(えーっと…?)
風だよね、とブルーが眺めた窓の方。
ハーレイが寄ってはくれなかった日の夜、自分の部屋で。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドにチョコンと腰を下ろして。
もうパジャマだから、窓のカーテンは閉めてあるけれど。
窓も閉めてあって、風は入って来ないけれども、カーテンも動かないけれど。
吹いてゆく風の音が聞こえた、暗い外から。
庭園灯だけが灯る庭から、木々の梢を鳴らす音が。
枝や葉の間を抜けてゆく風、それが奏でてゆく音色。
(音楽みたい…?)
木々を使って風が演奏する音楽。
気まぐれに吹いて、即興で。
見えない指で弦を弾いて、軽やかに、時には激しく鳴り響くほどに。
(冬になったら、笛みたいな音もするもんね?)
ゴオッと風が抜けてゆく時、口笛のように鳴ったりもする。
木枯らしの季節によく聞くだろうか、風たちが鳴らす笛の音は。
まるで本当に音楽のよう。
さやさやと優しく葉をそよがせたり、梢を揺すってみたりして。
奏でる響きは風の気分で、吹いてゆく場所によっても変わる。
木々があるなら、楽器は木たち。
海辺だったら、波を奏でもするのだろうか。
凪いでいる日は、柔らかな音で。
嵐の時には、砕け散る波に岩を噛ませて。
(どんな風に風が吹いたって…)
風の音楽が聞こえるよね、と思ったけれど。
何処に吹いても、風は音楽を奏でるものだと考えたけれど。
(…風…?)
前の自分はどうだったろうか、風の音楽を聞いただろうか。
気まぐれな演奏家が奏でる曲を。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が生きた船。
ミュウの箱舟、白い鯨だったシャングリラ。
船の外では風が吹いても、雲海の中を強い気流が吹き抜けていても…。
(…風なんか…)
吹かなかったのだった、シャングリラでは。
正確に言えば、船でも風は吹いたのだけれど。
ブリッジが見える広い公園や、居住区に鏤められた公園。
そういう所に立っていたなら、心地良い風が吹いていったもの。
頬に優しく触れる春風も、ひんやりとした冬の季節の風も。
けれども、其処に吹いていたのは人工の風。
船の中で作り出されていた四季、それに合わせて吹いていた風。
(いつだって、丁度いい風で…)
今の季節ならこうだ、という風。
春の風なら、そよ風で、ふわりと撫でてゆく風。
秋も同じで柔らかな風。
夏や冬でも、強い風が吹きはしなかった。
木々の葉たちが千切れそうな風や、土埃を舞い上げそうな風。
そんな風など吹きはしないし、風が奏でていた音楽は…。
(…いつも、おんなじ…)
同じように吹いてゆくのだから。
音の響きが変わるとしたなら、風向きが調整された時。
今度はこちら、と向きを変えたら、それが当たる場所が変わるから。
それに木々たちの葉でも変わっただろう。
青々と茂る青葉の頃なら、重なる葉陰を抜けてゆく風。
葉が落ちる冬の季節だったら、風が鳴らすのは枝になるから。
(…たったそれだけ…)
人工の風が奏でる音楽、限られていたその種類。
気まぐれに即興で奏でようにも、本物の風ではなかったから。
風が吹く場所も人工の場所で、自然の中ではなかったから。
無かったのだ、と気付いた音楽。
あったけれども、即興ではなかった白いシャングリラの風の演奏。
こういう風が吹いた時には、こうだと決まっていた音たち。
人工的に作り出す風が奏でるから、条件が合えば同じ音。
昨日と今日とはまるで同じ音、時には全く同じ時間に同じ音さえしただろう。
自然の中の風と違って、気まぐれに吹きはしないから。
船の季節や時間に合わせて、何もかも調整されていたから。
(…今の風とは全然違って…)
本物でさえもなかったけれども、船の仲間たちには、あの風が全て。
いつも同じに木々を鳴らしても、葉ずれの音が変わらなくても。
船の外には出てゆけないから、本物の風には出会えない。
風たちが気まぐれに奏でる音楽、それを聴きには出てゆけない。
ミュウの居場所は船の中だけ、シャングリラが全てだったから。
白い箱舟が世界の全てで、外に出たなら死が待つだけ。
踏みしめる地面を持たないミュウには、聴ける筈もない風の音楽。
船を離れずに聴くとしたなら…。
(…雲海の中の、凄い風だけ…)
轟々と耳に叩き付ける風、気を抜けば身体ごと飛ばされそうな。
しっかりと足場を確保しなければ、きっと飛ばされてしまうだろう風。
音楽ではなくて、ただ恐ろしいだけの音。
それがシャングリラの周りに吹いていた風で、ミュウが触れられた自然の風。
選ばれて地上に降りる者たちは別だったけれど。
ミュウの子供の救出のために船を出たなら、本物の風にも出会えたけれど。
(でも、楽しんでる余裕は無いよね?)
