(今では当たり前なんだがなあ…)
気付かなかったな、とハーレイが唇に浮かべた笑み。
ブルーの家へと出掛けて来た日に、夜の書斎で。
愛用のマグカップに淹れたコーヒー、それも今では当たり前のもの。
コーヒー豆で出来ているのが当然と思っているけれど。
それがコーヒーだと思うけれども…。
(こいつも、昔は違ったんだ…)
前の自分が飲んだコーヒー。
白いシャングリラが出来上がってからは、コーヒー豆はもう無かった。
代わりにキャロブで作ったコーヒー、合成ではなくて代用品。
今ではヘルシー食品のキャロブ、イナゴ豆の実から出来たコーヒー。
(コーヒーの方は気付いたんだが…)
あっちは思いもしなかった、と思い返した今日の光景。
ブルーの家の庭で見た蝶、ひらりと其処に舞い込んで来た。
特に珍しい景色でもなくて、花があったら蝶が来るのは当たり前。
それに、見慣れた黄色い蝶。
今の季節にはよく飛んでいるし、渡りをするような蝶でもない。
海を飛び越えて長い旅をする、アサギマダラならば目を引くけれど。
大きな翅と鮮やかな模様、それに見入ってしまうけれども、何処にでもいる黄色い蝶。
飛んでいるな、と思う程度で、庭の景色の一部分。
道をゆく時に横切られたって、「蝶か」と眺めてそれでおしまい。
わざわざ視線で追いはしないし、飛んで行った先を見詰めもしない。
生垣を越えて庭に入ったなら、「行っちまったな」と思うだけ。
覗き込んでまで見はしない。
ただの黄色い蝶なのだから。
とても珍しい蝶に出会ったと、喜ぶものでもないのだから。
花の季節は蝶がいるのが当たり前。
冬越しをする蝶もいるから、秋の終わりまで飛んでいるもの。
冬の足音が聞こえて来たって、季節外れの暖かな日なら、蝶が舞う。
日差しが明るい場所を選んで、ひらひらと。
咲き残っている花を探して、あるいは日向ぼっこをして。
春が来る時もそれは同じで、まだ雪が積もるような頃。
「今日は冷えるな」と目を覚ましたら、辺り一面が白いような日も…。
(雪が一気に融けちまったら、蝶が飛ぶんだ)
高く昇った太陽が地面を温めたなら。
空気もすっかり暖かくなって、早咲きの花が香り始めたら。
誘われるように舞い始める蝶、温まった翅でふうわりと。
何処かに甘い蜜は無いかと、そろそろ春が来たようだから、と。
(すっかり春になったらだな…)
サナギが孵って、生まれたての蝶が空に飛び立つ。
真新しい翅で、ひらひらと。
花から花へと飛び移りながら、仲間同士で戯れながら。
(そいつがどんどん増えていって、だ…)
夏ともなれば、色とりどりの蝶たちが舞う。
町の中でも、山や林でも。
大きな蝶から目立たないほどの小さな蝶まで、それは沢山。
自然があったら蝶に出会えるし、町の中でも幾らでも。
蝶が喜ぶ花があるなら、吸いたがる蜜があるのなら。
(森に棲むような蝶だって…)
広い公園なら、いたりするもの。
樹液に集まる蝶の類で、それがひらりと飛んでゆく。
今の季節も、蝶は舞うもの。
暑い夏が過ぎて、穏やかな秋。
蝶はいくらでも飛んでいるから、今日だって何の気なしに眺めた。
「蝶が来たな」と。
けれども、不意に掠めた記憶。
前の自分は知らなかったと、こんな景色を見てはいない、と。
(シャングリラに蝶はいなかったんだ…)
コーヒー豆が無かったように、あの船に蝶はいなかった。
ミュウの楽園だった船には、それは必要なかったから。
自給自足で生きてゆく船、白いシャングリラに蝶は要らない。
何の役にも立たないから。
花から花へと蜜を集めに飛び回る虫は、ミツバチがいれば充分だから。
(ミツバチだったら、蜜だけなんだが…)
必要な食べ物は花の蜜だけ、後は巣箱があればいい。
ミツバチが集めた蜜は食べられるし、働き者で役に立つ虫。
けれども、蝶はそうはいかない。
蜜を吸ったら、自分が食べてしまうだけ。
巣箱に運んでゆきはしないし、花粉を運ぶだけの虫。
翅や身体についた花粉を、次の花へと持ってゆくだけ。
(ミツバチとはまるで違うんだ…)
蜜を集めてくれはしなくて、自分の餌にするだけの虫。
おまけに、花から花へと飛んでゆく蝶が出来上がる前は…。
(俺たちも食べる野菜の葉っぱを…)
食っちまうんだ、と顔を顰めた。
芋虫の間は、蝶は葉っぱを食べるから。
