(うーむ…)
やっちまった、とハーレイが零した大きな溜息。
俺としたことが、と眺めたテーブル。
ブルーの家には寄れなかった日、夕食の後のダイニングで。
(ちょいとお洒落に、と思ったのにな…)
なんだってこうなるんだか、とゴシゴシと拭いたテーブルの上。
見事に零れてしまったコーヒー、コーヒーの色に染まった新聞。
読みかけの記事はコーヒーの色で、他の部分もコーヒー色。
すっかり零してしまったから。
デミタスカップに淹れたコーヒー、今は空っぽのデミタスカップ。
ソーサ―の上に零れて溢れて、テーブルの上まで流れたのだから。
(…いつものカップにすれば良かった…)
愛用の大きなマグカップ。
それにたっぷり熱いコーヒー、夜のひと時のお決まりのコース。
書斎で飲むか、ダイニングにするか、リビングに行くかの違いくらいで。
(…たまには、と思ったのが間違いの元で…)
どうしたわけだか、少しお洒落に飲みたくなった食後のコーヒー。
ちょっと気取った店で食べたら、食事の後でテーブルに置かれるデミタスカップ。
そんな気分で、と考えた。
夕食は普通の献立だけれど、今日はお洒落に締め括ろうと。
いそいそとカップを用意して。
来客の時に使う質のいいもの、それにしようと。
選んだカップに注いだコーヒー、其処までは良かったのだけど。
テーブルでゆったり飲み始めた時も、気分は最高だったのだけれど…。
ついつい狂ってしまった手元。
広げた新聞を読んでいる内に、忘れてしまったカップのサイズ。
いつもの調子で手を伸ばしたら、大きなマグカップは其処には無くて。
コンと当たってしまった手。
マグカップよりもずっと小さい、デミタスカップの縁にコツンと。
(当たった場所も悪かったんだ…)
自分の大きな身体に見合った、大きな手。
それにゴツンとぶつかられたなら、バランスを崩す小さなカップ。
中のコーヒーごとコトンと倒れて、アッと思った時には、もう手遅れ。
半分ほどか、三分の一か、覚えてはいないカップの中身。
全部すっかり零れてしまって、新聞の上にまで流れたコーヒー。
(…幸か不幸か、新聞だったし…)
新聞は水気をよく吸い取るから、テーブルだけで止まった被害。
床まで汚れなかったことなら、とても有難い気分だけれど。
床掃除の手間は省けたけれども、コーヒーの色に染まった新聞。
それがなんとも悔しい感じ。
(この記事も、これも…)
カラーってトコがミソだったのに、と嘆いた所で始まらない。
一度染まったコーヒーの色は、拭いても残るものだから。
鮮やかだった元の印刷、その上にコーヒー色の層。
台無しになったカラー写真や、イラストなどや。
(…何もかも、俺が悪いんだがな…)
やっちまったのは俺なんだし、と仕方なく畳んで閉じた新聞。
とりあえず、全部読んでから。
「綺麗な紙面で読みたかった」と、溜息を幾つも零してから。
失敗だったデミタスカップ。
洒落た気分で、と思わなかったら、きっと起こりはしなかった悲劇。
いつものカップにしていたら。
そうでなくても、自分が忘れなかったなら。
(…デミタスカップに淹れたってことを…)
忘れて新聞を読み耽るのなら、普段のカップで充分だった。
コーヒーの香りを楽しみながら、ゆったり飲むのがデミタスカップ。
よそ見しながら飲むのではなくて、時間と空間を味わうもの。
一人で店に入ったにしても、ゆっくりと。
雰囲気と其処に流れる時間を、食事の余韻をカップに溶かし入れながら。
(…今夜の俺は、そいつには向いていなかったわけで…)
なのに何処かで間違えた。
少しお洒落に飲んでみようと、たまには気取ってデミタスカップ、と。
そうして選んだ結果がコレ。
どれほどカップに残っていたのか、それすら思い出せないコーヒー。
淹れた値打ちが無かったコーヒー、ただ漫然と飲んでいただけ。
おまけに最後まで飲み干す代わりに、テーブルの上に零した始末。
読んでいた新聞は駄目になったし、テーブルはゴシゴシ拭いてやらねばならなかったし…。
(…まったく、とんだ結末だよな)
やっちまった俺が馬鹿だった、と溜息をついて立ち上がる。
「気分直しにコーヒーでも」と。
飲んだ気分もしないほどだし、淹れ直した方がきっと楽しい。
贅沢に最初から淹れるコーヒー、一晩に二度も。
今度はいつものマグカップに。
淹れ直してから向かった書斎。
