(…すっかり遅くなっちまったな)
ブルーの家に寄るどころか、とハーレイが漏らした苦笑い。
夜の書斎で、コーヒー片手に。
普段より、ずっと遅めの時間に。
それでも熱いコーヒーを一杯、これが寛ぎのひと時だから。
コーヒーで眠れなくなるタイプではないから、いつも通りに。
(美味いんだ、これが…)
今日は特にな、と傾ける愛用のマグカップ。
ようやく家に帰って来たぞ、とホッとする気持ちになる時間。
本当の所は、ついさっきまで…。
(…楽しくやっていたんだがな?)
ブルーには、とても言えないが…、と竦めた肩。
小さなブルーは、待ちぼうけを食らったのだから。
今日は恋人が寄ってくれるかと、何度も窓から外を覗いていただろうから。
(俺だって、今日はそのつもりでだな…)
会議の予定も入っていないし、帰りは寄ろうと思っていた。
ブルーと二人でお茶を飲んだ後は、両親も一緒の夕食の席、と。
けれど、狂ってしまった予定。
同僚たちに誘われた食事。
(そっちはそっちで、楽しいもんだし…)
ブルーとは何度も会っているしな、と同僚たちとの時間を選んだ。
車で通勤しているのだから、一緒に酒は飲めないけれど。
バスなどで学校に来ている仲間を、家まで送る役目にもなってしまうのだけれど。
だから料理は楽しめたものの、足りていない喉を潤す一杯。
酒の代わりのジュースなどでは、とても足りない。
帰るなり淹れた熱いコーヒー、これが一番。
「ようやっと俺の時間だ」と。
時計が指す時間は、本当に夜更け。
ブルーは、とうに眠ってしまったことだろう。
「ハーレイ、来てくれなかったよ…」と愚痴でも零しながら。
あるいは膨れたりもして。
(しかし、仕事が忙しいこともあるからな?)
多分、そちらだと思ったろうブルー。
「忙しいんだから、仕方がないよ」と。
それでも膨れただろうけど。
「今日は会えなかった」と、不満たらたらなのだろうけれど。
学校で顔を合わせただけでは、「会った」ことにはならないから。
教師と教え子、そんな会話しか交わせないから。
(すまん…)
俺だけ食事に行っちまって、と心で詫びた小さな恋人。
前の生から愛したブルー。
(とはいえ、仕事もして来たんだぞ?)
四人も家まで送ったしな、と自分に言い訳。
車で出掛けて行った以上は、それがお役目。
自分の家とは、まるで反対の方へ向かって走ってゆく羽目になろうとも。
送ってゆく先が四つもあるから、かなりの距離を走ろうとも。
(でもって、最後のヤツを降ろしたら…)
後は会話も消えてしまって、一人きりでの帰り道。
もう遅いから、通行量も減っている道を。
車から見える家の灯りも、ずっと少なくなっている道を。
何処の家でも、とうに過ぎている夕食時。
寝静まっている家だって。
そういう道を一人で走って、やっと帰って来た我が家。
着替えを済ませて淹れたコーヒー、いつもの一杯。
これが美味いと、やっと我が家だ、と。
体力自慢ではあるのだけれども、遅くまで家に帰れなかった日。
送り届けた四人の同僚、彼らは自分よりも先に我が家に着いたのに。
今頃は早くもベッドの中とか、ゆっくりと風呂に浸かっているか。
そんな所だ、と思うと少し感じる疲れ。
「俺だけが遅くなっちまったぞ」と。
もっと前から誘ってくれれば、車で出勤しなかったろうに。
皆と一緒に愉快に飲もうと、路線バスか歩きで出勤したのに。
(…それでも、俺が自分で行こうと決めたんだしな?)
