(やっちゃった…)
ぼくの大馬鹿、と小さなブルーがついた溜息。
ハーレイが訪ねて来なかった日の夜、自分の部屋で。
お風呂上がりにパジャマ姿で、広げた本を手にしたままで。
(…まだ最後まで読んでいないのに…)
こんな酷いことになっちゃうなんて、と眺めたページ。
半分に折れてしまったページ。
元に戻しても、ページにくっきり残った折り皺。
此処で折れたと、本を乱暴に扱うからだ、と言うように。
(…ママが、お風呂、って…)
「お風呂の時間よ」と呼びに来た母。
勉強机で本の世界に入り込んでいたら、扉を軽くノックして。
時計を見れば、そういう時間。
呼ばれたら直ぐに行くのが「いい子」で、おまけに読書中だったから。
(…もうちょっとだけ、って思ったら…)
アッと言う間に時間が流れて、「何をしてるの?」と母が覗きに来るだろう。
「今日はお風呂に入らないの?」と、「何処か具合が悪いの?」と。
お風呂は好きだし、病気の時でも入りたいくらい。
本を読むのも好きだけれども、お風呂の時間も捨て難い。
だから「エイッ!」と諦めた本。
キリのいい所まで読もうとはせずに、「今は此処まで」とページの途中で。
お風呂の後でゆっくり読もうと、湯冷めしない程度の時間まで、と。
そう思ったから、栞は無し。
「此処までしか読んでいないから」と、机の上に伏せた本。
読んでいたページを開いたままで。
手に取った時に、そのまま続きを読めるようにと。
熱いお風呂にのんびり浸かって、戻った二階の自分の部屋。
さっきの続き、と伏せておいた本を手にしたら…。
半分に折れていたページ。
普段はそのまま伏せはしないから、まるで注意していなかった。
「後で」とポンと置いて行っただけ、本には注意を払わなかった。
気を付けて置いてやらなかったら、こういうことになってしまうのに。
ページが曲がってしまっていたなら、其処から折れてしまうのに。
(…真っ二つ…)
丁度真ん中、そんな風についてしまった折り皺。
折れたページを元に戻しても、元通りにはなってくれない紙。
(…ちゃんと栞を挟むとか…)
でなければ閉じておけばよかった、どのページかを覚えておいて。
何ページ目、と隅に刷られた数字を。
(…目印だって、ちゃんとあったのに…)
折れたページの隣のページ。
其処に挿絵が載っているから。
何ページ目かを忘れていたって、挿絵で気付くだろうから。
「此処まで読んだ」と、「この絵だった」と。
それに、挿絵の隣のページ。
其処にくっきり残された皺は、もう悲しいとしか言いようがない。
挿絵のページが入るほどだし、本の山場の一つだから。
文字が紡ぎ出す物語の世界、それが盛り上がるシーンの一つ。
こういう具合に本の世界を眺めて欲しい、と素敵な挿絵が入るのに。
登場人物は今、此処にいるのだと、周りの景色はこんな世界、と。
本全体でも、それほど多くは無いだろう挿絵。
余計に悔しくなる失敗。
最高のページを台無しにしたと、ぼくが失敗しちゃったから、と。
本を伏せてお風呂に出掛けた時には、浮き立つ気分だったのに。
お風呂が済んだら続きを読もうと、とても楽しみだったのに。
部屋に戻って、手に取る時も。
続きは椅子に座って読もうか、それともベッドで読もうかと。
(…ホントにワクワクしてたのに…)
今夜は何処まで読めるだろう、と。
物語の世界はどうなってゆくか、主人公たちは何処へ行くのか。
どういう話が紡がれるのか、今夜の自分は何処までそれを見られるだろう、と。
けれど、開いたら戻れる筈だった世界と物語。
本を手にしたら直ぐに入れて、其処に流れる時間が始まる筈だったのに…。
(……折れちゃった……)
ページが駄目になっちゃった、と指で撫でても、消えてくれない折れた後の皺。
ガックリとベッドに腰を下ろして、穴が開くほど眺めても。
膝の上に置いた本のページをいくら見詰めても、折れたページは戻せない。
ピンと伸びた元のページには。
皺一つ無かったシャンとしたページ、それは戻って来てくれない。
何度も読んでいた本だったら、まだ幾らかはマシなのに。
同じように気が緩んでいたって、同じ失敗をやらかしたって。
「仕方ないよね」と諦めはつく。
「もう何回も読んだんだから」と、「何度も読んだら、本も傷んでくるものね」と。
酷い折り皺は出来ないとしても、表紙や、本の開き具合といったもの。
繰り返し読めば、それは自然と表れるから。
そういう本に皺が出来ても、悔しい気持ちは同じだけれど…。
(…まだ読んでいない本よりはマシ…)
傷一つ無いのを、何度も読んで来たのだから。
自然と表紙がくたびれるくらい、お気に入りのページが直ぐ開くくらい。
なのに、自分が失敗した本。
