(この一杯が至福のひと時ってな)
あいつと過ごせなかった日には、とハーレイが唇に浮かべた笑み。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で。
愛用のマグカップに淹れたコーヒー、口に含めばほどける心。
今日も一日無事に済んだと、いい日だったと。
学校での仕事は順調だったし、柔道部の指導の方も上々。
ただし小さな欠点が一つ、今日という日には。
いい日だったと思うけれども、ほんのちょっぴり足りない幸せ。
それを補うには夜の一杯、酒ではなくてコーヒーがいい。
前の生からコーヒー党だし、幸せを補うのに似合いの飲み物。
足りない幸せ、それはブルーに会い損なったことだから。
小さなブルーの家に寄れずに、自分の家へと帰ってしまったことだから。
学校では顔を見掛けたけれども、それはあくまで教え子のブルー。
家に出掛けてゆかない限りは、恋人の方のブルーには…。
(…会えないんだよな…)
残念ながら、と心で想う愛おしい人。
前の生から愛したブルーは、今は小さな子供だから。
教師と教え子、そんな二人として出会ったから。
恋人同士で会いたかったら、ブルーの家で。
それが二人の決まり事。
もっとも其処で会えたとしたって、キスも出来ないのだけれど。
まだ幼さの残るブルーに、唇へのキスは贈れない。
それでも二人で話は出来るし、ブルーを抱き締めることだって。
「俺のブルーだ」と、両腕でギュッと。
もう離さないと、ずっと一緒だと想いをこめて。
(そうは言っても、離れるんだがな?)
こんな具合に、と見回す書斎。
二人一緒に暮らせないから、こうして離れているんだが、と。
ブルーと暮らせる日がやって来るのは、まだ何年か先のこと。
十八歳までは出来ない結婚、十四歳にしかならないブルー。
その差が埋まってくれる時まで、離れて暮らすしかない二人。
いくら絆が深くても。
前の生からの恋人同士で、遠く遥かな時の彼方で共に生きていた二人でも。
(…だから、あいつに会えない日だって…)
あるってわけだ、と傾けるコーヒー。
いつもの一杯、夜に寛ぐには似合いの一杯。
酒でなくても、好きだから。
淹れる準備をしている時から、心がほぐれてゆくのだから。
今日はどの豆にしようかと。
美味しいコーヒーを飲みたかったら、手抜きしないのが大切なコツ。
香り高くて美味しいコーヒー、それをイメージしながら淹れる。
早く飲みたいと焦らないで。
「もうちょっと待て」と、「此処が肝心だ」と逸る心に言い聞かせて。
そうやって淹れた熱いコーヒー、幸せな時間が満ちてゆく。
今日も一日いい日だったと、ゆったりと思い返しながら。
小さなブルーに会えた日だったら、その幸せを思い起こして。
二人で話したことのあれこれ、時によっては、前の生での出来事なども。
(でもって、会い損なった時には…)
こいつが埋めてくれるんだよな、と口に含んだコーヒーの苦み。
好きな飲み物は心が和むし、幸せな時を過ごせるもの。
少しばかり欠けてしまった幸せ、それをまあるく戻してくれる。
「今日も一日、終わっただろ?」と。
明日は今日よりいい日になるさと、「そうだろう?」と。
もっと幸せな日がやって来ると、こうしてコーヒーを飲めるんだから、と。
まるで余裕が無かったのなら、コーヒーなど淹れていないから。
インスタントでもう充分だと、適当に飲んで終わりだから。
(うん、充分に幸せだってな)
今日もいつもの一杯なんだ、と傾けるカップ。
小さなブルーに会い損なっても、幸せな一日だったと思う。
数えてみたなら、幸せが幾つも鏤められていた時間。
授業の時にも、柔道部でも。
学校以外の時間の中にも、幸せと言えるものが山ほど。
朝のトーストの焼け具合から始まって。
(上手い具合に焼けたんだ、これが)
ウッカリと目を離していたから、焦げてしまったと思ったトースト。
新聞に夢中になってしまって、ハッと気付けば過ぎていた時間。
こりゃ黒焦げになっちまったぞ、と自分のミスを呪ったけれど。
駄目になったと思ったけれども、いい具合に焼けたキツネ色。
それほど経ってはいなかった時間、「しまった」と慌てふためくほどには。
思ったよりもずっと短い時間が過ぎていただけ。
(…あれが黒焦げになってたら…)
