(どう考えても、無理なんだけど…!)
絶対に作れないんだけれど、と頭を抱えた小さなブルー。
真っ白な亜麻で出来たハンカチ、それを前にして自分の部屋で。
ハーレイと二人で過ごした日の夜、勉強机の前に座って。
母の部屋からコッソリ失敬して来たハンカチ。
特に飾りもついていないから、消えても母は気付かないだろう。
亜麻のハンカチの一枚くらい。
たかがハンカチ、されどハンカチ。
このハンカチが大いに問題、真っ白な亜麻で出来ているのが。
それが大きな問題で課題、戦う相手は亜麻のハンカチ。
(…前のぼくって、どうやったわけ?)
くっつかないよ、と亜麻のハンカチを広げてみた。
二つ折りにして三角形だったハンカチ、それはペロンと四角くなった。
元の通りに、四角いまんま。
三角形になりはしなくて、ただの四角いハンカチが一つ。
前の自分が持ち上げたならば、三角形になっていたのだろうに。
二つに畳んで三角形になった山の天辺、そこがピタリと繋がり合って。
糸で縫ったか、ピンか何かで留めたかのように、離れなくなって。
けれど、自分には出来ない芸当。
ハンカチは四角に戻ってしまって、三角形のままでいてはくれない。
天辺同士がくっつきはしない、亜麻のハンカチの端同士は。
事の起こりはハーレイのシャツで、取れそうになっていた袖口のボタン。
ハーレイに言ったら毟り取ろうとしたものだから、「待って」と止めた。
ボタンを一つ縫い付けるくらいは、簡単なこと。
家庭科の授業でやったことだし、直ぐに上手に付け直せるから。
棚から取って来た裁縫道具入りの小さなバッグ。
取り出した針と糸を使って、元の通りに縫い付けたボタン。
ハーレイは「器用なもんだな」と褒めてくれたけれど、その後に妙な言葉が続いた。
「しっかり上手にくっついてるなと思ってな…。前と違って」と。
感慨深そうにボタンをしげしげ眺めた後に、そういう台詞。
何のことかと目を丸くしたら、「前のお前だ」と答えたハーレイ。
おまけに「…忘れちまったのか?」とまで。
「スカボローフェアだ」と、「不器用の証明だったからな」とも。
まるで記憶に無い、スカボローフェア。
それが何かも分からない上、不器用の証明というのも謎で。
しきりに首を捻るしかなくて、それでも少しも思い出せなくて。
スカボローフェアとは、どういうものか。
不器用の証明とハーレイが言うのは、いったい何のことだったのか。
遠い記憶をいくら探っても出て来ない答え、前の自分は何をしでかしたと言うのだろう?
そうしたら、更に深まった謎。
「ある意味では、とても器用だったな」と付け加えられた一言で。
スカボローフェアだ、と繰り返して。
ハーレイが始めた昔語り。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分がやらかしたこと。
今日と同じにハーレイの袖口、ただしキャプテンの制服で。
袖口がほつれていたのを見付けて、裁縫道具を持ち出した自分。
「脱いで」と、「ぼくが直してあげる」と。
ところが、今の自分のサイオンのように、不器用だった前の自分の裁縫の腕。
上手くほつれを直すどころか、不揃いな縫い目が出来てしまった。
生地も引き攣れ、繕う前よりも酷い状態になってしまった袖口。
結局、ハーレイが全部ほどいて縫い直した末に、しょげていた自分にこう言った。
頑張ったのに、と主張していた前の自分に。
「本当に私のためだと思っていらっしゃったなら…」
とんでもない縫い目を作るどころか、縫い目の無いシャツを作れそうですが、と。
「なに、それ?」と目を見開いてしまった言葉。
縫い目の無いシャツとは何のことかと、それはどういうものなのか、と。
前のハーレイは穏やかな笑みを浮かべて教えてくれた。
遠い昔の恋歌だというスカボローフェア。
人類が地球しか知らなかった頃に、イギリスで栄えたスカボローの町。
其処で開かれる市に行く人、それを捕まえて頼む伝言。
スカボローに住む、今は別れてしまった恋人。
その人にこれを伝えて欲しいと、出来そうもない無理難題を。
かつての恋人が、それを果たしてくれたなら。
恋人の許へ戻ってゆこうと、その人こそ真の恋人だから、と。
「スカボローの市へ行くのですか?」と始まる恋歌、スカボローフェア。
行くのですか、と尋ねた続きに、呪文のようにハーブの名前。
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。
そう歌った後は無理難題。
縫い目も針跡も無い亜麻のシャツを作って欲しい、と。
前のハーレイがそう歌ったから、「これのことか」と、やっと分かった。
縫い目の無いシャツというのはこれだ、と。
ハーレイが歌うスカボローフェアには、まだまだ続きがあったのだけれど。
そのシャツを涸れた井戸で洗ってくれとか、波と浜辺の間に一エーカーの土地を探せだとか。
出来そうもないことが幾つも歌われたけれど、一つなら出来る。
