(おっと、そうだった…)
忘れない内に書いておかんと、とハーレイが手に取ったペン。
ブルーの家には寄れなかった日に、夜の書斎で。
コーヒー片手の寛ぎの時間、ふと思い出した今日の新聞。
(大したことじゃないんだが…)
いずれネタにも出来るだろう。
古典の授業をしている最中、生徒に聞かせてやる雑談。
集中力を取り戻させようと、色々なことを持ち出すのが常。
授業とはまるで関係なくても、古典と関係しなくても。
(ちょっとした授業のコツってヤツで…)
劇的に戻る、教室の生徒の集中力。
大笑いしたり、「本当ですか?」と驚いたりして、その後はきちんと前を向く。
居眠りしかけていた生徒だって、吹っ飛んでしまうのが眠気。
(あれをやるには…)
ネタも大切、とメモに書き付けた。
新聞にあったコラムの一部で、記事を切り抜くほどでもない。
元の情報、それを自分は知っているから。
ただ、実際に見て来た人の話ともなれば、切り口が違う。
(ネタにする時は、話の仕方も大切なんだ)
最初の一言、それだけで変わる教室の生徒の食い付き具合。
いつかこのネタを使う時には役に立つ、と書いたメモ。
こうして一度書いておいたら、忘れない。
メモが何処かへ行ってしまっても、頭の何処かに入るから。
ただ新聞を読むのと違って、「書く」という作業が挟まるから。
よし、と眺めたメモの文字。
ほんの一行、新聞の中身はその一行だけ。
元の文章と同じかどうかも怪しいけれども、自分が納得すればいい。
後は添え書き、「ネタに使える」と。
此処が肝だと思う部分に、丸印だってつけたりして。
(うん、これでいいな)
書いただけでも充分だけれど、日を置いてからまた見返したら、もう完全に自分のもの。
一度忘れて思い出したら、けして忘れはしないから。
そういう作業に似合いの場所が、引き出しの中。
何気なく開けてメモを見付けたら、「そうだったな」と眺めるもの。
「ネタに使えると思ったんだ」と、そのために書いておいたのだった、と。
だから引き出しに仕舞ったメモ。
日記を入れている場所とは違って、便箋などを収めた引き出し。
パタンと閉めて、またコーヒーに戻ったけれど。
愛用のマグカップを傾けたけれど、目に入ったのが机の羽根ペン。
白い羽根ペンは、誕生日にブルーがくれたもの。
(あいつの予算の分だけだがな…)
生まれ変わってまた巡り会えた、愛おしい人。
十四歳にしかならないブルーは、まだまだ子供で小遣いも少ないものだから…。
(…羽根ペンを買うには金が足りなくて…)
それでも誕生日に贈りたいから、と小さな頭を悩ませていた。
ブルーの気持ちは良く分かったし、「二人で買おう」と決めた羽根ペン。
大部分は大人の自分が支払い、ブルーは小遣いから出せる分だけ。
(小遣いの一ヶ月分だったっけな)
ブルーに「はい」と渡された封筒、一ヶ月分のお小遣い入り。
もちろん使ってはいない。
今も机の引き出しの奥に、大切に仕舞い込んである。
「ブルーに貰った羽根ペン代」と、封筒にきちんと書き添えて。
その羽根ペンにもすっかりと慣れて、日記を書くのに使うのだけど。
ペン先をインク壺に浸して、ゆっくりと文字を綴る時間が好きだけれども…。
(今は使わなかったっけな)
ただのメモだし、と改めて見詰めた羽根ペンと側のインク壺。
授業に使う雑談のネタを書くだけの作業、それに羽根ペンはもったいないぞ、と。
(しかしだな…)
そう思ったから、持ったわけではなかったペン。
ごくごく普通の何処にでもあるペン、机の上のペン立てからヒョイと手に取った。
メモも机の上にあるのを一枚破り取っただけ。
それに書き付けて引き出しへヒョイと、今日でなくてもよくやること。
「忘れない内に書かないと」と、「でないと忘れちまうしな?」と。
自然に動いた自分の手。
「メモに羽根ペンはもったいない」と思わなくても、勝手にペンを持っていた。
いつもそうしていることなのだし、特に変でもないけれど…。
(…そいつが俺の手なんだよな?)
