(今日は、ちょっぴり話せただけ…)
挨拶のついでにほんの少し、と小さなブルーがついた溜息。
お風呂上がりにパジャマ姿で、ベッドの端にチョコンと座って。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
今は古典の教師のハーレイ、チビの自分は教え子の一人。
今日もハーレイには会えたけれども、学校の廊下だったから。
「ハーレイ先生!」と呼び掛けて挨拶、それと僅かな立ち話だけ。
ハーレイは「じゃあな」と行ってしまったから。
授業の準備をするために。
軽く手を振って、「また後でな」と。
だから、本当に期待していた「また後で」。
きっと帰りに寄ってくれると、家に来てくれるに違いないと。
(多分、そのつもりだったんだろうけど…)
急な用事が出来てしまったのか、会議が長引きでもしたか。
首を長くして待っていたのに、鳴らなかったチャイム。
ハーレイは訪ねて来てはくれなくて、夕食のテーブルにポツンと空席。
誰も座っていない椅子が一つ、何の料理も並ばない場所。
もしもハーレイが来てくれていたら、其処に座っていたろうに。
母が料理や取り皿を並べて、「おかわりは如何ですか?」と笑顔で訊いていたろうに。
けれども、そうはならなかった日、夕食の席には父と母だけ。
なまじ期待をしていた分だけ、ぽっかりと穴が開いたよう。
ハーレイがいない夕食の席は、なんて寂しいのだろうと。
いつものテーブルが大きく見えると、空いている場所も広すぎるよ、と。
そうは思っても、両親に言えはしないから。
「ハーレイがいないと寂しいよ」などと言おうものなら、恋がバレるかもしれないから。
平気なふりをして食べた夕食、無理やり奮い起こした元気。
普段よりずっと、はしゃいで笑ったかもしれない。
父が通勤の途中で見掛けた、愉快な光景。
猫にリードをつけての散歩で、おまけに犬まで一緒だったらしい。
「縺れちまって大変だったぞ」と身振り手振りで話すものだから、コロコロ笑った。
仲良しの猫と犬とが遊んで、じゃれ合う様を思い描いて。
リードが絡んで縺れてしまって、猫と犬とを抱えて困っていた飼い主。
どちらの方から解けばいいかと、首輪を手にして。
それを見守る車の人やら、通行人やら。
誰もが笑顔で、迷惑そうな顔などはせずに。
「手伝いましょうか?」と名乗り出る人も、何人も。
「パパは手伝わなかったの?」と尋ねてみたら、「車だしな?」と両手を広げた父。
ただでも縺れた猫と犬とで、一つ塞がりかけていた車線。
この上、車が駐車したなら、更に迷惑になるだろうが、と。
そんなわけだから、父は最後まで見ていないらしい。
縺れてしまった猫と犬とは、誰が解いてやったのか。
解けた後には元通りに仲良く散歩だったか、またまた縺れてしまったのかも。
母も「あらまあ…」と可笑しそうだった、父が話した猫と犬の散歩。
「ぼくも見たかった!」と瞳を煌めかせたけれど。
嘘をついてはいなかったけれど、きっとはしゃぎたかったのだろう。
ポツンと空いたハーレイの席。
それがあるのが寂しかったから、楽しい気分になりたくて。
両親と一緒でこんなに幸せ、と今の幸せに酔いたくて。
楽しくはあった、夕食の席。
父の話は傑作だったし、実際、見たいとも思う。
縺れてしまった仲良しの猫と犬との散歩。
(どうせ見るなら…)
ハーレイと一緒に見てみたいよね、と頭に浮かぶ恋人の顔。
今日は来てくれなかった恋人、今頃はきっと…。
(コーヒーか、お酒…)
それを味わう時間を過ごしているだろう。
書斎か、あるいはダイニングなのか。今日のハーレイの気分次第で。
(どっちなのかな?)
コーヒーなのか、それともお酒にしたか。
書斎でゆっくり飲むことにしたか、ダイニングで何かつまみながらか。
(どれなんだろう?)
正解はどれ、と首を傾げてみるけれど。
ハーレイの家は何ブロックも離れた向こうで、窓から覗いても屋根さえ見えない。
思念波だって不器用な自分は紡げないのだし、紡げたとしても…。
(お行儀、悪すぎ…)
今の時代は、用があるなら思念波ではなくて通信で。
そういうルールの時代なのだし、前の自分のようにはいかない。
ハーレイに向かって思念を飛ばして、「どうしてるの?」という質問は無理。
お酒かコーヒー、どちらにしたのか、それの答えは返って来ない。
書斎に行ったか、ダイニングにいるか、それだって。
前の自分ならば直ぐに訊けたし、答えも返って来たのだろうに。
どれを選んだか、何処にいるのか、一瞬の内に。
遠すぎるんだよ、と零れる溜息。
ハーレイの家が隣だったら、窓を開ければ済む話。
其処から覗いて、ハーレイのいる部屋は何処かと探してみる。
運が良ければ、選んだ飲み物も分かるだろう。
「コーヒーを淹れているみたい」だとか、「お酒のボトルを出してるよ」だとか。
けれど、隣人ではないハーレイ。
窓を開けても別の隣人、ハーレイのことは分からない。
コーヒーなのか、お酒なのかも、書斎とダイニング、どちらに座っているのかも。
(ダイニングでお酒…)
書斎でコーヒー、と思ったけれども、その組み合わせとは限らない。
ダイニングでコーヒーを飲んでいるとか、書斎でお酒ということだって。
(どれなの、ハーレイ?)
