(ん…?)
どうだったか、とハーレイの頭を掠めたこと。
ブルーの家には寄れなかった日、夕食の後に入った書斎で。
愛用のマグカップに淹れたコーヒー、それを片手に座った椅子。
机を前に寛ぎのひと時、さて、と思った所で、ふと。
(閉めたんだったか…?)
二階の窓。
仕事から帰って、寝室のある二階に行った。
留守の間は閉めていた窓、それを開いて空気を入れに。
朝一番にも開けるけれども、帰ってから開ける時だって。
そういう気分になった時には、外の心地良い空気を呼ぼうと。
(開けて、それから…)
いつでもベッドに入れるようにと、整えた用意。
朝にきちんとしておいたベッド、それをもう一度、改めて。
(その後にだな…)
本を一冊、置いたのだった。
ベッドで読むにはお誂え向きの一冊を。
たまに読みたくなる、繰り返し読んだ文庫本。
腰を据えて書斎で読んでゆくより、気の向いた時にパラリと開く。
それが似合いの旅のエッセイ、何処から読んでも魅力的だから。
キリのいい所で「此処まで」と切れる、旅の日記のようなもの。
(そいつを思い出したから…)
この書斎まで取りに戻って、枕元へと。
今日から暫く読んでみようと、著者との旅と洒落込もうと。
(置きに戻って…)
それから窓をどうしたろうか。
普段だったら、寝室を整え終えた所で閉める窓。
カーテンも引いて、これから降りる夜の帳に相応しく。
けれども、本を取りに下りた書斎。
様々な本がズラリと並んだ棚から一冊、「これだっけな」と取り出した。
其処でパラパラ拾い読みして、頷いて閉じた気に入りの本。
(二階へ持って上がって行って…)
寝室に入って、其処から後。
自分は窓を閉めただろうか、それにカーテンも。
本は確かに置いたのだけれど、置いて満足しなかったろうか?
(これで良し、と枕をポンと叩いて…)
覚えてはいない、自分の行動。
頭の中身は、夕食の支度に移っていたから。
仕事の帰りに買った食材、それで作りたい今夜のメニュー。
新聞で読んだばかりの工夫もしてみたかった。
下味の付け方、それを試して、と。
(…すっかりそっちに行っちまって、だ…)
窓をいったい、どうしたのだろう。
身体が勝手に動いて閉めたか、あるいは忘れてしまったのか。
まるで無い自信、「確かに閉めた」と。
カーテンを引いた覚えも無いから、なんともマズイ。
あれっきり開けたままだったのなら…。
(部屋が冷え切っちまっているぞ)
いくら穏やかな季節とはいえ、夜は夜。
こいつは駄目だ、と立ち上がった。
閉め忘れたのなら、閉めに行かねば。
部屋の空気が冷えてしまえば、ベッドも寝具も冷えるのだから。
淹れたばかりの熱いコーヒー、それにお別れ。
とにかく窓を、と急いだ二階。
階段を上がって、勢いよく開けた寝室の扉。
(おや…?)
其処の空気はいつも通りの柔らかなもの。
冷たい夜気が満ちる代わりに、暖かな部屋が待っていた。
見れば、閉まっているカーテン。
念のためにと開けてみたけれど、その向こうの窓も。
(…閉めていたのか…)
癖ってヤツだな、と納得した。
自分では全く意識しなくても、身体は覚えていたらしい。
寝室の支度を整えた後には、こうして窓を閉めるものだ、と。
カーテンも引いて、夜に備えて。
(…癖だか、それとも本能なんだか…)
なんにしたって、閉まっていた窓。
無駄足になった此処までの道。
(まあ、いいんだがな?)
