(あれ…?)
なんで、とブルーが見詰めたもの。
ひらりと目の前を横切った蝶。
学校から帰って、それからおやつを食べに出掛けて。
ダイニングから部屋に戻った途端に、扉を開けたら蝶がひらりと。
さして珍しくない、黄色い翅の。
(ぼくの部屋だよ?)
庭じゃないのに、と驚かされた訪問者。
どうして此処にと、いったい何処から、と。
(蝶なんか…)
帰った時にはいなかった筈、と見回した部屋。
答えは直ぐに見付かった。
風にふわりと揺れるカーテン、部屋の窓辺で。
カーテンの向こうはまだ明るい庭、日暮れには早い時間だから。
(窓、開けっ放し…)
そういえば窓を開けたんだっけ、と思い出した。
学校から家に帰った時に。
鞄を置いて制服を脱ごうと、二階の自分の部屋に来た時に。
(部屋が暖かかったから…)
汗ばむほどの陽気だった昼間、今はそれほどでもないけれど。
窓が開いていても丁度いい気温、そんな感じの風が入ってくるけれど。
帰った時には、少し暖かすぎた部屋。
制服の上着を着ていたら。
「ちょっと暑い」と思った部屋。
制服は脱いでしまうのだけれど、暖かすぎる部屋は些か季節外れで。
(夏みたいだから…)
外の空気を呼び込まなくちゃ、と開けた窓。
こもった熱気を外に出そうと、新鮮な空気と入れ替えようと。
同じ空気を入れ替えるなら、と大きく開け放った窓。
庭からの風が心地いいから、両手を広げて深呼吸だって。
(もっと外をよく見たくって…)
邪魔だ、と思った虫よけの網戸。
これは要らない、と開けてしまった。
遮るものが無くなった窓は、外の世界に繋がる扉。
もしも自分が空を飛べたら、其処から空へと舞い上がれる。
庭の上を飛んで、向かいの家の屋根も飛び越えて、上へ。
もっと遠くへ、高く高く空へ。
(飛べるかな、って…)
今の自分は飛べもしないのに、広がった夢。
空を飛べたらどうだろうかと、此処から飛んでゆけるのに、と。
そうして酔っていた景色。
窓辺で外からの風に吹かれて。
(外を見てたら、ママに呼ばれて…)
いつもなら直ぐに下りてゆくのに、行かないから。
「おやつよ」と声を掛けに来た母。
部屋の扉を軽くノックして。
(おやつ、急いで食べに行かなきゃ、って…)
きっと支度は出来ているから。
時間が経ったら美味しさが減るお菓子、そういうものかもしれないから。
出来上がったばかりのプリンとか。
焼き立てはふんわり膨らんでいても、冷めたら萎むスフレとか。
それは困る、と慌てて部屋を飛び出した。
窓にくるりと背を向けて。
おやつの時間、と大急ぎで。
(そのまま、忘れちゃったんだ…)
窓を閉めるということを。
網戸も、それにガラスの窓も。
だから窓辺で揺れているカーテン、部屋の中には…。
(入って来ちゃった…)
網戸が無いから、ひらりと入ってしまった蝶。
庭の続きで、窓からそのまま。
部屋と庭とは繋がっていたし、遮るものなど無かったから。
(えーっと…)
思わぬ珍客、ひらりひらりと舞っている蝶。
本棚の方へ飛んで行ったり、机の上を飛び越えてみたり。
(どうしよう…)
窓から出してやりたいけれども、部屋に無いのが捕まえる道具。
下に行っても、きっと無い。
(捕虫網なんか…)
振り回す子供ではなかったから。
小さな頃から弱い身体に、そんな元気は無かったから。
暑い盛りにセミを追うとか、カブトムシを捕りに行くだとか。
元気な子供なら夢中になること、それを自分はしていない。
(ぼくの捕虫網、無いんだから…)
母に訊いても、家に置いてはいないだろう。
虫を捕る子供はいなかったのだし、父も網では捕まえていない。
「ほらな」とセミを捕まえて見せてくれたのは、父の大きな手だったから。
トンボの目を回して捕ってくれたのも、父の指と手。
網の出番は無かったのだし、きっと無いだろう捕虫網。
飛び回っている蝶は捕まえられない。
部屋から出してやりたくても。
「庭はこっち」と、窓から放してやりたくても。
網が無いなら、捕まえるには手しか無いけれど。
幼かった頃に父がやったように、手を使う以外に無さそうだけれど。
(セミやトンボは…)
手で捕まえても大丈夫。
父の大きな手に捕まっても、怪我をしたりはしない虫。
けれども、蝶は駄目だと言われた。
「蝶も捕って」と頼んだら。
幼かった日に、「側で見たいよ」と強請ったら。
(蝶の翅が駄目になっちゃうから、って…)
そう教えられた、父と母から。
ひらひらと舞う翅を彩る模様は、とても細かな粉なのだと。
鱗粉という粉の集まり、それが染めている蝶の翅。
アゲハチョウみたいなお洒落な蝶も、黄色や白の蝶の翅の色も、作るのは粉。
人間の手で捕まえられたら、剥がれてしまう翅の鱗粉。
指の形がついてしまって、元の姿には戻せない。
(だから見るだけ、って…)
捕まえたら可哀相だから、と諭された蝶。
側で見るなら、花や葉っぱに止まった時にしておきなさい、と。
(それでも見たくて…)
駄々をこねたら、「今日だけだぞ?」とサイオンで捕まえてくれた父。
サイオンの玉で蝶を包んで、ふうわりと。
ほんの少しの間だったけれど。
(…サイオンだったら、出来るんだけどな…)
蝶を捕まえて出してやること。
窓から庭に放すこと。
けれど出来ない、今の自分では。
不器用なサイオンでは空も飛べないし、蝶を捕まえることだって。
ひらりひらりと飛んでいる蝶。
どうすればいいというのだろう?
