(ハーレイ、来てくれなかったよ…)
来てくれるかと思ったのに、と小さなブルーが零した溜息。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
今は学校の教師のハーレイ、仕事が早く終わった時には家を訪ねて来てくれる。
そしたら二人で、この部屋でお茶。
窓際に据えたテーブルと椅子で、のんびりと。
それから両親も一緒の夕食、幸せな時間を過ごせるけれども、今日はハーレイは来なかった。
「来てくれるかな?」と待っていたのに、チャイムが鳴るのを待ったのに。
(…会議か、柔道部なのかは知らないけれど…)
寂しいよね、と嘆いてみたって始まらない。
今日という日は、時間だけなら幾らか残っているけれど。
日付が変わる時間までには、充分に余裕があるのだけれども、とうに夜。
こんな時間にハーレイは来ないし、チャンスがあるなら明日のこと。
明日、学校から帰って来たなら、今日と同じに待つのだろう。
「ハーレイが来てくれるといいんだけれど」と。
勉強机の前に座って、あるいは窓から下を見下ろして。
庭の向こうに見える生垣、庭と道路を隔てる緑。
茂った枝葉の間を透かして、別の緑が見えないかと。
前のハーレイのマントの色と同じ緑の、ハーレイの愛車。
それが来るのが見えはしないかと、門扉の所に長身の影が立たないかと。
(…明日、ハーレイが来るにしたって…)
今から何時間あるの、と壁の時計を見上げて悲しくなってくる。
まだまだハーレイに会えはしないし、その時間までには学校だって。
(学校でも、会えないことはないけど…)
会えるのは「ハーレイ先生」だしね、と思い始めたらきりが無い。
どんどん寂しくなってゆくだけで、この時間からハーレイに会えはしないから。
これじゃ駄目だ、と気分を切り替えることにした。
ハーレイのことを考えるのはやめて、もっと素敵に過ごそうと。
眠る前には楽しいことをと、そうすれば夢もきっと素敵、と。
(えっと…)
何がいいかな、と立ち上がって出掛けた本棚の前。
新しい本は買っていないし、今までに読んだ本の中から何か一冊選ばなければ。
(…シャングリラの写真集は駄目…)
好きだけれども、ハーレイを余計に思い出すだけ。
白い鯨だったシャングリラ。今は写真集の中にしか残っていない船。
あの船で前のハーレイと暮らして、恋をしていた。
ハーレイが船の舵を握って、前の自分が船を守った。
そういう二人が恋仲だなどと、仲間たちに知れたら船の中は上手く回りはしない。
だから懸命に恋を隠して、最後まで隠し続けたまま。
前の自分も、前のハーレイも、誰にも言わずにその生を終えた。
そうして地球に生まれ変わって、また巡り会えた二人だけれど…。
(まだ一緒には暮らせないし…)
恋をしているとも明かせない。
今の自分は十四歳にしかならない子供で、結婚することも出来ないから。
ハーレイが訪ねて来てくれるのを、今か今かと待っているだけ。
(このシャングリラの写真集だって…)
教えてくれたのはハーレイだけれど、二人一緒に見られはしない。
ハーレイが家に来てくれなければ、二人で広げてページをめくるのは無理だから。
(…ハーレイだらけの本だしね?)
同じ写真集をハーレイが先に買っていたから、「お揃いだよね」と思う写真集。
お気に入りでも、今は選びたくない気分。
ページをめくれば、ハーレイのことを思い出すから。
「今日は来てくれなかったよ」と。
明日は会えればいいんだけれど、と寂しい気分を拭えないから。
この本は駄目、と切り捨てたのが白いシャングリラの写真集。
父に強請って買って貰った豪華版。
(見たいけれども、ハーレイしか浮かんで来ないから…)
他のにしよう、と本棚を端から順に眺めて、一冊選んで取り出した。
中身をすっかり覚えている本、けれど大好きな物語。
何処から読んでも、何処で終わっても、話はきちんと繋がるから…。
(もうちょっとだけ、って夜更かししたりはしないしね?)
此処で終わり、と本を閉じても、話の続きは頭の中。
どういう風に続いてゆくのか、考えながら眠りに落ちたら、素敵な夢も見られそう。
物語の世界の中に入って、其処で暮らしている自分。
運が良ければ、主人公にだってなれそうだから。
(それが一番…)
ハーレイのことばかり考えてしまう世界から、本の中にある世界に旅立つ。
きっと今頃は、ハーレイもそう。
コーヒーでも淹れて、書斎に座って、本の世界を旅していそう。
(…ダメダメ、今はハーレイは抜き…)
考えちゃったら溜息ばかり、と本を手にして戻ったベッド。
横になって読むか、ベッドに座るか、少し迷って座る方にした。
腰掛けていたら、「早く寝なくちゃ」と思うから。
眠くなるまで頑張りはせずに、「此処でおしまい」と本を戻しに行く筈だから。
(夜更かししちゃうと、身体に悪いし…)
明日の朝に具合が悪くなったら、行けなくなってしまう学校。
両親に「寝ていなさい」と言われて、母が学校に欠席の連絡をしてしまって。
(そしたら、学校でハーレイに会えない…)
そんなの困る、と頭の中身はまたハーレイ。
どう転がってもハーレイばかりで、消えてくれない恋人の顔。
(それが困るから、本なんだってば…!)