考えなくても普通のペンを選ぶのが、と見詰めた右手。
羽根ペンの方にも慣れたけれども、あれは自分には「特別なペン」。
ブルーがプレゼントしてくれたペンで、日記を書くのに使うだけ。
(後は、大切な手紙くらいか…)
古くからの友人に手紙を書こう、と思った時には使ったりもする。
レトロな羽根ペンも気に入っているし、心がこもるように思うから。
(だが、それ以外で書くとなったら…)
今やったように、右手が自然と動き出す。
ペン立てから取り出す普通のペン。
わざわざインクに浸さなくても、スラスラと書ける便利なペン。
それにしよう、と選ぶのが右手、自分が命令しなくても。
「今日はこっちだ」と考えなくても、右手はペンを持っている。
羽根ペンとは違う、普通のペンを。
インク壺などは必要としない、とても便利で楽に書けるペンを。
慣れているから、当然のこと。
羽根ペンの方が後から来た上、恋人からの贈り物。
日記を書くのと、「これには是非」と思う時しか使わないペン。
手だって充分承知しているし、メモを書くのに持つのなら…。
(あっちのペンになるんだが…)
何も不思議はないのだけれども、ああいったペン。
インク壺さえ必要としない、羽根ペンではないペンを選ぶ手が…。
(俺の手なんだ…)
そうなるんだな、と右手を広げて、キュッと握って、また広げてみる。
何度かそれを繰り返しながら、思ったこと。
「俺の手だよな?」と。
羽根ペンは特別なペンだから、と普通のペンを選んだ手。
自分が指示を下さなくても、何も考えはしなくても。
(うーむ…)
前の俺だと、こうじゃなかった、と苦笑い。
遠く遥かな時の彼方で、キャプテン・ハーレイだった頃。
航宙日誌を綴った机の上には羽根ペン、今あるのと似た白いペン。
側にはインク壺もあったし、あの机で何か綴るなら…。
(まずは羽根ペン、そんな感じだ)
馴染み深かったペンは羽根ペン、書類にサインする時もそれ。
普通のペンもあったけれども、常に出してはいなかった。
前の自分の机の上には、無かったペン立て。羽根ペンを立てておくものしか。
(必要な時には、普通のペンをだ…)
引き出しから出していたのが前の自分。
羽根ペンよりはこっちだろう、と選んでいたのが普通のペン。
馴染んでいたのは、白い羽根ペンだったから。
たかがメモでも、羽根ペンを使って書いていた。
「これが好きだ」と、「手に馴染むから」と。
そうしていたのがキャプテン・ハーレイ、それも確かに自分だけれど。
羽根ペンは今も好きなのだけれど、メモを書くなら普通のペン。
考えなくても、手の方でそれを選ぶから。
「これでどうぞ」とペン立てから取って、サラサラと書いてくれるから。
見た目だけなら、その手は何処も変わらないのに。
前の自分が持っていた手と、まるで変わりはしないのに。
(俺の手には違いないんだが…)
ずいぶんと変わってしまったようだ、と驚かされる自分の手。
「俺の手だよな?」と、まじまじ眺めてしまうほど。
この手が勝手にペンを取ったぞ、と思わず観察してしまうほど。
前の自分が持っていた手なら、サッと羽根ペンを取っただろうに。
「忘れない内に書いておこう」と、羽根ペンの先をインク壺に浸していたろうに。
(…生まれ変わって別人だしなあ…)
記憶が戻るまでは違う人生を歩んでいたし、と右手に教えられた今。
小さなブルーと巡り会うまで、羽根ペンが欲しいと思ったことさえ無かった自分。
愛用のペンはあったのだけれど、そのペンの中にはナスカの星座があったけれども…。
(人生の違いが手に出るってか?)
握ってたものも違うんだしな、とシャングリラの舵輪を考えてみる。
あれを握って舵を取ったのが前の自分で、今の自分はせいぜい車のハンドルくらい。
仲間の命を預かる代わりに気ままにドライブ、そういう人生。
他の誰かを乗せて走っても、命懸けではなかった日々。
そういう暮らしをして来た手だから、同じ手でも色々違うのだろう、と。
(一事が万事で…)
どのペンを自然に選び出すかと同じ理屈で、他にもあるだろう違い。
直ぐには思い付かないけれども、全く別の人生だから。
(それでも俺の手だよな、これが)
今はこいつが似合いなわけで…、と零れる笑み。
平和な時代に生まれて来たから、今はこいつでいいらしい、と。
いつかブルーが前と同じに大きくなったら、デートの時には手を繋ぐしな、と…。
俺の手だよな・了
※メモを書く時は、羽根ペンではないハーレイ先生。便利なペンを勝手に選んでいる手。
キャプテン・ハーレイだった頃とは、まるで違っているのが今。平和な時代に似合いの手v