(…今のぼくはキスが前より下手くそ…)
そういうことになっちゃうみたい、とブルーがついた大きな溜息。
お風呂上がりにパジャマ姿で、自分の部屋で。
ベッドの端にチョコンと腰掛け、視線を遣った先にテーブルと椅子。
今日はハーレイと其処で過ごした、土曜日だから。
楽しみに今日を待ったというのに、どんでん返しと言うべきか。
ポロポロと涙を零す羽目になったし、今はこうして溜息が一つ。
最高の休日になる筈だったのに。
(…サクランボ…)
事の起こりはサクランボ。
旬はとっくに過ぎたけれども、輸入物が店に出回る季節。
地球の反対側に位置する地域は、今がサクランボの旬だから。
おやつに出て来たチェリーパイのお蔭で戻った記憶。
前の自分と前のハーレイ、白いシャングリラで食べたサクランボ。
(…サクランボの軸を、口の中で上手く結べる人は…)
「キスが上手だそうですよ」と前のハーレイが教えてくれた。
そのハーレイは上手く結べた、サクランボの軸を。
そういう記憶が戻って来たから、母に強請ったチェリーパイ。
土曜日にまた焼いて欲しいと、前のぼくもサクランボを食べていたから、と。
「いいわよ」と引き受けてくれた母。
父も母から聞いたものだから、生のサクランボも買って貰えた。
せっかくだから、と父が思い付いてくれた輸入物を。
ワクワクしながら待っていた今日。
ハーレイと二人で、思い出の味を楽しもうと。
サクランボの軸の話をしようと、今のハーレイも口の中で上手く結ぶだろうか、と。
けれど、ハーレイには「悪戯小僧」と詰られた。
甘い思い出を語り合うどころか、悪戯者め、と睨まれた始末。
「お母さんまで巻き込んだな」と、「軸の話はしてないだろうが」と。
それでも、思い出してはくれたハーレイ。
遠く遥かな時の彼方で、白いシャングリラで食べたサクランボを。
前のハーレイがサクランボの軸を、口の中で上手に結べたことを。
(…そこまでは良かったんだけど…)
とんだオマケがついて来た。
前よりも腕を上げたハーレイ。
サクランボの軸を口の中でヒョイと結ぶ腕前、今は各段に上がったそれ。
ほんの二センチくらいの軸でも、今のハーレイは結んでしまえる。
「出来るぞ」と自慢して、本当にやった。
サクランボの軸を、ポキンと折って。
二センチほどの長さに短く、それを口へと放り込んで。
モグモグと動いたハーレイの口。
さほど時間をかけもしないで、見事に結んでしまった軸。
どんなもんだと、今の俺ならこの通りだ、と。
凄い腕前を持つと言うから、早速ハーレイに尋ねてみた事。
「キスは前よりもっと上手いの?」と。
前のハーレイよりも上手に軸を結ぶのだったら、キスも上手いのだろうから。
なのに、答えは貰えなかった。
「こんな動機でチェリーパイとかを持ち出すヤツには教えられんな」と。
そして言われた、「今度はお前も上手くなったらどうだ?」と。
前の自分はどう頑張っても、サクランボの軸を結べなかったから。
(…上手くなれ、って言われたから…)
ひょっとしたら下手だったのか、と考えた前の自分のキス。
サクランボの軸を結べなかった前の自分は、キスも下手くそだったのだろうか、と。
心配になったから、ハーレイに訊いた。
「前のぼくって、下手くそだった?」と、前の自分のキスの腕前を。
下手だったかもしれない、前の自分。
ソルジャー・ブルーはキスが下手くそで、キャプテン・ハーレイは上手だったとか。
そういうこともあるかもしれない、サクランボの軸で分かるキスの腕前。
口の中で上手く結べたらキスが上手で、結べなかったら…。
(…下手なんだよね?)
