(…とてつもなく出世しやがって…)
こんな筈ではなかったんだが、とハーレイが見詰める自分の日誌。
今のではなくて、前の自分の。
キャプテン・ハーレイだった頃に記した航宙日誌。
夜の書斎で、懐かしい文字を。
手で触れることは出来ないけれど。
本物は此処にあるわけがなくて、今の自分が手に取ることさえ…。
(出来なくなったと来たもんだ)
俺とは違って偉いんだから、と苦笑しながらコーヒーを一口。
愛用の大きなマグカップ。
それにたっぷり、熱いコーヒー。
今の自分はただの教師で、キャプテン・ハーレイに似ているというだけ。
「生まれ変わりか?」と尋ねられるほど、瓜二つというだけの一般人。
こうして飲んでいるコーヒーの銘柄、それさえ誰も気に留めない。
これがキャプテン・ハーレイだったら…。
(まず間違いなく質問攻めだな)
いつもコーヒーを飲んでいるのか、コーヒーと紅茶、どちらが好きか。
気に入りのコーヒーの銘柄は…、と色々と訊かれることだろう。
そして答えはアッと言う間に、宇宙に広がり…。
(誰かが余計な記事を書くんだ)
俺についてか、シャングリラだか…、と傾けるコーヒー。
今の俺なら本当に誰も気にしないんだが、と。
ただの古典の教師の自分。
たったそれだけ、古典の分野で名を上げたというわけでもない。
ついでに日本の古典が専門、SD体制の時代なんかは全く縁が無い世界。
(どう転がっても、こいつには会えん)
確かに俺が書いたんだが、と追ってゆく文字は本物そっくり。
けれどデータで、指で触れても画面に指がつくというだけ。
(超一級の歴史資料じゃなあ…)
自分が全く知らない所で、そういうことになっていた。
前の自分が地球の地の底で命尽きた後、一人歩きした航宇日誌。
まさか出世を遂げるなどとは、夢にも思いはしなかった。
これを記していた頃には。
(…後のヤツらの参考になれば、と書いてたんだが…)
毎日、律儀に。
その日に起こった出来事を書いて、残しておいた自分の記録。
シャングリラのことや、ソルジャーのことや。
(…俺の日記ではあったんだ、うん)
簡潔に書いておいたけれども、読んだら思い出せるようにと。
気まぐれにパラリと開いた箇所から、「こうだったな」と蘇る思い出。
そうなればいいと思っていた。
いつか懐かしくそれを読めたらと、のんびりページを繰れたならば、と。
青い地球に辿り着いたなら。
ブルーと二人で、長かった旅を思い返せる時が来たなら。
けれど、訪れなかったその日。
ブルーは地球まで辿り着けなくて、暗い宇宙に散ってしまった。
メギドを沈めて、たった一人で。
前の自分も一人残され、魂は死んで生ける屍。
地球へ行かねばと、辿り着ければ自分の役目も終わるのだからと、それだけの日々。
航宙日誌は綴り続けたけれども、もう読み返しはしなかった。
読んだ所で意味は無いから。
愛おしい人は何処にもいなくて、ただ辛くなるだけだから。
「これを書いた頃はブルーがいた」と。
こんな風に二人で語り合ったと、ブルーは幸せそうだったと。
(…俺と一緒にいた時のあいつは…)
泣いていたこともあったけれども、いつも最後は笑顔だったから。
「君がいてくれるから、もう大丈夫」と、前のブルーは微笑んだから。
恋人同士ではなかった頃から。
仲の良い友達だった頃から。
ブルーとの日々が、思い出が詰まった日誌。
それを読み返せる筈もなかった。
ブルーを失くしてしまった後には、ただの一度も。
(…シャングリラのことなら、他にデータが残っていたしな?)
わざわざ日誌を開かなくとも、データベースを調べればいい。
あの時にはどう対処したかと、どう判断を下したのかと。
(それが効率的ってもんだ)
船を進めるだけならば。
シャングリラを地球まで運ぶだけなら。
(…あの船で生きてゆこうと言うなら…)
日誌にも意味はあるのだけれど。
船で起こった日々の出来事、それが書かれていたのだから。
例えば船に来たばかりのジョミー、彼がキムたちと喧嘩したこと。
赤いナスカに着いた後なら、初めての収穫があったこととか。
そういったことは、生きてゆくのに欠かせないこと。
喧嘩で荒れた心の波やら、収穫の時の喜びやら。
生きているからこその感情、シャングリラで暮らした仲間たちの記録。
後の時代にそれを開いて、「今も昔も変わらないな」と誰かが思ってくれればいい。
「俺たちはもっと上手くやれるぜ」でも、「まるで進歩が無いんだが」でも。
それも生きている証だから。
キャプテン・ハーレイの時代に思いを馳せる仲間たちは、「今」を生きるのだから。
そう思ったから、綴り続けた航宙日誌。
前のブルーを失くした後も。
魂は死んでしまっていたのだけれども、日々の出来事を。
シャングリラのことも、戦いのことも、ただ淡々と。
仲間たちの記録もそれまで通りに、今日はこういうことがあった、と。
(…そいつが出世しちまうなんてなあ…)
消えちまったなら分かるんだが、と眺める自分が書いた文字。
遠く遥かな時の彼方で、それはレトロな羽根ペンで。
自分くらいしか使わなかった、非効率的な文具の羽根ペン。
インクが勝手に出ては来ないし、切れれば浸してやるしかない。
文字の続きを綴るためには。
(そういう面でも良かったのか、あれは?)
