(当たり前のことになっちゃったんだ…)
蝶が見られるの、とパチパチと瞬きしたブルー。
ハーレイと過ごした休日の後に、お風呂上がりにパジャマ姿で。
今の自分の小さなお城。
両親と一緒に暮らす家の中、自分だけが使う子供部屋。
其処のベッドにチョコンと座って、思い浮かべた昼間の光景。
庭で一番大きな木の下、お気に入りの白いテーブルと椅子。
ハーレイと二人で腰掛けていたら、生垣をひらりと越えて来た蝶。
ごくごく普通の黄色い蝶で、特に珍しい種類でもなくて。
「蝶が来たな」と思う程度の、庭ならよくあることだったけれど。
ハーレイに言われて気が付いた。
蝶がいるのは、今だからこそ。
前の自分が暮らした船には、蝶の姿は無かったのだ、と。
(シャングリラでは、役に立たなかったから…)
自給自足で生きてゆく船、箱舟だった白いシャングリラ。
必要なものしか育てられない、乗せてはおけなかった船。
(青い鳥だって飼えなかったし…)
前の自分が欲しいと願った、幸せを運ぶ青い鳥。
役に立たないから許可は出なくて、船にいた鳥は鶏だけ。
それと同じに、蝶だって飼えはしなかった。
蜜と花粉を運ぶミツバチ、働き者の優秀な虫。
ミツバチがいれば充分な船で、蝶はミツバチのようにはいかない。
蜜を集めてくれはしなくて、蜂蜜が採れはしないから。
その上、蜜を吸う蝶になるよりも前は、植物の葉を食べるから。
(野菜の葉っぱも、公園の葉っぱも…)
食べてしまって、その見返りは寄越さない。
迷惑なだけの生き物が蝶で、シャングリラに蝶はいなかった。
花が咲いたら蝶が来るのは、今では当たり前のこと。
春になったら舞い始める蝶、秋の終わりまで見られる姿。
家の庭でも、公園でも。
その辺りの道を歩いていたって、蝶はひらりと飛んで来る。
翅を広げて、様々な模様を煌めかせて。
(いろんな蝶がいるもんね?)
翅の模様も、その形も。
大きさだって実に色々、ほんの小さなシジミチョウから、アゲハチョウとかの大きい蝶まで。
今の自分には見慣れた光景、そういった蝶が飛んで来ること。
まるで気付きもしなかった。
前の自分が生きた船には、その光景は無かったのだと。
(…アルテメシアに降りた時には、見てたけど…)
それはソルジャーだった前の自分の特権。
他の仲間には船の中だけが世界の全てで、蝶を見られはしなかった。
白いシャングリラで花が咲いても、蜜を吸うのはミツバチだけ。
ひらひらと舞う蝶は来なくて、花に止まりはしなかった。
花には蝶が似合うのに。
ミツバチなどより、ずっと華やかで絵になる蝶。
けれども、船では蝶は飼えなかったから…。
(いつか地面に降りられたら、って…)
夢を見る者も多かった。
花が咲いたら蝶が来るから、それが見られる世界を、と。
青い地球まで辿り着いたら、広い野原に蝶が飛んでいることだろうと。
その日を夢見て、あの船で生きた仲間たち。
白いシャングリラで、蝶がいない船で。
前の自分は、地球まで辿り着けずに逝った。
シャングリラは地球に着いたけれども、何処にも無かった青い星。
死に絶えたままの星が母なる地球。
蝶は棲めない、どんな生命も生きてゆけない滅びた星が。
(…だけど、今の地球…)
奇跡のように青く蘇った、今の自分が生きている星。
ハーレイと二人で生まれ変わって、また巡り会えた青い地球の上。
其処では当たり前の蝶。
幼い頃から、花が咲いたら蝶が来ていた。
母が育てる庭の花壇に。
遠足やハイキングなどで出掛けた、山や野原にも舞っていた蝶。
(ホントに見慣れちゃってたから…)
今日まで、少しも気付かないまま。
前の自分の記憶を取り戻した後も、「地球に来たんだ」と何度思っても。
花には蝶が来るものだから。
すっかり見慣れた景色だったから。
(でも、シャングリラだと…)
花が咲いてもミツバチだけ、と味気ない船を思い出す。
ミュウの楽園だった箱舟、蝶を飼う余裕は持たなかった船。
青い小鳥も、花から花へと飛んでゆく蝶も、白いシャングリラには余計なもの。
邪魔になるだけ、役に立たない生き物たち。
それは要らない、と切り捨てられた。
楽園という名の船だったのに。
世界の全てでもあった船なのに、無かった余裕。
幸せに生きてゆける船でも、やはり限界はあったから。
皆の暮らしを守るためには、役立つものしか乗せてはゆけなかったから。
あの頃を思えば、今の世界はなんと幸せなのだろう。
当たり前に蝶がいる世界。
「船で飼おう」と育てなくても、蝶は自分の力で育つ。
何処かの木の葉や、野菜に卵を産み付けて。
