテン・ハーレイのままでいたなら、きっとブルーは困るから。
前の自分のように振舞っても、困った顔になるだろうから。
(俺はこのままでいいってか…)
けっこうな御身分の俺のままで、と心で訊いたら、「そうだな」と前の自分が笑う。
「お前さんにはそれが似合いだ」と、「ブルーを大事にしてやれよ」と。
言われなくても、今の自分はそのために生きてゆくのだから…。
「大事にするさ」と余裕たっぷり、この点だけは前の自分に負けない。
それどころか俺の大勝利だぞ、と溢れる自信。
今度は結婚できるのだから、ブルーを守ってゆけるのだから。
(俺の中には、前の俺だっているんだが…)
前の俺の分まで大事にせんと、と思う恋人。
キャプテン・ハーレイにもそう言われたから、ブルーは自分の大切な宝物だから…。
俺の中には・了
※キャプテン・ハーレイと語り合ってみたハーレイ先生。前に比べて、けっこうな御身分。
けれども、今の時代にお似合い。ブルーのためにもなるんだしな、と自信満々な結末ですv