(うん、この一杯が美味いってな)
落ち着くんだ、とハーレイが傾けた熱いコーヒー。
ブルーの家には寄れなかった日、夜の書斎で。
いつものように淹れたコーヒー、愛用しているマグカップに。
こうして書斎で飲むこともあれば、ダイニングで飲むことだって。
気分次第で変わる場所。
けれど落ち着く、コーヒーの味。
何処で飲んでも、ふわりとほどけてゆく心。
いつもの習慣、リラックスするための夜の一杯。
(コーヒーってヤツは、少数派なのかもしれないが…)
普通は酒か、と浮かべた苦笑。
自分くらいの年の男性なら、夜はコーヒーよりも酒かも、と。
もちろん、酒も好きだけど。
酒を飲む夜もあるのだけれども、これが性分。
夜の一杯、いつも飲むなら酒よりコーヒー、そういった主義。
(…酒も美味いんだが…)
職業柄ってヤツだよなあ、と思うのが酒。
夜も頑張って勉強する生徒、この時間ならばいてもおかしくはない。
(俺の授業の方じゃなくても…)
古典で宿題を出していなくても、テストの予定がまるで無くても、科目は色々。
明日にテストを控えた生徒や、宿題の山と戦う生徒。
けしていないとは言い切れないから、自分が酒を飲むというのは…。
(ちょっぴり後ろめたいってな)
毎日、飲むとなったなら。
たとえ一日に一杯限りと決めていたって、毎晩ならば。
生徒は勉強中だというのに、自分は酒。
申し訳ない気分がするから、毎晩飲むならコーヒーの方。
コーヒーだったら、眠気覚ましに飲む人だって多いもの。
朝食の時にコーヒーを一杯、それでシャキッと目を覚ます人も多い飲み物。
夜遅くまで仕事や勉強となれば、其処でも登場するコーヒー。
眠くなったら眠気覚ましに、「コーヒーでも飲んで頑張ろう」と。
(そういうヤツらも多いわけだし…)
コーヒーだったら問題無し、と傾けるのが夜の一杯。
酒の方なら、人によっては訪れる眠気。
そうならなくても、気が大きくなる人もいる。
(俺だったら、そうはならないんだが…)
グラスに一杯飲んだ程度では、全く酔いはしないから。
二杯、三杯と重ねてみたって、どちらかと言えば至って正気。
よほどでなければ酔いはしないし、損なタイプと言うかもしれない。
友人や同僚、彼らと一緒に飲みに出掛けたら…。
(…俺だけ、しっかり正気だってな)
あれはつまらん、と零れる溜息。
皆が陽気に歌い出しても、其処で一人だけ置き去りだから。
肩を組んでの懐かしの歌も、自分だけが帰れない過ぎ去った昔。
他の友人は、学生時代に戻っているのに。
同僚だったら青春気分で、心は時間を遡ってその頃に戻っているのに。
(…酒はそういう飲み物だしなあ…)
だから生徒に申し訳ない気分になるのが、酒というもの。
「俺は酔わない」と分かっていたって、同じ量で酔う人はいるから。
酒というものに弱い人なら、僅かでも酔ってしまうから。
(気が大きくなる方に行ったら…)
何の根拠もなく「大丈夫だ」と思いがち。
早めに準備を始めた方が、と酒を飲む前には分かっていたって…。
(準備なんぞはしなくてもいい、と思っちまうのが酒らしいしな?)
そして後から困ることになる、準備など出来ていないから。
酒を飲む前にやっておいたら、そういうことにはならないのに。
眠くなったり、大きな気分になってしまったり、生徒には勧められない酒。
年齢的にも無理だけれども、生徒たちは酒を飲めないけれど。
(二十歳までは禁止だ、禁止)
酒の入った菓子がせいぜい、というのが自分の教え子たち。
一番上の学年だって、卒業の時は十八歳。
酒が飲める生徒はいない学校、義務教育の最終段階。
生徒たちは酒を飲めないけれども、飲むような者もいないけれども。
(…あいつらが酒を飲んじまったら…)
宿題は出来はしないだろう。
明日のテストに向けての勉強、それだって。
眠ってしまうか、気が大きくなって「大丈夫だ」と宿題を放り出すか。
陽気な気分になってしまって、勉強の代わりに歌い出すとか。
(…でもって、次の日に思い切り後悔するってな)
昨夜はどうして飲んだのだろうと、一杯の酒を。
あれさえ無ければ、きっとテストの点数はもっとマシだろうに、と。
宿題の方も、「出来ていません」と項垂れるしかない。
提出を求められたなら。
あるいは名指しで「これの答えは?」と訊かれたなら。
(とんでもないことになるのが、酒ってヤツで…)
その辺もあってコーヒーなんだ、と大きなマグカップを傾ける。
こっちだったら眠気覚ましで、生徒が飲んでも大丈夫だから。
宿題や勉強を放り出さずに、頑張って続けられるから。
(…まさに今頃、飲んでる生徒もいそうだってな)
明日が提出期限の宿題、それが全く出来ていない、とコーヒーを飲んで遅くまで。
テストに向けての勉強の方も、やっている子もいるだろう。
(昼間にウッカリ遊びほうけて、ピンチなヤツだ)
計画的に出来る子だったら、とうに仕上げて眠っているから。
宿題にしても、テスト勉強にしても、出来る生徒は早めにしておくものだから。
(…あいつも、そういうタイプだよなあ…)
寝てはいなくても、コーヒーなんぞに頼っちゃいない、と思い浮かべた恋人の顔。
前の生から愛したブルー。
十四歳にしかならないブルーは、生まれ変わって帰って来た。
前のブルーが焦がれた地球に、今の自分が住んでいるのと同じ町へと。
五月の三日に再会するまで、互いに気付いていなかったけれど。
この町に恋人が住んでいることも、前の自分がどういう名前だったのかも。
そうして出会った小さなブルーは優等生。
成績はトップクラスなのだし、宿題やテスト勉強などには…。
(追われちゃいないな、コーヒーに頼るほどにはな?)