冷え冷えとした部屋に出会っていたなら、「しまった」と思うだろうから。
ベッドもすっかり冷えちまったと、後悔しきりだろうから。
(夜の空気じゃ、湿気ちまうし…)
心地良い眠りは期待出来ない。
季節外れでも暖房を入れて、暫く暖めたりしない限りは。
そういう手間は省けたけれども、とんだ無駄足。
一階から二階へ、そして二階から一階に戻ってゆくのだから。
きちんと窓を閉めていたなら、それは要らない筈だったのに。
(俺としたことが…)
ウッカリしてた、と戻った書斎。
運動になったと思うしかない、二階への旅。
(階段を上がって下りたくらいじゃ…)
このコーヒーで帳消しだよな、と傾けたカップ。
運動した分のエネルギーよりも、コーヒーの方が上だろう、と。
コーヒーのカロリーは知らないけれども、これも一種の食品だし、と。
(運動は足りているんだが…)
無駄足というのが悔しい気分。
その原因を作った自分も。
しっかりしろと、窓は開けたら閉めるもんだ、と。
(ちゃんと閉めてはいたんだが…)
記憶に無いというのが酷い。
夕食の段取りをしていたにしても、それは余所見のようなもの。
授業中に余所見をしている生徒と変わらないな、と小突いた額。
これじゃ生徒を叱れないぞ、と。
(一事が万事で…)
やり始めたことは、やり遂げること。
些細なことでも、終わるまで。
でないと、こういう失敗をする。
窓を閉めたか、閉めていないかと、コーヒーを放ってゆくような。
夕食の後の寛ぎの時を、中断する羽目になるような。
(窓だったから、まだマシなんだが…)
これが料理の途中だったら、と情けない気持ち。
火にかけてある鍋を忘れてしまって、シチューが煮詰まってしまうとか。
味噌汁がグツグツ煮えてしまって、味噌の風味が飛ぶだとか。
窓で良かった、とホッと一息。
(これが料理の方だったら…)
目も当てられないシチューや味噌汁、あるいは黒焦げになったトースト。
そっちよりかは、まだマシだと。
開けっ放しの窓だったならば、閉めて終わりで、冷え切った部屋も…。
(ちょいと暖めてやればだな…)
まだ取り返しがつくってもんだ、と考えた所で蘇った記憶。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が叫んでいた。
白いシャングリラのブリッジで。
緊迫した空気が満ちている中、「気密隔壁閉鎖!」と大きな声で。
(…おいおいおい…)
窓の閉め忘れどころじゃないぞ、と思い出した前の自分の世界。
キャプテン・ハーレイとして生きていた船、ミスなど許されなかった船。
(あそこで窓が開けっ放しだと…)
外は宇宙か、アルテメシアの雲海か。
いずれにしたって、外の世界に繋がる扉。
それは閉ざしておくべきもの。
開けたら必ず、閉め忘れないで。
(窓が無くても、いきなり開くんだ…)
人類軍に攻撃されたら、シールドを突き抜けられたなら。
船は傷つき、中の空気が外へ吸い出されてしまう状態。
放っておいたら、大事故になる。
最悪の場合、船は沈むか、バラバラに壊れて砕け散るか。
そうならないよう、閉めていたのが気密隔壁。
損傷した箇所を特定して。
キャプテン自ら指示を飛ばして、「このブロックを遮断しろ」と。
取り残された者がいるなら、救助して。
船の空気が漏れ出さないよう、シャングリラが壊れてしまわないよう。
(その俺が、窓を閉めるのを忘れたってか…?)
開けっ放しで、と見開いた瞳。
窓は閉まっていたのだけれども、閉めていないも同然の窓。
閉めた覚えが無いのだから。
「閉め忘れたか?」とコーヒーを置いて、確認しようと出掛けた二階。
窓は幸い、閉まっていただけ。
自分で閉めた覚えは無くても、身体が閉めてくれていただけ。
普段はこうだ、と動いてくれて。
窓を閉めて、ついでにカーテンも引いて。
(…人間、変われば変わるもんだな…)
キャプテン・ハーレイが窓を閉め忘れたか、と零れた苦笑。
いくら結果がそうでなくても、記憶が無いなら同じこと。
自分は窓を閉め忘れていて、これがシャングリラだったなら…。
(今頃は、とうに宇宙の藻屑で…)
なんてこった、と唸るしかない。
あの船でも、誰かが閉めただろうけれど。
自分が余所見をしていたのならば、ゼルやブラウや、他の誰かが。
(…しかし、それでは…)
後で確実に吊るし上げだな、と思うから。
「何をしとるんじゃ!」と怒鳴るゼルやら、呆れ顔のブラウが見えるようだから。
(…俺もすっかり平和ボケってな)
窓を閉め忘れる時代なんだ、と傾ける愛用のマグカップ。
今は平和な時代だよなと、窓を閉め忘れても誰も困りやしないんだから、と…。
閉め忘れた窓・了
※閉めるのを忘れてしまったかも、とハーレイ先生が閉めに行った窓。階段を上がって。
ウッカリやっても許されるのが今の時代で、閉め忘れても事故にはならない時代v