野菜を食べない種類の蝶でも、木の葉を食べてしまうから。
役に立たないどころではなくて、迷惑でしかないのが蝶。
翅を手に入れて舞い始めたなら、人の心を和ませるけれど。
とても綺麗だと喜ぶ仲間もいただろうけれど…。
(芋虫の間は、歓迎されんぞ)
野菜を育てる仲間たちには嫌われるだろうし、女性たちも好みそうにない。
歓迎する者がいたとしたなら、ヒルマンくらい。
(子供たちの教材に丁度いい、とな)
芋虫を捕まえてケースで飼育。
「これが育ったら蝶になるから」と、子供たちに書かせる観察日記。
餌の葉っぱも採って来させて、立派な蝶になる日まで。
サナギの間も、きっと見守ることだろう。
「今、動いたのを見ていたかね?」と。
「サナギの間も動くのだよ」と、「よく注意して見ていなさい」と。
白いシャングリラで蝶が役立つなら、子供たちの教材が精一杯。
それ以外では全く役に立たない、大飯食らいの嫌われ者。
野菜の葉っぱを食べてしまうと、公園の木の葉が食べられたと。
あの芋虫を駆除して欲しいと、苦情が来たっておかしくはない。
シャングリラで蝶が増えたなら。
あちこちに卵を産んでいったら、葉っぱがどんどん食べられたなら。
(ミツバチだったら、いくら増えても…)
誰も困りはしないのに。
働き者の虫が増えれば、蜂蜜だって増えるから。
巣箱を開ければ金色の蜜で、それを好きなだけ食べられる。
だから、ミツバチだけが飼われた。
白いシャングリラの役に立つから、働き者の虫だったから。
蝶がいなかったシャングリラ。
公園にどんな花が咲こうが、蝶が舞ってはいなかった。
今では当たり前なのに。
花が咲いたら蝶が来るのに、前の自分は見なかった景色。
白いシャングリラに蝶はいなくて、ブルーと見てはいなかった。
(すっかり忘れちまってた…)
今の自分に慣れてしまって、なんとも思っていなかった景色。
普通だとばかり思っていた蝶、それは自然の恵みだったのに。
青く蘇った地球だからこそ、自分は蝶に出会えるのに。
(…前の俺だって、見てはいたんだ…)
小さなブルーに訊かれたこと。
「前のハーレイは蝶を見たの?」と。
シャングリラに蝶はいなかったけれど、ナスカでは蝶を見たのかと。
「いや」と返した自分だけれども、その他の星。
前のブルーがいなくなった後、地球を目指す途中で降りた星々。
アルテメシアやノアでは見たと答えた。飛んでいるのを見てはいたな、と。
(…確かに蝶には出会ったんだが…)
蝶がいるな、と思っただけ。
此処にはそういう虫がいるのかと、シャングリラとは違うのだな、と。
蝶を美しいと思う心は、とうに持ってはいなかったから。
前のブルーを失くしてしまって、死んでしまっていた魂。
ただ生きていたというだけのことで、蝶がいようが、どうでもいいこと。
もしもブルーが生きていたなら、二人で蝶を眺めたろうに。
「蝶がいますよ」と指差してみせて、「本当だね」とブルーが笑んで。
これが当たり前になったらいいと、二人でミュウの未来を夢見て。
けれど、ブルーはいなかった。
前の自分が蝶を見た時、愛おしい人はもう、何処を探しても…。
(…いなかったんだ…)
蝶と同じで、と胸を過ってゆく痛み。
まるであの日に戻ったかのように。
前のブルーを失くしてしまって、抜け殻になって生きていた日々に。
(…だが、俺は…)
俺はあいつを取り戻したんだ、と今の自分に言い聞かせる。
ブルーと二人で蝶を見たろうと、楽しい話もして来ただろう、と。
(…そうだ、あいつとお茶を飲んでて…)
小さなブルーと蝶を眺めて、思い出話をして来たから。
蝶がいるのが当たり前の世界、其処に二人で生まれ変わったから…。
(いくらでも蝶を見られるってな)
いつかは同じ家で暮らして、庭に来る蝶も、出掛けた先で眺める蝶も。
(前の分まで、たっぷり見ないと…)
蝶がいなかった船で生きていた分、と思うけれども、きっと明日には…。
(忘れちまうんだな)
その有難さを、蝶がいる世界が素晴らしいことを。
今ではそれが当たり前だから。
暖かい季節は、いくらでも蝶を見られるのだから…。
蝶がいる今・了
※今は当たり前に飛んでいる蝶。けれど、シャングリラに蝶はいなかったのです。
ブルー君と二人で蝶を眺めていた庭。幸せな時代になりましたよねv