ハーレイは此処まで、とベッドに腰を下ろして開いた本。
別の世界に旅をしようと、ハーレイのことを忘れたいならそれが一番、と。
本を広げて、旅に出掛けた別世界。
直ぐに入り込んで、アッと言う間に其処の住人。
ページをめくれば次から次へと、色々なものが見えてくる。
景色も、其処で暮らす人々も、主人公の姿も、その世界に流れている時間も。
(…この森を抜けたら…)
川の直ぐ側に、小さな家が建っていて…、と分かっていたってワクワクするもの。
物語というのはそうしたものだし、ページをめくってゆきたくなる。
文字を追いながら、ぱらりとめくって旅をする。
本の中にだけ流れる時間を、本の中にだけ広がる世界を。
そうやって夢中で読んでいる内に、本の世界と一体になっていたのだけれど…。
「あっ…!」
何のはずみか、膝から滑り落ちた本。
たちまち世界は消えてしまって、床の上に本が落ちているだけ。
(落っことしちゃった…)
大失敗、と本を拾って、ページが折れたりしていないかを急いで確認。
幸い、本は落っこちただけで、何処も傷んでいなかった。
良かった、とホッと安心したけれど。
(…もうこんな時間…)
そろそろ寝なきゃ、と壁の時計に教えられた時間。
別世界の旅は此処でおしまい、続きは今度、思い付いた時に。
ページをめくればいつでも行けるし、物語だってすっかり覚えているんだから、と。
(夢の中で続き、見られるといいな…)
続きでなくても、本の中の世界に行けるといいな、とパラパラと繰ってみたページ。
魔法みたいに別世界に行ける、本に書かれた文字を読むこと。
こうやってページをめくるだけで…、と読まずに次々めくっていたら…。
(…ぼくの手だよね?)
これ、と気付いたページを繰る手。
本をオモチャにしているかのように、ページをめくり続ける手は。
見慣れた今の自分の手。
十四歳の子供に似合いの、大人のものとは違った手。
(…ぼくの手だけど…)
今のぼくの手、と見詰めてしまった小さな手。
素敵な世界へ旅をした自分、本の世界で過ごしたけれども、其処への旅は…。
(…この手がページをめくってくれて…)
中へどうぞ、と連れて行ってくれた本の中にある別世界。
文字を追いながら、無意識の内に指でめくっていたページ。
自分では何も考えなくても、少しも意識しなくても。
「めくってよ」と指に、手に、何も頼みはしなくても。
「早くめくって」と命じなくても、流れるように動いてくれた手。
本を落っことしてしまうまで。
膝の上から滑り落ちた本が、床の上で閉じてしまうまで。
(…ぼくは、なんにも考えてなくて…)
ハーレイのことを考え続けているよりは、と本の世界に飛び込んだけれど。
其処で楽しく過ごしたけれども、本の世界に入らせてくれて、其処にいさせてくれたのは…。
(ぼくの手だよね…?)
この手、と本を膝の上に置いて考える。
小さな右手と、左の手と。
ページをめくっていた手は右手で、左手はそのお手伝い。
右手がページをめくりやすいよう、横で助けてくれていた。
どちらの手にも、自分は指示などしていないのに。
「本を読ませて」とも、「ちゃんとページをめくってよ?」とも一度も言いはしないのに。
(勝手に動いて…)
ぼくを連れてってくれていたよ、と鮮やかに蘇る本の中の世界。
右手も左手も、チビの自分を別世界に飛ばせてくれたけれども…。
(…ぼくの手、とっくに…)
失くした筈、とキュッと握った右手。
前の自分が死んだ時には、その手が冷たく凍えたから。
最後まで持っていたいと願った、右手に残ったハーレイの温もり。
それを失くして右手は凍えて、前の自分は死んだのに…。
(…ぼくの手、小さくなっちゃったけど…)
ちゃんと今でもあるんだから、と瞬かせた瞳。
ハーレイに会えなくて寂しいから、と思ったら本の世界にも旅立てた。
その手を使って、今の今まで。…本を床へと落っことすまで。
(…またハーレイと繋がっちゃった…)
振り出しに戻っちゃったみたい、と思うけれども、零れた笑み。
今の自分は幸せだから。
本のページをパラパラめくって、別の世界にも旅してゆける。
ハーレイが来てくれなかった日は、寂しいからと。
そういう旅をさせてくれる手、この小さな手は「ぼくの手だよね?」と。
いつか大きくなった時には、きっとハーレイと繋げる手。
自分はちゃんと生きているから、本のページをめくれる手だってあるのだから…。
ぼくの手だよね・了
※ハーレイ先生が来てくれなかった日の夜、本の世界に逃げ込んだブルー君ですけれど。
本をめくる手は、前の自分が失くした筈の手。いつかハーレイと繋げる手を持っている幸せv