今日の始まりは失敗から。
「やっちまった」と、「こりゃ食えないぞ?」と。
もっとも、焦げたトーストだって、食べるのが自分なのだけど。
焦げたトーストに罪は無いから、ポイと捨てたりは絶対にしない。
(…すっかり炭になっちまってたら、もう食えないが…)
そうでなければ、焦げた部分を取り除くだけ。
真っ黒な部分をこそげ落として、食べられる部分はきちんと食べる。
いつものようにマーマレードを塗って。
バターなんかも添えたりして。
(そいつをしないで済んだってのが…)
今日の最初の幸せなんだ、と指を折る。
他にも幸せは山ほどあるぞと、いったい幾つあるのやら、と。
ブルーの家には寄れなかったけれど、幸せの仕上げはこのコーヒーだ、と。
黒焦げにならなかったトースト、それで始まった今日の幸せ。
締め括りには熱いコーヒー、いつもの一杯。
幸せも沢山あった日だよな、と考えていて、ふと気付いたこと。
こうして幸せを数えられること、それはどれほど幸せなのか、と。
当たり前のように数えた幸せ、それを自分は昔から持っていたのかと。
(…今の俺なら、当たり前のことで…)
トーストが焦げなかったらラッキー、他の幾つもの幸せだって。
夜には淹れる熱いコーヒー、それも習慣なのだけれども。
(前の俺だと、コーヒー自体が代用品で…)
本物のコーヒーじゃなかったんだ、と眺めてしまったカップの中身。
前の自分が飲んでいたのは、キャロブで出来た代用品。
それでも充分に幸せだったし、あれが気に入りの飲み物だった。
前のブルーは、今と同じに「苦い」と嫌っていたけれど。
(…トーストにしても、焦げちまったら…)
大慌てだった前の生。
自分で焼いていた頃は。
厨房の係に「頼む」と注文するようになった時代よりも、前の船では。
黒焦げにでもなろうものなら、どれほど慌てたことだろう。
貴重な食料が駄目になったと、なんと迂闊なことをしたかと。
(あの頃を思うと、今の俺はだ…)
今朝のトーストと夜のコーヒー、もうそれだけで幸せ者。
トーストは焦がさなくて済んだし、今はカップに本物のコーヒー。
前の自分の声が聞こえる、「幸せ者め」と。
他にも幸せは山ほどだろうと、俺だとそうはいかなかったぞ、と。
(…前の俺にも、幸せはあった筈なんだがなあ…)
それでも今には敵わないな、と数えなくても分かること。
いくらブルーと恋人同士で、夜も一緒に過ごしていたって、船の中だけが世界の全て。
船の外には無かった幸せ、どう頑張って数えてみても。
前の自分の生を思えば、今はどれほど幸せなのか。
小さなブルーに会い損なっても、熱いコーヒーで締め括れる日。
「今日も一日、いい日だった」と。
ほんのちょっぴり欠けた部分は、このコーヒーで埋めようと。
愛おしい人と二人で過ごし損ねた時間は、熱いコーヒーが満たしてくれる。
心がふわりとほどけるから。
一日のことを思い返せば、幸せが幾つもあるのだから。
(いったい、幾つあったんだか…)
前の俺なら羨ましいと思う幸せが、と数え始めたらキリが無い。
焦げないで済んだトーストよりも前に、目覚めた時から始まるから。
前の自分とブルーが夢見た、青い地球の上で目覚める朝。
其処から始まる幸せな一日、本物の地球の太陽の光。
おまけに自分の家に住んでいて、目覚めた場所は自分のベッド。
(…おいおいおい…)
これじゃとっても数え切れんぞ、と零れた笑み。
指を追っても足りやしないと、いったい幾つあるんだか、と。
学校に出掛けてゆく前の時間だけを追っても、前の自分の一日分を越えそうな数。
きっとそうだと、そうに違いないと分かるから…。
(…もう最高の幸せ者だな、俺ってヤツは)
これでブルーと会えていたなら、幸せの数はもっと増える筈。
前の自分が失くしてしまった人だから。
今は子供の姿だけれども、ブルーは帰って来たのだから。
数え切れない自分の幸せ、それを思うともう幸せでたまらない。
幸せの数は、今では数え切れないから。
小さなブルーに会い損なっても、数え切れないほどあるのだから…。
幸せの数は・了
※ハーレイ先生の幸せの数。今日は足りない、と思った時でも実は山ほどあるのです。
数え切れないほどにあるというのが幸せでですよね、ブルー君に会い損なった日だってv