部屋の中には、蝶の餌など何も無いのに。
翅を休める場所はあっても、蜜を吸える花は咲いていないのに。
(お腹、空いちゃう…)
こうして飛んでいる間にも。
飛ぶにはエネルギーを使うし、お腹はどんどん減ってゆく筈。
とうにペコペコかもしれない。
花を探して迷い込んだなら、肝心の花が見付からなくて。
(ぼくのせいだよ…)
閉め忘れてたぼくが悪いんだもの、と眺める自分が閉め忘れた窓。
おやつを食べようと急いでいて。
自分のおやつに夢中になって。
(その間に迷い込んじゃって…)
部屋を飛んでいる蝶のお腹は減る一方。
このまま外に出られなかったら、疲れてしまって…。
(床に落ちちゃうとか?)
そうでなければ、机や棚に止まったままになるだとか。
今は軽やかに飛んでいるのに、すっかり動けなくなってしまって。
お腹を空かせて、飢えてしまって。
(子猫とかなら…)
餌をあげれば済むことだけれど、蝶の場合はどうなのだろう。
「はい」と差し出したら蜜を吸うのか、人間の手からは食べないものか。
幼虫だったら、葉っぱを与えて飼う友達もいたけれど…。
(蝶を飼ってた友達なんて…)
いなかったから分からない。
庭の花を摘んで持って来たなら、餌の代わりになるのかどうか。
窓から出してやれもしないし、餌になる蜜もどうすればいいか。
ぼくのせいだ、と泣きそうな気持ち。
蝶が出られずに飢えてしまったら、飛べなくなってしまったら。
(…そんなの、酷い…)
ふと重なった、前の自分の遠い遠い記憶。
狭い檻の中に押し込められて、繰り返された人体実験。
まるであの時の自分のようだと、出られない蝶は前のぼくと同じ、と。
(どうしたらいいの…?)
母を呼んで来て、サイオンで包んで窓から出して貰おうか?
「閉め忘れてたら、入っちゃった」と、自分のミスを打ち明けて。
「可哀相だから、出してあげて」と。
きっと、それしか無いのだろう。
蝶の命を救うためには、と決心して部屋を出ようとしたら。
(えっ…?)
ひらり、と蝶が飛び越えた窓。
いとも容易く、部屋から庭へ。庭の向こうの広い世界へ。
(…ひょっとして、探検していただけ…?)
入ってしまったこの部屋の中を、気まぐれに。
知らない場所だと、気の向くままに。
考えてみれば、窓からは風が吹いていたから。
蝶がその気になりさえしたなら、きっと出口は分かったろうから。
(…此処、アルタミラじゃないもんね…)
閉め忘れた窓はただの入口、そのまま出口になる扉。
入りたい時にひらりと入って、出たい時には出てゆける扉。
前の自分が入れられていた檻と違って、外の世界と部屋は続いているのだから。
(…ぼくも飛べたら、あの窓から外へ…)
出られるんだっけ、と気付いた窓。
閉め忘れてたのも、そのせいだっけ、と。
(今のぼくも蝶も、うんと自由で…)
何処へ行くのも自由なんだよ、と浮かんだ笑み。
閉め忘れてた窓のお蔭で気付いたと、もう檻なんかは無いんだっけ、と。
あの蝶が飛んで行った方から、運が良ければハーレイも来る。
窓からではなくて、玄関から。
「仕事が早く終わったからな」と、優しい笑顔で。
アルタミラの檻は遠い昔で、シャングリラだって、もう時の彼方。
今の自分は自由だから。
閉め忘れていた部屋の窓の外は、前の自分が焦がれ続けた地球なのだから…。
閉め忘れてた窓・了
※ブルー君が閉め忘れた窓から、部屋に入ってしまった蝶。出すのは難しそうですけれど…。
実は簡単に出られた窓。アルタミラの檻とは違う今の世界は、出入り自由な世界ですv