自業自得というヤツなんだ、とコーヒーを飲んでいたのだけれど。
不意に大きな欠伸が一つ。
やはり多少は疲れたのか、と思った途端に、もう一つ。
今度は欠伸が出たのと一緒に、涙まで。
(うーむ…)
俺はそんなに眠いんだろうか、と拭った涙。
なんの気なしに。
無造作に指で拭ったけれども、それが記憶を連れて来た。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分がやっていたこと。
こうして涙を拭った、と。
今と同じに夜が更けた部屋で、一人きりで、と。
(……そうだっけな……)
何度もあった、と胸に蘇る深い悲しみ。
前のブルーを喪った後に、一人きりで拭っていた涙。
キャプテンの部屋で、同じように机に向かっていて。
一日の出来事を思い返しながら、航宙日誌を綴っていて。
(SD何年、何月何日、と…)
その日の日付けを書き入れることから始まる時間。
淡々と書いてゆくのだけれども、何かのはずみに思い出すこと。
「ブルーがいない」と。
もういないのだと、宇宙の何処を探したって、と。
航宙日誌は、ブルーにも読ませはしなかった。
だから余計に興味を示して、読もうとしていたのがブルー。
「いったい何を書いてるんだい?」と、後ろから覗き込もうとしたり。
ブルーほどの力を持っていたなら、盗み見ることは可能だろうに。
ブリッジに出掛けて留守の間に、入り込んで読むことも出来るだろうに。
(…あいつは、それをしなかったんだ…)
けしてコッソリ読もうとしないで、いつも、いつだって正攻法。
「中身がとても気になるけどね?」と、正面突破を目指したブルー。
机の横から忍び寄ったり、ヒョイと肩越しに不意打ちしたり。
そして自分は身体で隠した。
「俺の日記だ」と、その時だけは昔に戻った言葉遣いで。
一度も言いはしなかった。「私の日記ですから」とは。
ブルーが覗こうと試みる度に、何度言ったか分からない言葉。
「俺の日記だ」と、ブルーの企みを打ち砕くために。
そうして何度も退け続けた、航宙日誌を読もうとした人。
最初の間は仲のいい友達、いつの頃からか、恋人になった。
それでも日誌は読ませないままで、前のブルーは…。
(……逝っちまった……)
シャングリラを守って、たった一人で。
誰も側にはいなかった場所で、暗い宇宙で、メギドを沈めて。
ブルーを失くしたその瞬間から、前の自分の魂は死んでいたけれど。
抜け殻のようになってしまったけれども、それでも行かねばならない地球。
ブルーに頼まれたことだから。
「ジョミーを支えてやってくれ」と、ブルーは頼んで行ったのだから。
なんとしてでも、青い地球まで。
シャングリラを其処まで運ばなければ、と綴り続けた航宙日誌。
仕事を終えて部屋に戻ったら、取り出して。
「SD何年、何月何日」と日付を記して、その日の出来事を順に数えて。
羽根ペンで日誌を綴る間に、気付かされてしまうブルーの不在。
「もういないのだ」と、「何処にもいない」と。
そう思ったら、滲んでしまった自分の視界。
涙がじわりと溢れ出すから。
胸の奥から湧き上がる悲しみ、それが心を覆うから。
(…涙が日誌に落ちちまったら…)
きっと滲むだろうインク。
ぽたりと落ちた涙の形に、駄目になるだろう綴った文字。
後進のためにと書いているのに、私的な日記とは違うのに。
ブルーにさえ一度も見せなかったけれど、いずれ公文書になるのだろうに。
自分の命が尽きた後には、船の仲間たちが広げて読んで。
「こういう時には…」と、参考にしたりするために。
だから涙は零せない。
航宙日誌に涙の跡など残せないから、指先でグイと拭った涙。
時によっては、拳でも。
頬を伝おうとしている涙を、「消えてしまえ」と。
今は泣いてはいられないから、そんな時ではないのだから。
キャプテンの仕事を続けなければ、一日の出来事を綴っておかねばならないから。
(…何回も、いや、何百回も…)
前の自分が拭った涙。
今と同じに机に向かって、同じ仕草で。
「泣くな」と、「今は泣いては駄目だ」と。
ブルーのことを想って泣くなら、今日の仕事が済んでから。
航宙日誌を綴ってからだと、それからブルーを想おうと。
逝ってしまった愛おしい人を、二度と戻らない恋人を。
(…前の俺は、何度も泣いていたんだ…)
正確に言えば泣けなかったな、と思い出す時の彼方でのこと。
溢れた涙を指で、拳で、拭っては書いた航宙日誌。
あの時の俺と全く同じ仕草だった、と目許にやった手。
「こうだったな」と、「さっき、こうやった」と。
けれど、同じに溢れた涙は…。
(…ただの欠伸で…)
それと一緒に零れただけで、悲しみの記憶も蘇っただけ。
全てはとうに過ぎ去ったことで、失くしてしまった愛おしい人は…。
(今頃は、ベッドで眠ってるってな)
ブルーは戻って来てくれたのだし、今日は会い損なっただけ。
同じ涙でも、今じゃ欠伸だ、と綻んだ顔。
涙もすっかり変わっちまったと、今は欠伸で出て来た涙を拭うんだな、と…。
欠伸をしたら・了
※欠伸をしたら、出て来た涙。なんの気なしに拭ったハーレイ先生ですけれど。
時の彼方で同じように涙を拭った思い出。悲しみの涙はもう無くなって、今では欠伸v