卵が孵れば、せっせと食べてゆく葉っぱ。
ぐんぐん大きく育った後には、サナギになって眠り続けて…。
(出て来た時には、一人前の蝶…)
翅が乾くまで静かに過ごして、それから空へと飛び立ってゆく。
花の蜜やら、樹液を吸いに。
同じ仲間の蝶を見付けて群れになったり、時には海を越えて行ったり。
そうする間に卵を産み付け、次の世代へと繋がれる命。
また卵から生まれる芋虫、いつか綺麗な蝶になる虫。
(…誰も手なんか貸さなくっても…)
蝶は生まれて、ひらひらと空を飛んでゆく。
花が咲いたら蜜を吸いに来るし、日向ぼっこをしていることも。
前の自分が生きた船では、蝶は見られなかったのに。
花には蝶が似合いそうでも、その蝶は飼えなかったのに。
(…妖精の羽も蝶なんだけどな…)
絵本や挿絵の花の妖精、背中には羽があるけれど。
蝶の翅を持った妖精も多くて、蝶はそのくらい愛された虫。
遠く遥かな昔から。
地球が滅びるよりも前から、蝶は身近な生き物だった。
花には蝶が飛んで来るから、花の妖精にも蝶の翅。
それが一番、似合うから。
花には蝶が似合うのと同じで、花の妖精にも蝶の翅が似合いだったから。
けれど、シャングリラでは飼えなかった蝶。
役に立たない虫を飼うより、ミツバチで充分だった船。
仕方なかったとは、今でも分かる。
青い鳥も蝶も、シャングリラでは飼っていられない。
それよりも前に育てるべきもの、必要なものが幾つも幾つもあったのだから。
(仕方ないよね…)
シャングリラに蝶がいなかったことは。
やっとの思いで辿り着いた地球に、蝶の飛ぶ野原が無かったことは。
そういう時代だったから。
青い地球など無かったのだし、ミュウは生きるのが精一杯。
あれから長い時が流れて、今の自分は地球に生まれた。
当たり前のように蝶を見ていた、それがいなかった船を忘れて。
白いシャングリラで暮らした記憶を取り戻したって、「蝶がいるんだ」と思いもせずに。
(これって、贅沢すぎるかも…)
今の自分が手に入れた世界。
生まれた時から見ていた世界。
此処では蝶が当たり前に飛んで、その地球の上にハーレイと二人。
また巡り会って、恋をしていて、いつかはハーレイと一緒に暮らす。
同じ家に住んで、庭に来る蝶を見るのだろう。
今日の蝶みたいに、庭にふわりと舞い込んだ蝶を。
「蝶が来たよ」と指差したって、きっと自分は忘れている。
蝶がいなかった世界のことを。
前の自分とハーレイが暮らした、白いシャングリラで描いた夢を。
いつかは地球で蝶を見ようと、花には蝶が来るものだから、と。
今では蝶は当たり前すぎて、今日まで気付かなかったから。
思い出しさえしなかったのだし、きっと忘れてしまうのだろう。
蝶がいる世界は素晴らしいのだということを。
地球の恵みで、今だからこそ蝶たちが舞っていることを。
(ハーレイが言ってた、イノシカチョウも…)
忘れちゃうよね、と残念な気持ち。
今日、ハーレイから教わった言葉が「イノシカチョウ」。
花札というゲームで遊ぶ時のことで、それで揃える三枚の札。
イノシシが描かれた札を一枚、それから鹿が描かれた札も。
蝶を描いた札も合わせて揃えば、「イノシカチョウ」の出来上がり。
「今の地球なら揃えられるな」と、ハーレイが笑ったイノシカチョウ。
イノシシも鹿も、山に行ったらいるのだから。
もちろん蝶も飛んでいるから、運が良ければ揃うのだろう。
本物のイノシシと鹿と蝶とで、イノシカチョウが。
(ぼくの家だと、大変なことになっちゃうけれど…)
芝生を掘り起こすらしいイノシシ、木の葉を食べてしまう鹿。
母の自慢の庭はメチャクチャ、父が手入れをしている芝生も。
(…でも、ちょっとだけ…)
見たい気もする、と欲張ってしまうイノシカチョウ。
蝶は当たり前になっているから、地球ならではのイノシカチョウ。
それを見たいと、ハーレイと一緒なら見られそうだと。
(ハーレイ、タイプ・グリーンだもの…)
もしもイノシシが突っ込んで来ても、守って貰えそうだから。
鹿に体当たりをされたとしたって、シールドで守ってくれそうだから。
(…忘れなかったら、見たいんだけどな…)
いつかハーレイと山に出掛けて、と夢を見る。
蝶は今では当たり前だから、イノシカチョウの本物を、と。
イノシシと鹿と蝶の本物がいいと、今の地球なら見られるものね、と…。
蝶が来る今・了
※蝶がいるのは当たり前だ、と思い込んでいたブルー君。忘れ去っていた前の自分のこと。
今の素晴らしさに気付いたついでに、夢見ているのがイノシカチョウ。見たいんでしょうねv