「最初からこっちにすれば良かった」と。
新聞を読みながら半分ほど飲んで、それから移動するだとか。
あるいは新聞を読み終えた後に、ゆっくりと淹れて書斎に来るとか。
(…ちょいと時間を戻せたらなあ…)
椅子に座ったら、ふと思ったこと。
ほんの少しだけ時計の針を戻せたら、と。
食事を終えて、片付けのために立った頃まで。
(そしたら、今度はきちんとだな…)
デミタスカップに淹れたコーヒー、それを飲み終えてから広げる新聞。
コーヒー色になっていないのを。
写真もイラストも鮮やかなものを、のんびり、ゆっくり。
(そうするのもいいし、デミタスカップにしないで、だ…)
最初から今のマグカップ。
これに淹れたら、きっと零れはしない筈。
あのタイミングで手を伸ばしたら、慣れたカップに届くから。
「これだ」とロクに眺めもしないで、ちゃんと手に取れる筈だから。
そう出来たらな、と目を遣った時計。
「こいつの針を戻せたらな」と、「この時間まででいいんだが」と。
ほんのちょっぴり、時間旅行。
それが出来たら嬉しいのにと、ヒョイと戻れたらいいのにと。
コーヒーを零してしまう前まで。
失敗する前の時間まで。
(タイムマシンがあったらなあ…)
ちょっと戻ってやり直すんだが、と思い浮かべた夢の機械。
時を遡れる便利な機械は、今も出来てはいないから。
(…そういう意味では、進歩してないな…)
今の時代の技術ってヤツは、と流れた時の長さを思う。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分は生きていたから。
あれから途方もない時が流れて、地球までが青くなったのに。
何もかもすっかり変わっているのに、タイムマシンはまだ無いんだな、と。
(いつになったら作れるのやら…)
それとも不可能なんだろうか、と考えた途端に掠めた記憶。
前の自分の深い悲しみ、前のブルーを失くした後の。
(…戻せたなら、と思ってたんだ…)
時計の針を、時の流れを。
ほんの少しと、此処まででいい、と。
「ほんの少し」と思った時間は、いつの間にか増えていたけれど。
数時間だったのが一日に増えて、数日になって、一ヶ月を越えて、何処までも。
前の自分の命が尽きてしまうまで。
地球の地の底、終わりの時がやって来るまで。
(…俺は、あいつを…)
前のブルーを取り戻したかった、時計の針を、時を戻して。
その方法があると言うなら、タイムマシンがありさえすれば、と。
もしも時間を遡れたなら、きっと失敗しないから。
「ジョミーを支えてやってくれ」と、ブルーに言わせはしないから。
(…何が何でも、ナスカを撤収…)
あそこに残ると言った者たち、彼らを端から殴ってでも。
シェルターに麻酔ガスを注ぎ込んででも、一人残さず連れ帰る。
そうしていたなら、直ぐにナスカを捨てられるから。
メギドの炎がやって来る前に、シャングリラは宇宙に旅立てるから。
何度も思った、「時を戻す」こと。
前のブルーを失くさないよう、あの時間まで。
其処に戻れたらと、戻したいと。
タイムマシンがあったならばと、どうしてそれは無いのだろうかと。
(…そうだったっけな…)
もっと切実だったんだ、と気付いた「戻りたかった時」。
やり直せたらと、戻したいんだと、前の自分が悔やんだ時間。
最初の間は「ほんの少し」と。
時が経つにつれて「戻したい時間」は、過ぎた分だけ増えたのだった。
ほんの少しから、一日に。
一日から、いつしか数ヶ月にも、もっと増えて終わりを迎えるまで。
(…コーヒーをちょっと零したくらいで…)
戻したいなんて言っちゃいかんな、と自分を叱る。
「お前は幸せなんだろうが」と、「ブルーは帰って来たろうが」と。
「コーヒーを零しちまってな…」と失敗談を話してやったら、笑い転げそうな小さなブルー。
今は笑いの種でしかない、自分が戻したかった時。
だから自然と浮かんだ笑み。
時間の流れを戻さなくても、幸せってヤツは来るもんだ、と。
コーヒーを零したくらいが何だと、ブルーに言ったら、きっと笑ってくれるんだから、と…。
戻したい時間・了
※ハーレイ先生が零したコーヒー、痛恨のミスで時間を戻してやりたいほど。零さないように。
けれども、前の自分の気持ち。それに気付いたら、たかがコーヒー。今は充分幸せですv