(おや…?)
はて、とハーレイが覚えた違和感。
ブルーの家には寄れなかった日、夕食の後で。
片付けを済ませて、お次はコーヒー。
いつもの夜の寛ぎの一杯、それを淹れようとしていた時に。
(…何か変だぞ?)
そう思ったから、見に出掛けた場所。
直ぐに気付いた違和感の理由、ある筈のものが無かった其処。
ガレージに停めた愛車の鍵。早い話が車のキー。
いつもは其処にあるというのに、キーが姿を消していた。
チョコマカと駆け回るペットだったら分かるけれども、相手は鍵。
自分で勝手に走って行きはしないのに。
いくら車のキーといえども、自力で動けるわけがないのに。
(…何処へ行ったんだ?)
俺は確かに此処にだな…、と睨み付けるキーが消えた場所。
今日は帰りが遅くなったし、ブルーの家には寄れずに帰って、車もそのままガレージへ。
玄関を開けて家に入ったら、鞄を置いたり、スーツを脱いだりするけれど…。
(まずは車のキーでだな…)
手に持ってるから此処なんだ、と眺める其処。
たまにテーブルに置いたりはしても、所定の場所に戻すのが常。
でないと、後で困るから。
「何処に置いた?」と探し回る話はたまに聞くから、そうなる前に予防するべき。
これは此処だ、と決めておいたら、もう絶対に忘れない。
急に飛び出す用事が出来ても、真っ直ぐに此処へ走って来れば…。
(キーを引っ掴んで出られるしな?)
だから此処だ、と思うのに。
もはや習慣、車を降りたら此処に来るよう、身体が動く筈なのに。
けれど、其処から消えたキー。
いつもと同じに家に入って、荷物を置いたら着替えて夕食。
(飯を作って、食ってだな…)
あれきり車じゃ出掛けてないぞ、と考えなくても分かること。
小さなブルーと出会う前なら、夕食の後で気ままにドライブ、そういう夜もあったけれども…。
(今じゃ、すっかり御無沙汰なんだし…)
飯をゆっくり食ってただけだ、と思い出してゆく自分の行動。
夕食の後は新聞を広げて、気になる記事をのんびりと。
それから片付け、皿も茶碗もきちんと拭いて食器棚へと。
「もう終わりだな?」と確認してから、取り掛かろうとしたのがコーヒー。
夜の習慣になった一杯、それを飲むのが好きだから。
愛用のマグカップにたっぷりと淹れて、書斎で、あるいはリビングなどで。
(…何処へも出掛けちゃいないぞ、俺は?)
車の出番は無かったんだ、とハッキリ言える。
乗らない車のキーなど使うわけがない。
持って何処にも出掛けはしないし、第一、自分は出掛けてはいない。
(いったい何処に置いたんだ?)
テーブルの上には無かったぞ、と直ぐに分かるのがダイニング。
食事を済ませて、さっきテーブルを拭いたから。
新聞も畳んでキッチリ揃えて、隅から隅まできちんと綺麗に。
あのテーブルの上にキーがあったら、もちろん此処へ持ってくる。
「ウッカリ置きっ放しにしちまってたな」と、「キーは此処だ」と。
決められた場所にあってこそだと、「でないと直ぐに使えないんだ」と。
(…しかしだな…)
現にこうして無いわけで…、と首を捻るしかないキーの逃亡。
ペットみたいに、走って逃げはしないのに。
車とセットになって初めて、キーは走ってゆけるのに。
なんとも謎だ、と逃げてしまったキーの行方を考える。
帰った後に行った場所は…、と順番に。
洗面所で手を洗ったりもしたし、リビングにだってもちろん入った。
そういう所に置き忘れただろうか、ヒョイと何処かに放り出したままで…?
(洗面所なあ…)
あそこかもな、という気もする。
今日は帰りに出掛けた買い出し、食料品の他にも色々。
ブルーの家には寄れなかった日の帰り道。そういう時にはピッタリだから。
あれこれ買い込んで家に戻ったら、最初に行くのが洗面所。
食料品を冷蔵庫などに仕舞う前には、手を洗わねば、と決めている。
(今日はドッサリ買ったから…)
食えないモンも、と思った所でハタと気付いた。
手を洗った後、冷蔵庫に入れた食材たち。冷蔵庫の他に、棚などにも。
(そいつを済ませて…)
他の買い物、そちらを片付けにかかっていたのが着替えてから。
「これはこっちだ」と運んだりして、それから夕食の支度にかかって…。
(途中で思い出したんだ…!)