分からないよ、と呼び掛けてみても、返らない答え。
何ブロックも離れているから、正解はどれか分かりはしない。
父が見掛けた猫と犬の散歩、それの結末が分からないように。
縺れてしまった猫と犬とは、仲良く散歩を続けたのか。
またまた縺れてしまったのかも、誰が解いてやったのかも。
(ハーレイだって謎だらけ…)
縺れちゃった、と恋人の今の姿を想う。
手にしているのはコーヒーなのか、酒を満たしたグラスの方か。
座っている場所はダイニングなのか、あるいは書斎でのんびりなのか。
(…組み合わせの数は…)
これだけなんだ、と分かっていたって、出ない正解。
縺れた猫と犬との散歩の続きが分からないように、見ていないものは分からない。
前の自分なら、直ぐに答えを手に出来たのに。
ハーレイとの距離が離れていたって、本当に一瞬だったのに。
シャングリラは巨大な船だったけれど、ハーレイとはいつも繋がっていた。
意識しなくても、思念の糸で。
心の何処かで、どんな時でも。
(ホントにいつでも一緒だったよ…)
だから安心していられたのに、と嘆いてしまう今の自分の境遇。
ハーレイが何処にいるかも掴めない上に、やっていることも分からない。
選んだのが酒かコーヒーなのかも、書斎にいるのか、ダイニングかも。
(リビングだっていうこともあるし…)
普段は書斎かダイニングだとは聞いているけれど、他の選択肢もある筈で。
飲み物にしたって其処は同じで、たまにはジュースや紅茶なのかもしれないし…。
(ハーレイのことも分からないなんて…)
今日は来てくれると思っていたのに、外れた期待。
その分、余計に知りたいハーレイ。
今は何処なのか、何をしているのか、今の自分には掴めないこと。
それが知りたい、ハーレイのことを。恋人の今を。
(前のぼくなら、離れていたって…)
ホントにいつでも分かったのに、と時の彼方を思ったけれど。
白いシャングリラを懐かしんだけれど、途端に気付いた今の幸せ。
前の自分が最後に眺めた、あの船を思い出したから。
これが最後だと、どうか無事でと、祈る気持ちで飛び去った。
忌まわしいメギドを沈めるために。
大勢の仲間を、ハーレイを乗せた白い鯨を守り抜くために。
(あの時の、ぼく…)
もうハーレイとは繋がっていなかったのだった。
右手に持っていたハーレイの温もり、それだけで全部。
思念ではもう話せなかったし、話すつもりもなかった自分。
遠く離れてゆくだけだから。…どうせ最後には、届かなくなるのだろうから。
だから知らない、前のハーレイを船に残して出た後のこと。
今の自分はハーレイから話を聞けるけれども、前の自分は知らないまま。
そしてメギドで死んでしまった、ハーレイの温もりさえも失くして。
独りぼっちだと泣きじゃくりながら、死よりも恐ろしい絶望の中で。
(今だって、分からないけれど…)
ハーレイがどうしているのか謎だけれども、答えは必ず分かる筈。
次に会った時、「この前の日はどうしてたの?」と尋ねたら。
父も知らない猫と犬との散歩にしたって、知りようはある。
「知りませんか?」と新聞に投書したなら、きっと誰かが答えをくれるし…。
(その前に誰かが投稿するとか…)
傑作な出来事だったのだから、可能性だって大きいだろう。
明後日あたりに「パパ、載ってるよ!」と新聞を広げているかもしれない。
そういったことが出来るのも…。
(ハーレイと地球に来たからなんだよ…)
二人揃って、生まれ変わって。
新しい身体と命を貰って、前の続きを生きているから。
前と違って離れていたって、ハーレイのことなら必ず分かる。
「教えてよ」と尋ねさえすれば。
それが出来るのも、生きているから。…平和になった今の時代に。
(ぼくって、幸せ…)
なんて幸せなんだろう、と噛み締めた今を生きる幸せ。
それにいつかは、ハーレイと一緒に暮らすのだから。
(前と違って、ホントに一緒…)
同じ家で暮らして、いくらでも出来る幾つもの話。手を繋いでデートにも行ける。
今は離れているけれど。何ブロックも離れた所で、別々の家にいるのだけれど。
離れていたって、前よりもずっと幸せな自分。
分からないことの答えは必ず聞けるから。離れて暮らすのも、自分が小さい内だけだから…。
離れていたって・了
※ハーレイの今の様子が分からない、と嘆いたブルー君ですけれど…。
後で尋ねれば分かるのです。「どうしてたの?」と。それが出来るのが幸せな今v