(おっ…?)
風か、とハーレイが眺めた窓の方。
ブルーの家には寄れなかった日、夕食の後のダイニングで。
淹れたばかりの熱いコーヒー、愛用のマグカップを傾けながら。
窓の向こうは暗いけれども、風が出て来たのは分かる。
庭園灯だけが灯る庭の木々、その葉の間を抜けてゆくから。
枝を揺らしてもゆくものだから。
(…雨は降らない筈だがな?)
新聞の予報を確かめてみれば、明日も晴れ。
ならば天気が変わるわけではないのだろう。
前線の通過や、いきなりに起こる気圧の変化。
そういった時の風とは違って、ただ吹き抜けてゆくだけの風。
気まぐれに吹いて、木々を鳴らして。
葉やら梢を揺すっていって。
(ふうむ…)
風なあ、と思い浮かべた恋人の顔。
十四歳にしかならない、小さなブルー。
前の生から愛し続けて、また巡り会えた愛おしい人。
その人のことを遠い昔に、風にたとえた者がいた。
「ブルーは風の匂いがしたね」と。
そう語ったのは、人ではなかったけれど。
人類でもミュウでも、人間でもない、青い毛皮のナキネズミ。
ジョミーのペットで友達だった、レインと呼ばれたナキネズミだった。
(…風の匂いか…)
前の自分は、素直にそれを受け入れた。
「ブルーらしい」と思ったから。
聞かされた時には、もういなかったソルジャー・ブルー。
かの人は風のようだった、と。
本当に風のようだったブルー。
シャングリラの中に本物の風は無かったけれども、それでも風。
白いシャングリラを常に取り巻き、守り続けたブルーの思念。
(…いつも、あいつの思念があって…)
それに守られていたシャングリラ。
物理的に、という意味ではなく、いつでも「其処に在った」もの。
前のブルーが張り巡らせていた思念の糸。
(力は少しも要らないんだよ、って笑ってたっけな…)
一度張ったら、維持する力は微々たるものだと。
呼吸するのと全く同じに、ブルーにはかからない負担。
けれど、それさえ張っておいたら、万一の時に役立つと聞いた。
不測の事態が起こった時には、連絡が来る前に把握できると。
それが何かは掴めなくても、「何か起こった」と心の準備が出来るのだと。
(…実際、役に立ったんだ…)
あの糸は、と苦々しく思い出したこと。
赤いナスカで捕虜にしていたキース・アニアン。
彼が脱出しようとした時、思念の糸はブルーを起こした。
十五年もの長い眠りに就いていたのに、満足に動けもしないのに。
「船が大変だ」と、ブルーに教えた思念の糸。
だからブルーは眠りから覚めた、糸はそのために在ったから。
ブルーが眠りに就いた後にも、同じに張られたままだったから。
(…あれさえ無けりゃあ…)
きっとブルーは、目覚めないままでいたのだろう。
カリナが起こしたサイオン・バースト、それがシャングリラを揺るがせていても。
逃れようと船内を走るキースが、何人もの仲間を傷つけていても。
前のブルーが暮らした青の間、其処は静かな場所だったから。
どんな騒ぎが起こっていたって、伝わる場所ではなかったから。
白いシャングリラを統べるソルジャー、失うことは出来ない長。
ブルーに万一のことがあったら、いなくなるミュウを導く者。
皆が大切に思ったソルジャー、それゆえにブルーが深い眠りに就いた後にも…。
(…みんな、あいつに頼ってたんだ…)
心の何処かで、眠り続けるソルジャー・ブルーに。
後継者のソルジャー・シンがいたって、誰もが求めたソルジャー・ブルー。
眠り続けるだけの人でも。
微かな声さえ聞こえなくても、前のブルーは「常にいた」から。
白いシャングリラが出来た時から、船に張られた思念の糸。
その糸は、消えはしなかったから。
誰もがブルーを感じられたし、「いるのだ」と思っていられたから。
(…だから、あいつは…)
それに応えようと無理をしたのか、責任感の強さゆえだったのか。
誰にも助けを求めることなく、真っ直ぐにキースの許へ向かった。
正確に言うなら、先回り。
捕虜が脱出するのだったら、格納庫を目指す筈だから。
(…其処まで読めていたんだったら…)
ブルーがその気になりさえしたなら、連絡手段は幾らでもあった。
思念波を使うミュウといえども、それだけに頼りはしなかったから。
船の通路や、主だった部屋に備わっていた通信機。
もちろん青の間にも、あの日、ブルーが歩いた筈の通路にも。