荷物が一個、足りなかったこと。
よりにもよって、野菜を刻んでいた最中に。
食料品とは違ったけれども、後部座席に載せて帰った荷物。
多分、家まで走る途中に、シートの上から落ちてしまって…。
(気付かないままで、それっきり…)
車のドアをバタンと閉めた。「これで全部だ」と満足して。
だから家には無い荷物。
車の中に落っこちたままで、忘れ去られて今もガレージ。
(あれで慌てて…)
野菜を刻み終えた所で、キーを掴んで走って行った。
「忘れない内に取って来ないと」と、「でないと明日の朝になるぞ」と。
あまり学校には載せて行きたくない荷物。
生活感が漂う荷物は、家で降ろしてしまいたい。
それで急いで出掛けたガレージ、荷物はきちんと持って戻って来たけれど…。
(持ってたか、キー…?)
持って入った荷物を仕舞って、「よし」と始めた料理の続き。
キーを所定の場所に戻すという行動は…。
(やってないんだ…!)
あそこだ、と分かったキーがある場所。
後部座席のドアは閉めたけれども、車の中に置きっ放しになったキー。
(ドアにそのまま挿してれば…)
忘れずに持って帰っただろうに、ご丁寧に抜いていたらしい。
そして荷物と入れ替えるように、キーは今でも後部座席の辺りの何処か。
(やっちまった…!)
あのままロックされちまってるぞ、と分かるから掴んだ予備のキー。
鍵がかかった車の中から、キーを出さねばならないから。
うっかり忘れて閉じ込めた鍵を、自分が置いて来たキーを。
(なんてこった…!)
俺としたことが、と走ったガレージ、後部座席のドアを開けたら…。
やっぱりな、と零れた溜息。
本当に鍵があったから。
「ずいぶん長く待ちましたよ」というような顔で、ちゃんと車に乗っていたキー。
後部座席の上にチョコンと、偉そうに。
「私がいないと、車は動かないんですが」と、「私を忘れて閉めましたね?」と。
(…申し訳ない…!)
俺のミスだ、と座席から拾い上げたキー。
「忘れてすまん」と、「来るのが遅くなっちまった」と。
なにしろ愛車のキーなのだから、本当に申し訳ない気持ち。
放り出したまま、ドアを閉めるだなんて。
今まで忘れて、まるで気付きもしなかったなんて。
とんでもない失敗をしたもんだ、と家に入って、大切なキーを戻してやった。
いつもの場所へと、「これでいいな?」と。
それから淹れた憩いのコーヒー、やっと書斎へ行けたけれども。
(…まったく、とんだ失敗だった…)
他のヤツらを笑えないな、と思う同僚や友達、彼らから聞いた失敗談。
家ならともかく、出掛けた先で閉じ込めるらしい車のキー。
予備のキーなど持っていないし、素人だったらサイオンで開けることも出来ないから…。
(プロのお世話になるってな)
そういうサービスをしている所へ連絡して。
「開けて下さい」と助けを頼んで、後はぼんやり待っているだけ。
開けてくれるプロがやって来るまで、何も出来ずに、車の側で。
(…そういうコースは御免蒙りたいんだが…)
特にブルーと一緒の時は、と思い浮かべた恋人の顔。
いつかブルーが大きくなったら、ドライブに行こうと決めているから。
其処でキーなど閉じ込めたならば、大失敗で…。
(…あいつ、膨れっ面になるのか、それとも笑われちまうのか…)
どっちだろうな、と考えていたら、掠めた思い。
「今だから許される失敗だぞ?」と。
失敗したって、今日のようにキーを取りに走るとか、プロに出動を頼むとか。
取り返しはつくし、なんとか出来る。キーの閉じ込めくらいなら。
たとえブルーに笑われようとも、膨れっ面をされようとも。
けれども、前のブルーと過ごした白い船では…。
(…失敗したら、それで終わりで…)
小さなミスでも、やり直しなどは出来なかった船。
どんな時でも、どんな場面でも、真剣勝負だった日々。
ほんの小さなミスが切っ掛け、起こりかねない重大な事故。
そうならないよう、常に気を張り詰めていた場所がブリッジ。
キャプテンの任務はそういうものだし、失敗は出来なかったのだ、と。
(…そうか、今だから出来るのか…)
こういうミスも、と少し嬉しい気分。
キーを閉じ込めても、予備のキーを持って行けばいい。
出先で予備のキーが無いなら、プロに頼めば助けて貰える。
(ブルーの前だと、かなり格好悪いんだが…)
それに笑われるか、膨れっ面をされるのか。
「なんで閉じ込めちゃったわけ?」と。
とはいえ、たったそれだけのこと。
恋人に散々笑われるだとか、膨れっ面をされるだけで済む。
愛車はブルーと二人きりで乗ってゆくシャングリラだけれど、失敗しても要らない心配。
今は失敗してもいいんだと、失敗したって笑い話で済むんだからな、と…。
失敗しても・了
※ハーレイ先生が閉じ込めてしまった車のキー。大失敗といった所ですけれど…。
今だから出来る、そういう失敗。原因になった生活感が漂う荷物って、何なのでしょうね?