風の音楽に聴き惚れていたら、危うくなるかもしれない命。
常に感覚を研ぎ澄ませていること、それが地上に降りた時の鉄則。
前の自分のような強いサイオン、身を守る力を持たないなら。
いざという時に逃げられないなら、油断すれば死んでしまうのだから。
(…前のぼくしか、聴いていないの…?)
風が吹いても、それが奏でる音楽は。
本物の自然の中に吹く風、気まぐれな演奏家の曲は。
アルテメシアに平然と降りていられた者は、前の自分しかいなかった。
それに自分も、風の音楽を聴いていたかと問われると…。
(…音楽だよね、って思ったことは…)
きっと一度も無いのだろう。
それを素敵だと思っていたなら、船でも提案しただろうから。
人工の風には違いなくても、もっと強弱をつけようと。
プログラムだって変えてみようと、ランダムに吹くのがいいのだと。
くるくると気まぐれに向きを変える風、時には突風があってもいい、と。
(そんなこと、誰も思わなくって…)
ただ快適にと、皆が考えていたシャングリラの風。
公園に吹く風は心地良いもの、季節が分かればそれで充分。
風の音楽がいつも同じでも、即興の曲が聴けなくても。
(今なら、いくらでも聴けるのに…)
さっき耳にした風の音だって、今、聞こえて来た音とは違う。
庭の木たちは変わらないのに、楽器は同じ筈なのに。
演奏家の気分で、サッと変わった奏で方。
同じ弦でも、こう弾こうと。
今度はこの指を使ってみようと、弾く力も変えてみようと。
(…シャングリラの仲間は、みんな知らなくて…)
前の自分も気付きもしなくて、風の音楽は公園を彩りはしなかった。
いつも同じに快適な風で、気分を変えない演奏家。
自然の世界の風とは違っていたものだから。
風は息吹きを持っていなくて、機械が作り出していたから。
本物の風なら、大気の中から自然に生まれて来るものなのに。
風といえども一つの命で、星という命の呼吸に合わせて吹いていたのに。
誰も聴いてはいなかったのだ、と気付いた音楽。
自然の風が奏でる音色。
船の外には出られないから、ミュウは外では生きられないから。
けれど、ナスカはどうだっただろう?
前の自分は降りずに終わってしまったけれども、赤いナスカはどうだったろう?
(…雨上がりの風…)
それだと言われた、前の自分が纏った香り。
香水はつけていなかったけれど、何かの匂いをさせた覚えも無いのだけれど。
(でも、ハーレイが言ってたから…)
多分そうだと、雨上がりの風の匂いだろうと。
ナキネズミがそう言っていたのだと、雨上がりの風の匂いの筈だと。
(ブルーは風の匂いがしたね、って…)
前の自分がいなくなった後、ハーレイに語ったナキネズミ。
ジョミーと一緒にいたレイン。
前の自分は、その名前さえも知らずに死んでしまったけれど。
ナスカの風さえ、一度も感じていないのだけれど…。
(…雨上がりの風が吹いていたなら…)
きっと風には強弱があって、風向きだって変わっただろう。
機械が調節するのではなくて、赤いナスカの呼吸に合わせて。
風は気ままに吹き抜けていって、あちこちに触れていったのだろう。
高く聳える木々はなくても、赤い大地に根付いた草を揺らして。
皆が入植していた辺りの、赤い土埃を舞い上げたりして。
(…風の音楽、聞こえたよね…?)
耳を澄ませていたなら、きっと。
「風が吹いてる」と聴き入ったならば、赤いナスカが奏でる曲が。
ナスカの風が気まぐれに吹いて、強く、弱くかき鳴らす弦たちの音が。
地球のそれには敵わなくても。
アルテメシアの風の音楽、それにさえ負けてしまっていても。
(…きっと聞こえたよ、風の音楽…)
前の自分は聴き損ねたけれど、赤いナスカの風たちの曲が。
赤いナスカは砕けてしまって、風が吹いても、二度と聞こえないその音色。
時の彼方に消えた音楽、赤いナスカが歌った曲。
(…ハーレイに訊いてみようかな…?)
どんな曲だったの、とナスカで聞こえていただろう曲を。
「つまらんぞ?」と答えが返りそうだけれど。
「あそこには何も無かったからな」と、「なにしろ木だって無かったんだ」と。
そのハーレイとまた巡り会えて、今は青い地球が奏でる風の曲を聴ける。
風が吹いても、船の外には出られなかった時代は終わったから。
二人で青い地球に来たから、地球の息吹きが奏でる曲を聴けるのだから…。
風が吹いても・了
※音楽みたい、とブルー君が考えた風。けれど、シャングリラには無かった音楽。
赤いナスカなら聴けそうですけど、眠っていては聴けませんよね。今は地球のが聞こえますv