自分のペースで早めに仕上げて、夜はぐっすり眠る筈。
無理に目を覚まして頑張らなくても、ブルーだったら充分に出来る。
コーヒーなんかを飲まなくても。
眠気覚ましに熱いコーヒー、それで頭をシャッキリと、と宿題の山に向かわなくても。
(余裕だ、余裕)
酒を飲んでも大丈夫だぞ、と今のブルーに重ねてみる酒。
まだまだ飲めない年だけれども、それを飲んでも問題無し、と。
眠くなっても、宿題は出来ているのだから。
陽気な気分で歌い出しても、テストに向けての勉強はとうに済んでいるから。
(…そういう生徒ばかりだったら、俺だって苦労しないのに…)
ブルーみたいなのが例外なんだ、と分かっているのが教師生活。
生徒は宿題を嫌がるものだし、忘れて来るのもありがちなこと。
テスト勉強の方にしたって、何日も前から予告したって…。
(ヤツらにとっては、抜き打ちテストと同じだってな)
どうせ前日まで、勉強しないでいるのだから。
明日はテストだ、と気付いてようやく始める勉強。
生徒によってはコーヒーを飲んで、「今からやって間に合うだろうか」と。
もう一時間ばかり頑張ったならば、マシな点数が取れるかも、と。
コーヒーを飲んで戦う生徒。
自業自得な結果とはいえ、宿題の山やテスト勉強に立ち向かってゆく戦士たち。
きっと今夜もいるだろうから、自分も酒は飲まずにコーヒー。
(…もっとも、俺はコーヒーくらいじゃ…)
眠気覚ましになりやしないが、とクックッと笑う。
リラックスした夜のひと時、それのお供がコーヒーなだけ。
眠れなくなったら本末転倒、ぐっすり眠るための一杯。
心がほぐれてゆくのがコーヒー、いつもの一杯、気に入りの場所で。
書斎だったり、ダイニングだったり、その日の気分で決めて、ゆったり座って。
(…こいつが実に…)
美味いんだよなあ、と味わう内に気付いたこと。
途端に噴き出しそうになったコーヒー、一気に笑いがこみ上げたから。
今の自分の勘違いなるもの、それがとんでもなく可笑しかったから。
(おいおいおい…)
コーヒーを飲んで頑張るも何も、と浮かんだ小さなブルーの顔。
あいつはコーヒーが駄目だったんだと、前のあいつも苦手だった、と。
(…今のあいつも、欲しいと強請りはするんだが…)
飲んでみようと頑張ってみては、敗退するのが苦いコーヒー。
前のブルーも全く同じで、コーヒーには砂糖をたっぷりと入れて、甘いホイップクリームまで。
(それに、酒だって…)
全く飲めなかったっけな、と止まってくれそうもない笑い。
とても優秀な生徒のブルーは、コーヒーどころじゃなかったんだ、と。
前のブルーも、コーヒーも酒も駄目だったよな、と。
(どっちも忘れていられるくらいに…)
今は新しい人生ってこった、と笑いながらも気分は乾杯。
青い地球の上、ブルーと生きてゆく人生に。
酒ではなくてコーヒーだけれど、乾杯の相手もいないのだけれど、「今の人生に乾杯だ」と…。
いつもの一杯・了
※ハーレイ先生のお気に入りのコーヒー、夜の一杯。お酒ではなくてコーヒーな主義。
ブルー君のことを想っていたのに、勘違い。ブルー君、お酒もコーヒーもまるで駄目なのにv