(さて、と…)
すっかり遅くなっちまった、とハーレイが座った机の前。
ブルーの家には寄れなかった日の夜、いつもの書斎で。
愛用のマグカップに淹れた熱いコーヒー、それをお供に。
(思った以上に遅くなったな…)
まあ、楽しくはあったんだが、と思う同僚たちとの夕食の席。
仕事の帰りに誘われたから、断り切れずに出掛けた次第。
ブルーの家へと出掛けてゆくには、もう遅すぎる時間だったから。
(あの時間から行くと、迷惑かけちまうからな…)
自分も料理をするから分かる。
夕食の支度に間に合わせるには、何時頃までに着くべきかは。
人数に見合った量の料理を、きちんと作り上げられる時間。
それを過ぎたら、予定外の何かを作るしかない。
一人増えた分を補える料理、家にある食材で手早く作れるだろう料理を。
(いくら「御遠慮なく」と言われてたってなあ…)
寄るとブルーが喜ぶから、と「いらして下さい」と何度も言われる。
一人息子のブルーを愛する両親に。
遅い時間でも大丈夫だから、毎日でもお越し下さい、と。
けれど、やっぱり寄りにくい。
自分はブルーの家族ではないし、親戚ですらもないのだから。
(いつかあいつと結婚したなら、俺も家族になるんだが…)
その日までは、と遠慮している遅い時間に訪れること。
せめてブルーと婚約するまで、それまでは早い時間だけだ、と。
そうしようと固く決めているから、今日も寄らずに帰って来た。
真っ直ぐに家へ帰るつもりが、少々、予定が狂ったけれど。
「ハーレイ先生も如何ですか?」と誘われた食事、それに出掛けてしまったけれど。
たまには、同僚たちとの食事。
楽しい時間を過ごせる上に、色々な話も聞けるから。
思った通りに有意義だった、ワイワイ賑やかにやった席。
生徒の思いがけない話や、他の学校での愉快な事件。
同僚たちの数だけネットワークがあるから、いくら話しても尽きない話題。
夕食だけで、と入った店で、弾む話題に合わせるように追加で注文。
あれもこれもと、皆の好みや、「面白そうだ」と思うものやら。
どんどん増えていった注文、お蔭でドッサリ食べて来た。
「酒は飲まない」と決めていたから、代わりに料理。
同僚たちもそれは同じで、酒が入らない分、料理をたらふく。
(美味かったんだが…)
本当に遅くなっちまった、と眺める時計。
いつもだったら、この時間には、コーヒーは淹れ立てではなくて…。
(飲んじまった後か、冷めちまってるか…)
そんな時間だ、と零れる苦笑。
ブルーはとうに寝ているだろうか、もう遅いから。
それとも自分がそうだったように…。
(すっかり遅くなっちゃった、とだな…)
大慌てで眠る支度だろうか、本にでも夢中で時間が過ぎて。
まだお風呂にも入っていなくて、大慌てで飛んで行ったとか。
そうでなければ、パジャマ姿で「クシャン!」とクシャミをしているか。
「身体、ウッカリ冷やすんじゃないぞ?」と何度も注意しているけれど…。
(…俺が見張っているわけじゃないし…)
ブルーがきちんと何か羽織ったか、忘れているかは分からない。
「ちょっとだけだよ」と読み始めた本、それに捕まって羽織り忘れてしまった上着。
その結果として「クシャン!」とクシャミで、気が付く時計。
指している時間は何時なのかと、今の時間はこんなに遅い、と。
如何にもブルーがやりそうなことで、やっているかもしれないから…。
「おい、早く寝ろよ?」
風邪引いちまうぞ、と呼び掛けたブルー。
もちろん思念波などではなくて、肉体の声で。
直接、通信を入れるのでもなくて、机に飾ったブルーの写真に。
夏休みの最後の日に二人で写した、一枚きりの記念写真。
弾けるような笑顔のブルー。
それは嬉しそうに、両腕でギュッと、左腕に抱き付いて来たブルー。
幸せだった時間を切り取り、こうして形になっている写真。
小さなブルーは其処にいるから、話し掛けてやった。
「もう遅いしな?」と、「そろそろ寝ろよ」と。
「早くベッドに入らないと」と、「明日も学校、あるだろうが」と。
ブルーは応えはしないけれども、届くような気がするものだから。
声が届いているのでは、と温かな気持ちになれるから…。
「おやすみ、ブルー」
いい夢をな、と写真のブルーに微笑み掛けた。
「怖い夢なんか見るんじゃないぞ」と。
ブルーが恐れるメギドの悪夢。
それがブルーを襲わないよう、「いい夢を」と。
ブルーがぐっすり眠れるように、「おやすみ」と。
(…ちゃんと早めに寝るんだぞ?)