きっとそうだ、と落ち込みそうな気持ちで投げ掛けた問い。
前の自分は自信たっぷり、何度も何度もハーレイにキスを強請ったけれど。
ハーレイの方はキスが上手くて、前の自分は下手だったのかもしれない、と。
どんよりと項垂れてしまった自分。
下手だった前の自分のキス。
ハーレイはキスが上手かったのに。
前のハーレイはサクランボの軸を上手く結べる、キスの達人だったのに。
なんてことだろう、と俯いていたら、ピンと額を弾かれた。
「俺は下手だとは思わなかったぞ」と、嬉しい答えを返して貰えた。
思わず「ホント!?」と声を上げたほど、救われた気分になったのに。
次の言葉が悪かった。
ハーレイはこう続けたから。
「本当だ。…ただ、如何せん、比較対象が…な? お前以外に知らなかったし」と。
絶句してしまった、その言葉。
比較対象、それに「お前以外に知らなかったし」。
考えるほどに、胸の奥から湧き上がる不安。
前のハーレイには自分だけしかいなかったけれど、今のハーレイは違うかもしれない。
今の自分はチビだけれども、ハーレイはずっと年上の大人。
キャプテン・ハーレイの記憶が戻るよりも前は、ハーレイは自由だった筈。
誰と付き合おうが、キスをしようが、誰もハーレイを咎めはしない。
変でもなんでもないことだから。
プロの選手にならないか、と誘いまで来た柔道と水泳の腕前、モテたハーレイ。
モテていたなら、恋人だって選び放題。
必死になって探さなくても、相手の方からやって来る。
恋の相手も、キスの相手も。
キスのその先のことにしたって、相手に不自由しなかったろう。
そうしたいと思いさえすれば。
気付いた途端に、ポロリと零れてしまった涙。
「…ハーレイ、前に恋人、いたんだ…。ぼくよりも前に、誰かとキスして……」
そう口にするのが精一杯。
後は言葉になりはしなくて、ただポロポロと零れた涙。
生まれて来るのが遅かったばかりに、大好きなハーレイを盗られちゃった、と。
何処かの誰かが、自分よりも先にキスをした。
もしかしたらキスの上手い誰かが、一人どころか、もっと大勢。
悲しくて辛くて、それに悔しくて。
サクランボの軸の思い出話は、酷い現実を運んで来た。
今のハーレイはキスが前よりもっと上手で、沢山の人とキスをしていて。
比べることだって出来るのだろう、チビの自分が育った時には。
ようやくキスを交わせた時には、今の自分のキスの腕前が、上手か下手か。
(…上手にしたって、下手にしたって…)
そんなことは、ほんの些細なこと。
ハーレイを誰かに盗られてしまった、その恐ろしい事実の前には。
キスが上手くても、下手くそにしても、今のハーレイには、自分よりも前に誰か恋人。
比べることが出来る誰かが、キスを交わした誰かがいるから。
ハーレイの言葉で、それが分かってしまったから。
(……前に恋人……)
あんまりだよ、と叫びたくても、八つ当たりにしかならないそれ。
ハーレイは大人で、記憶が戻って来るよりも前は自由な人生。
恋をするのも、キスをするのも、その先のことも、ハーレイ次第だったのだから。
泣くことだけしか出来なかった自分。
ポロリポロリと零れ落ちた涙。
どうにも出来ないことだけれども、あまりにも悲しすぎたから。
泣き濡れていたら、「泣くな、馬鹿」とクシャリと撫でられた頭。
「今の俺にはお前だけだ」と、「俺はお前しか好きにならない」と。
俺を信じろ、と見詰めてくれたハーレイ。
「俺の隣に居てくれるヤツはお前だけしか欲しくはない」と。
何度も頭を撫でて貰って、何度も何度も誓って貰って。
やっと止まった自分の涙。
前を向こうと、今のハーレイは自分を選んでくれたのだから、と。
そのハーレイの指が、ヒョイと摘んだサクランボ。
「俺には一生お前だけだが、心配だったら練習しておけ」と、ポキリと折ったサクランボの軸。
自慢していた二センチほどの長さ、ハーレイは見事に結んでみせた。
口の中にポイと放り込んで。
俺の腕前はこの通りだ、と。
今から練習しておくといいと、キスは駄目でもこれならば、と。
サクランボの軸を上手く結べたら、キスが上手いと言うのだから。
せっせと練習しておいたならば、キスが上手くなる筈だから。
(…頑張らなくちゃ…)
サクランボの軸を結ぶ練習、と自分自身に発破をかけた。
今のハーレイが他の誰かとキスをしたかは、この際、考えないとしたって。
(…ハーレイのキスの腕前、前のハーレイよりも上なんだから…)
ほんの二センチしかないサクランボの軸、それを結んでしまえるハーレイ。
つまりはキスの腕も上がった、間違いなく。
今の自分がこのままだったら、前の自分と同じキスしか出来なかったら…。
(…前よりキスが上手いハーレイなら…)
きっと下手だと思うのだろう。
前のハーレイは下手だと思わなかったらしいけれども、キスが上手な今のハーレイは。
それは困るし、なんとも悲しい。
上手くなりたい、今のハーレイに合わせて自分も。
だから頑張る、と決意を固めたキスの練習。
本物のキスはまだ出来ないから、サクランボの軸を結ぶ練習。
前の自分には無理だったけれど、「下手なキスだ」とハーレイに呆れられないように…。
サクランボと軸・了
※サクランボの軸を結ぶ話を持ち出してみたら、藪蛇だったブルー君。自業自得ですけど。
今度はキスが上手い自分に、と固めた決意。サクランボの軸で頑張りましょうねv
- <<毎日が大変
- | HOME |
- サクランボとキス>>