もしも手書きで残してはおらず、データの形だったなら。
何処かで散逸したかもしれない、何かのはずみに破損するとか。
けれども、手書きだったから。
立派な表紙まで作られたほどの、キャプテン専用の日誌だったから。
(…間違って捨てることもないしなあ…)
日誌は時を越えただろうか、今の時代まで。
死の星だった地球が青く蘇り、人間が其処で暮らせる日まで。
どうしたことだか、前の自分の航宙日誌は残り続けた。
白いシャングリラが時の流れに連れ去られた後も、この宇宙に。
超一級の歴史資料になってしまって、今の時代まで。
(…お蔭で俺も読めるわけだが…)
こんな具合に、とデータベースに収められている日誌を眺める。
前の自分の文字をそのまま写した、そのデータを。
羽根ペンで記した文字の滲みも、掠れ具合も、弄ることなく。
(…この日のあいつが、見える気がするな…)
前の自分が愛したブルー。
気高く、美しかった人。
そうは書かれていないけれども。
日誌の中では、「ソルジャー」もしくは「ソルジャー・ブルー」。
一度も「ブルー」と綴ってはいない。
恋の欠片も、想いの欠片も、まるで記しはしなかった。
それでも文字を見るだけで分かる。
この日のブルーはどうだったのかと、どんな言葉を交わしたのかと。
特別なことが無かった日でも。
(…あいつは、いつも通りだったってことで…)
そういう日なら、きっと、こう。
ブルーの言葉は、ブルーが見せた表情は。
それを鮮やかに思い出せるから、こうして開いてみたくなる。
データベースに収められていて、誰でも読める航宙日誌を。
戯れにあちこち拾い上げたページ。
時の彼方で、読み返さないままで終わった日誌。
それをしたいと思わないままで、前の自分は死んだから。
いつか懐かしく読み返そうと思っていた日は、前の自分には来なかったから。
(…そいつを俺が読んでるわけで…)
書いておいた甲斐はあったんだが、とコクリと飲んだ冷めたコーヒー。
肝心の日誌は、手元には無い。
繰ったページは、指でめくったわけではなくて…。
(ちょいと操作しただけってのがなあ…)
相手はデータで、紙を綴じてはいないから。
そういう形で読みたかったら、今の時代は…。
(とんでもない金がかかるんだ、これが)
なにしろ相手は、超一級の歴史資料。
本物の航宙日誌に触れたかったら、その研究者になるしかない。
それも一流と言われるレベルに。
(…なんだって俺が研究なんかを…)
しなくちゃならん、と思うのだったら、復刻された航宙日誌を買うしかなくて。
(そいつが素敵に高いんだ…)
研究者向けと来やがった、と出世しすぎた航宙日誌に漏れる溜息。
ただの活字でいいのだったら、文庫本にもなっているのに。
前の自分の文字を見るには、とてつもなく高い復刻版を買うか、研究者になるか。
当分はデータベースでタダ見しとくか、と苦笑いする航宙日誌。
「ずいぶん出世しちまったな」と。
(…書いた俺でも手が出ないってのが…)
研究者になるか、大金を出すか、どちらも今の自分には…。
(うんと敷居が高すぎるってな)
ただの教師に過ぎないから。
大散財をして復刻版を揃えた所で、それを一緒に読みたい人は…。
(まだまだ家には来てくれないんだ)
失くしたブルーは帰って来たけれど、チビだから。
子供なのだから、航宙日誌は当分、タダ見。
いつかブルーと懐かしくそれを読める日が来たら、考えよう。
出世しすぎて、とんでもない値段の復刻版。
それを買おうかどうしようかと、出世しすぎた日誌の値段に躊躇いつつも…。
出世した日誌・了
※ハーレイ先生では、手も足も出ないキャプテン・ハーレイの航宙日誌。
自分の日記を読み返すのに苦労しているみたいです。平和な時代ならではですよねv