パジャマに包まれた膝の上の本、最後まで読めていない本。
手に入れたばかりで、今が最高に素敵な時間。
どんな世界が待っているのか、物語はどう進むのかと。
今夜の間に読み切れなければ、続きは明日に。
明日でも無理なら、明後日まででも、その先までも。
物語の世界の旅は続いて、本を楽しむ筈だったのに。
今だって続きに入り込もうと、胸を高鳴らせて手に取ったのに…。
(…このページ、まだ半分も…)
読めていないのに、くっきり折り皺。
よりにもよって、山場の一つで。
挿絵に描かれた場面がそっくりそのまま、綴られているだろうページの途中で。
(…こんなの、酷い…)
どうして栞を挟まなかったか、ページを覚えて閉じなかったか。
そうしておいたら、ページは折れなかったのに。
開いたら直ぐに、本の世界に飛び込めたのに。
(…いつもだったら、ちゃんと栞とか…)
栞の無い本だった時には、メモ用紙を挟み込むだとか。
ページの数字を覚えておくとか、そうやって本を閉じるのに。
開いたままで伏せて行きはしなくて、こんなことにはならないのに。
(大失敗…)
ホントに失敗、と悲しい気持ち。
話の続きを読み進めるには、とても向かない気分の自分。
本当だったら、今頃は本の世界の中にいたのに。
物語の登場人物と同じ世界を、時間を旅する筈だったのに。
(…ママが「お風呂よ」って呼びに来た時に…)
戻りたいよ、と眺めた時計。
時間が逆さに流れたら。時計の針が戻ってくれたなら。
(…この本、ちゃんと閉じるのに…)
机の上に伏せておかずに、栞を挟んでパタンと閉じる。
物語の世界も閉じるけれども、また開いたらいいだけのこと。
栞を挟んだページを開いて、「此処からだっけ」と見付ける続き。
途切れる流れはほんの少しだけ、じきに物語の世界に戻れる。
栞を挟んだことを忘れて、一度は閉じたことも忘れて。
(戻りたいな…)
一時間ほどでいいんだから、と思った時間。
母が「お風呂よ」と呼びに来るまで、自分が本を伏せる前まで。
そしたら、大切に閉じてゆく本。
折り皺なんかはつかないように。
まだ読めていないページの真ん中、くっきりと皺がつかないように。
(…ホントに、ちょっぴり…)
こうなる前まで戻りたいよ、と思い浮かべたタイムマシン。
夢物語の機械だけれども、それがあったら戻れるのに、と。
ちょっと戻って慎重にやれば、こんな折り皺は出来ないのに、と。
(…戻りたいよね…)
タイムマシンで、と溜息をついて見下ろすページ。
この皺が消えてくれたなら、と。
まだ最後まで読めていないのに、なんてことをしちゃったんだろう、と。
そうは思っても、タイムマシンは今も無い。
前の自分が生きた頃から、途方もない時間が流れ去ったのに。
(…あれって、作れないのかな?)
いつまで経っても夢の機械のままなのかな、と思った途端に掠めた記憶。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が考えたこと。
「戻りたいよ」と、溜息をついて。
天体の間の階段に腰を下ろして。
(……眠ったままでも……)
眠り続けて目覚めないままでも、それで良かった、とチラリと思った。
十五年もの長い眠りから目覚めた後に。
間近に迫ったハーレイとの別れ、命の終わりを悟った時に。
自分の役目は分かっていたから、行くよりも他に無いけれど。
死へと向かうしかないのだけれども、戻れるものなら戻りたいよ、と。
こうして自分が目覚める前に。
永遠にそれを繰り返すとしても、ハーレイと離れずにいられるのなら、と。
いつまでも此処にいられるのなら、と。
(…ホントにチラッと考えただけ…)
駄目だと自分で打ち消したけれど、あの時、一瞬、魅せられた夢。
目覚める前に戻れたならばと、この道を行かずに済むのならと。
(あれに比べたら…)
本のページについた折り皺、それは本当に些細なこと。
時間を戻ってやり直すなんて、ただの小さな子供の我儘。
ページに折り皺がついてしまっても、物語の時間は終わらないから。
前の自分の時間と違って、ちゃんと続いてゆくのだから。
(…我儘、言っちゃ駄目だよね…)
きっとハーレイにも叱られちゃうよ、と指先でそっと撫でた折り皺。
前の自分が失くしてしまった、命の続き。
それを幸せに生きているから、こんな失敗だってする。
だから我慢、と我儘は言わないことにした。
今の自分は幸せだから。
時間を戻して生きていたいと願わなくても、戻りたかった時間の続きを生きているから…。
戻りたい時間・了
※ブルー君がやった、大失敗。読み始めたばかりの本のページに折り皺、いい場面なのに。
ショックみたいですけど、前の自分を思い出したら…。タイムマシンは要りませんよねv