一番最初に歌われたシャツくらいならば、ハーレイが言ったシャツならば。
だから勢い込んでハーレイに言った、スカボローフェアを歌い終えたばかりの恋人に。
「分かった、それが作れたら正真正銘、ぼくの裁縫の腕を認めてくれるんだ?」と。
縫い目も針仕事の跡も無いという亜麻のシャツ。
それを作れたら本当の恋人、そういうことになるんだろう、と。
スカボローフェアは、そう歌ったから。
遠い遥かな昔の恋歌、パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。
縫い目も針跡も無い亜麻のシャツをと、それを恋人に作って欲しいと。
出来上がったならば、その人こそが真の恋人。
その人の許へ戻ってゆこうと。
そういうことなら、作らなくてはならないだろう。
縫い目も針跡も無い亜麻のシャツを。
それが出来ても、涸れた井戸で洗えはしないけど。
アダムが生まれた時から花が咲いたことのないイバラ、其処に干すことは出来ないけれど。
(シャツくらいだったら…)
作れるんだから、と前の自分は考えた。
亜麻の布さえあったなら。
ハーレイのために作ることが出来る、縫い目も針跡も無いシャツを。
スカボローフェアの歌の通りのシャツを。
本当の恋人の証のシャツ。
縫い目も針跡も無しにそれを作れる、裁縫の腕の素晴らしさもきっと証明出来る。
だから作ろう、と服飾部に布を貰いに行った。
真っ白な亜麻の布を一枚、シャツを作るのに充分な量の。
ハーレイのシャツのサイズも調べた、黒いアンダーの下に着ているシャツ。
首の周りがこうで、幅と丈と袖はこんな具合で…、と。
寸法に合わせて切った真っ白な亜麻の布。
裁縫の腕はサッパリだった前の自分が、どうやったのかは覚えていない。
多分、サイオンでイメージ通りに切ったのだろう。
それから布をシャツに仕上げた。
針も糸も全く使いはしないで、切り取った布を繋ぎ合わせて。
サイオンだけを使って、それを。
縫い目も針跡も無い真っ白なシャツを、スカボローフェアに歌われたシャツを。
得意満面で差し出したシャツ。
けれども、それをハーレイに着ては貰えなかった。
伸縮性のある素材で作ったシャツの寸法、それに合わせたものだったから。
亜麻の布はそれほど伸びはしなくて、頭から被ることさえ出来ない。
無理に着たなら、ビリッと音がするだろうから。
(…前のぼく、失敗しちゃったから…)
着られないシャツが出来てしまった、歌の注文には応えたけれど。
縫い目も針跡も無い亜麻のシャツなら、自分はきちんと作ったけれど。
それでも、抱き締めてくれたハーレイ。
キスを贈ってくれたハーレイ。
スカボローフェアの歌は、そういうシャツを作って欲しいと歌うだけだから。
そのシャツを着るとは歌わないから、このシャツだけで充分なのだと。
前の自分の失敗作。
縫い目も針跡も無かったけれども、着られなかった亜麻のシャツ。
それをハーレイは大切に持っていてくれた。
宝物のようにクローゼットの奥に仕舞って、何度も何度も取り出して、撫でて。
「地球へ降りる時に着れば良かった」とも言ったハーレイ。
きっと最高の晴れ着だったろうと、あちこち破れてしまったとしても、と。
そういう思い出、前の自分がハーレイに贈った、縫い目も針跡も無かったシャツ。
スカボローフェアの歌、そのままのシャツ。
「今度は着られるシャツで頼む」と、片目を瞑った今のハーレイ。
「本物の恋人同士になった時には、お前が作ってくれるんだな」と。
上等の亜麻のシャツがいい、というのがハーレイの注文。
それを着て街まで出掛けられるような、うんとお洒落な亜麻のシャツ。
縫い目も針跡も無い奇跡のシャツを作ってくれと、俺が着るから二人並んで街を歩こうと。
「無理なこと、分かっているくせに!」と叫んでしまった、不器用な自分。
そんなシャツなど、今の自分には作れないから。
ハーレイは「分かった、分かった」と笑ったけれど。
「今のお前には期待してないさ」と、亜麻のシャツは二人お揃いで買おうと言っていたけれど。
(…やっぱり、作ってみたいんだけど…!)
前の自分が作り上げたシャツ、縫い目も針跡も無かった奇跡の亜麻のシャツ。
作り方さえ分からないけれど、あれをハーレイに贈りたいから、ハンカチ相手に頑張ってみる。
スカボローフェアの歌の通りに作れないかと、またあのシャツを作れないかと。
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。
縫い目も針跡も無い奇跡のシャツを、今の自分には無理そうなシャツを…。
無理そうなシャツ・了
※ブルー君、只今、ハンカチ相手に練習中。縫い目も針跡も無いシャツを作りたいから、と。
どう頑張っても無理そうですけど、努力しているブルー君。ハーレイ先生は幸せ者ですv
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