(なのに、使いさえしなかったんだ…)
ほんの一言、「何が起こった?」と尋ねれば全て分かったろうに。
ブリッジに直接繋がる回線、どの通信機にも備わった機能。
非常事態には、幼い子供でも使えるようにと、ヒルマンたちが教えていた。
「こうすればブリッジに繋がるから」と。
最優先で繋がるのだから、必ず誰かが対応する。
何処から入った通信なのかも、一瞬で分かる仕組みだったのに。
それをブルーが使っていたなら、変わっていたろう、あの時の全て。
思念の糸が伝えた震動、変動の予兆で目覚めたブルー。
「何があった?」と訊きさえしたなら、前の自分が応えた筈。
最初に通信を受け取った者が誰であろうと。
ルリであろうが、ヤエであろうが、きっと自分に回されたから。
「ソルジャー・ブルーからの通信です」と。
いくらソルジャー・シンの時代といえども、先の指導者はソルジャー・ブルー。
彼が連絡して来たのならば、繋ぐ相手はキャプテンしか無い。
ブルーは自分に訊けば良かった、「何が起こっているんだ?」と。
そうすれば直ぐに伝えただろう、キースのことも、カリナのことも。
「ご心配には及びません」と気遣いながらも。
目覚めたばかりのブルーに負担はかけられないから、協力を求めることは出来ない。
それでもブルーは知りたいだろうし、何が起きたかを簡潔に。
(俺がきちんと伝えさえすれば…)
ブルーも意見を述べたのだろう。
「手は打ったのか?」と、「捕虜の脱出経路は塞いだのか」と。
「きっと格納庫に向かうだろうから、戦力は全て、そちらに回せ」と。
誰もが予想もしていなかった、捕虜が脱出するということ。
船の構造は複雑なのだし、逃げられないと甘く見ていた部分はあった。
人類の船とは、まるで違っているのだから。
「普通はこうだ」と走って行っても、行き止まりになるのがシャングリラだから。
(…船の構造が漏れていたとは、誰も思わん…)
キースが盗み見ていたなどは。
無防備に彼と接触したフィシス、彼女から船の構造を引き出していようとは。
そうとも思わず、「どうせ捕まる」と放っておいたキース。
カリナの騒ぎが収まった後で捕えればいいと、その前に捕まるかもしれないと。
何処かでウッカリ、袋小路に突っ込んで。
其処にいた仲間に「いたぞ!」と叫ばれ、警備の者たちに取り押さえられて。
無防備すぎた前の自分たち。
ブルーは先回りしたというのに、万一のことを考えたのに。
(…あいつが無茶さえしなかったなら…)
ブリッジに連絡を入れていたなら、キースは充分、捕まえられた。
対サイオンの訓練をいくら積んでいたって、ミュウの集団には敵わない。
物理的な攻撃を受けても勝てない、銃撃されていたならば。
(なのに、あいつは一人きりで…)
満足に動けもしない身体で、たった一人で戦おうとした。
思念の糸に起こされたから。
糸を揺るがせた者を倒すこと、それが自分の使命なのだと考えたから。
(…とことん、ソルジャーだったってな…)
あんなに長く眠っていても、と思い浮かべたシャングリラ。
船を包んでいた思念。
ブルーが長い眠りに就いても、白いシャングリラを取り巻いて。
普段は意識していなくても、ふとしたはずみに感じたブルー。
「此処にいるな」と、「あいつなんだ」と。
まるで惑星を取り巻く大気で、その上を流れゆく風のよう。
シャングリラに本物の風は無くても、人工の風が吹くのを感じて、よく思った。
「あいつのようだ」と、「こんな風に守っているんだな」と。
惑星を一つ包む代わりに、シャングリラを。
目には見えない大気さながら、いつも優しく包み込んで。
誰も意識などしていない風、それが吹き抜けてゆくかのように。
(だから、あいつは風だったわけで…)
風の匂いだと言われて納得したんだっけな、と眺める暗い窓の外。
今は本物の風があるなと、それも蘇った地球の風だ、と。
きっとブルーの家の庭にも吹いているから、風は同じに吹くだろうから。
小さな恋人を思い浮かべる、「風の音、お前も聞いてるか?」と。
いい風だよなと、地球の風だと。
今度は俺が守るからなと、今度は俺がお前を包んで守るんだから、と…。
風が吹いたら・了
※今は当たり前に吹いている風。シャングリラには無かった自然の風。
それに似ていたのがソルジャー・ブルー。でも、今のブルーは頑張らなくてもいいのですv