なあ、とブルーの写真を見詰めて、もう一度「おやすみ」と繰り返して。
本当はキスを落としたいけれど、相手は小さな写真なだけに…。
(額や頬にキスのつもりが…)
唇にもキスをしちまうからな、と指先でチョンと触れてやったブルー。
フォトフレームのガラス越しに。
写真が汚れてしまわないよう、指先でそっと。
「おやすみ」とキスの代わりに、指。
ぐっすり眠れと、いい夢をと。
これで良し、と唇に浮かべた笑み。
ブルーはぐっすり眠れるだろうと、悪い夢だって来ないだろうと。
(俺が守ってやるからな)
お前の側にはいてやれないが、と見詰める写真。
それでも此処から見ているからと、「おやすみ」の挨拶もしてやったしな、と。
キスは無理でも、代わりに指先。
そうっとブルーの写真に触れて、「いい夢をな」と、「おやすみ」と。
きっとブルーを守れるだろう、と思いたい。
こうして言葉をかけておいたら、写真に触れてやったなら。
心だけでも、ブルーの側へと寄り添って。
小さなブルーが眠る時まで、ベッドの隣で見守ってやって。
(…あいつの右手を握るみたいに…)
前の生の終わりに、冷たく凍えたブルーの右手。
最後まで持っていたいと願った、前の自分の温もりを失くしてしまったせいで。
その手を握ってやりたいけれども、側にいられるのは心だけ。
ブルーの家は遠いから。
まだ家族でもないのだから。
(…俺に言えるのは、「おやすみ」っていう挨拶だけで…)
そいつが俺の精一杯だ、と思うけれども、愛おしい。
何ブロックも離れた所で、ベッドに入っただろうブルーが。
もしかしたら、もう眠っているかもしれないブルーが。
「ぐっすり眠れよ?」
おやすみ、と繰り返す言葉。
この挨拶を側で言えたらと、今の自分はまだ出来ないが、と。
(…前の俺なら…)
何度ブルーに言っただろうか、「おやすみ」と。
まだチビだった頃のブルーに。
今のブルーとまるで変わらない、少年の姿だったブルーに。
アルタミラから脱出した後、ブルーとはずっと友達だった。
お互いに一番仲のいい友達、だから何度も「おやすみ」の言葉。
ブルーの部屋で遅くまで語り合ったら、「おやすみ」と挨拶して帰って行った。
逆にブルーが訪ねて来たなら、「おやすみ」と手を振って扉の向こうの通路へと。
恋人同士になった後には、「おやすみなさい」と落としたキス。
額に、唇に、時には頬に。
「おやすみなさい」と、「良い夢を」と。
そうやって挨拶を贈った後には、ブルーが眠りに落ちてゆくまで…。
(抱き締めてやって…)
ブルーの眠りを守っていた。
遠い昔の恐ろしい夢が、ブルーを襲わないように。
アルタミラが滅びた時の地獄や、惨たらしい人体実験の記憶。
それをブルーが見ないようにと、いつも、いつだって、祈りをこめて。
「おやすみなさい」の挨拶の後は、ただ大切に抱き締めていた。
愛おしい人を、前のブルーを。
気高く美しかった恋人、ソルジャー・ブルーと呼ばれた人を。
(なのに、今では…)
まだ写真にしか言ってやれん、と指先で触れるブルーの写真。
それでも、「いい夢を見てくれ」と。
俺がこうしてついているから、悪い夢など見るんじゃないぞ、と。
(いつか、お前が大きくなったら…)
おやすみのキスも、挨拶だって、とブルーの写真に心で語り掛けてやる。
もう何年か経った頃には、本当に側にいるからと。
眠る時はいつも「おやすみ」のキスと、挨拶を贈ってやるから、と。
(今はまだ、贈ってやれない分まで…)
必ず贈ってやるからな、と瞑った片目。
楽しみに待っているんだぞ、と。
「おやすみ、ブルー」と、「今夜もいい夢を見てくれよ」と…。
おやすみの挨拶・了
※ハーレイ先生がブルー君に贈る、「おやすみ」の挨拶。今はまだ写真のブルー君に。
いつかブルー君が大きくなったら、毎晩、「おやすみ」の挨拶もキスも贈れますよねv