(んーと…)
もうちょっと、とブルーが一杯に伸ばしてみた手。
勉強机の前に座ったままで、無精して。
立ち上がらないで、そのまま横の棚の方へと。
学校から帰って宿題を終えて、白いシャングリラの姿を見ようと。
ハーレイとお揃いの写真集。
それを取りたくて、精一杯に手を伸ばしてみて…。
(うん、届いた!)
やった、と棚から取った途端に崩したバランス。
写真集は大きくて重かったから。
豪華版だけにズシリと重くて、片手で取るには不向きだった本。
(ぼくの本…!)
駄目になっちゃう、と懸命に掴んで本を守って、自分が床に落っこちた。
バランスを崩して椅子から床へ。
見事にドスンと転がったけれど、写真集の方は無事だった。
(…失敗しちゃった…)
ちゃんと取れると思ったのに、と床に転がったままでついた溜息。
次からは無精しないでおこうと、ぼくの大事な本なんだから、と。
お小遣いでは買えない値段の豪華版。
ハーレイに教えて貰ったその日に、父に「買ってよ」と強請った本。
自分の不注意で傷んだりしたら、きっと悲しくなるだろうから。
少しへこんだだけであっても、表紙に微かな傷がついても。
無事で良かった、と床の上で本を確かめていたら、ノックの音。
「ブルー? どうしたの、倒れちゃったの?」
音がしたわ、と母が扉の向こうで訊くから、ドキンと跳ね上がってしまった心臓。
無精して椅子から落っこちたなんて、みっともなくて言えないから…。
「…平気。足を引っかけて転んじゃった…」
怪我はしてないから大丈夫、と誤魔化した。
扉を開けたら嘘がバレそうだから、開けないままで。「ぼくは平気」と。
「それならいいけど…。あまりビックリさせないでね」
ブルーは身体が弱いんだから、と声を残して、階段を下りてゆく母の足音。
それが消えても、まだドキドキと激しく打っている鼓動。
(…椅子から落ちて、ママでビックリして…)
驚きの連続、こうならない方がおかしいだろう。
ゆっくり写真を眺めるつもりが、落ち着いてくれない心臓の音。
起き上がって椅子に戻っても。
白いシャングリラの写真集を見ようと腰掛けても。
(…全然ダメ…)
止まってくれないドキドキの音。
これじゃ駄目だ、とスウッと大きく吸い込んだ息。
こんな時には深呼吸、と。
椅子に座って、胸一杯に空気を吸い込んでみて。
吐き出したけれど、まだドキドキが止まらないから、もっとゆっくり。
(…吸って、吐いて…)
落ち着かなくちゃ、と心臓にせっせと言い聞かせながら深呼吸。
胸一杯に吸って、ゆっくりと吐いて。
またゆっくりと吸い込んで吐いて、何度もそれの繰り返し。
(…やっと止まった…?)
まだ少し鼓動が速いけれども、胸から心臓が飛び出しそうではなくなった。
このくらいならば、もうその内に落ち着くだろう。
深呼吸はもう充分だよ、と本を開いた。
ぼくが守ったシャングリラ、と。
前の自分が守った船。ハーレイが舵を握っていた船。
白いシャングリラの写真が沢山、この写真集は懐かしい気持ちがこみ上げる本。
前の自分は命まで捨てて、この白い船を守り抜いた。
たった一人でメギドを沈めて、とても悲しい思いまでして。
(…ハーレイの温もり、失くしちゃった…)
メギドで冷たく凍えた右手。
もうハーレイには二度と会えないと、独りぼっちだと泣きじゃくりながら。
それでも自分は船を守った、ミュウの未来を乗せていた船を。
楽園という名の白いシャングリラ、ミュウの箱舟だったあの船を。
(…前のぼくだと、本物の船で…)
今の自分は写真集の中の船を守った、椅子から落ちてしまったけれど。
元はと言えば自分が悪くて、無精したのが原因だけれど。
(でも、守ったしね?)
傷もつけずに、角も表紙もへこまずに。
写真集になった白いシャングリラを、懐かしい船を。
今の自分の精一杯。
サイオンもすっかり不器用になって、本を宙では止められないから。
身体ごと落っこちて本を守った、本の中身のシャングリラを。
今のぼくでも頑張ったんだ、と思ったけれど。
ぼくのシャングリラは守ったから、と誇らしい気持ちになったのだけれど。
(…さっきのドキドキ…)
情けないかも、と肩を落とした。
前のぼくだとドキドキは無し、と。
椅子から床へと落っこちただけで、もうビックリして激しく脈を打った心臓。
そこへ母までやって来たから、もっと驚いて止まらなくなってしまったドキドキ。
これでは本も読めやしない、と何度もしていた深呼吸。
吸って、吐いて、と、ゆっくり、ゆっくり。
落ち着けと自分に言い聞かせながら、何度も息を吸っては吐いて。
(…前のぼくだと、あんなのは…)
やっていない、と情けなくなった。
椅子から落ちたくらいでは。
母に不意打ちされたくらいでは。
(…椅子から落ちてはいないだろうけど…)
あんな無精はしていないから。
手を一杯に伸ばさなくても、サイオンでヒョイと取れただろうから。
(ママも来ないし…)
不意打ちする母もいなかった。
ソルジャー・ブルーに母はいなくて、仲間たちだって不意打ちはしない。
前の自分はソルジャーなのだし、そんな無礼な真似などは。
自分は気にしなかったけれども、仲間たちは礼儀を気にしていたから。
(だけど、不意打ちなら、もっと凄いのが…)
キースに何度もやられちゃったし、と零れた溜息。
メギドはともかく、シャングリラからのキースの逃亡騒ぎ。
前の自分は察知して目覚め、先回りをして待っていた。
ドキドキもせずに、平然と。
キースがトォニィを投げた時にも、咄嗟に飛び出して受け止めた。
さっきの自分と全く同じに床に落っこちてしまったけれど。
其処で動けなくなったけれども、ドキドキどころか落ち着いたもの。
ナキネズミに力を貸して貰って、連絡までして。
(…なんで、ぼくだとこうなるわけ?)
同じシャングリラを守っても。
本物と本の違いはあっても、今の自分の精一杯。
全力を尽くして守った結果は酷いドキドキ、前の自分とは比較にならない。
(…敵わないのは分かっているけど…)
今の自分はただの子供で、ソルジャー・ブルーではないのだから。
サイオンだって不器用になって、まるで敵いはしないのだから。
それでも悔しい、床に落ちただけでドキドキの自分。
前の自分はそうはならなくて、深呼吸などしていないのに。
キースに不意打ちされた時にも、悠然と座っていたほどなのに。
(…身体、ボロボロだったのに…)
格納庫まで先回りしようと歩く間に、何度倒れたことだろう。
息は荒くて、心臓も激しく脈打っていたのに、前の自分はそれを鎮めた。
ソルジャーとしての意志の強さで、深呼吸もせずに。
ほんの数回、フウと長い息を吐き出しただけで、それでおしまい。
ビックリしたせいでドキドキなどはしなかったから。
身体が辛くてドキドキしただけ、時間が経ったら収まるから。
それに引き替え、今のちっぽけな自分ときたら。
椅子から落ちたと言ってドキドキ、母に不意打ちされてドキドキ。
これでは本も読めやしない、と深呼吸までしていた始末。
前の自分は、深呼吸などしなくても平気だったのに。
(…前のぼくが凄すぎるんだってば…!)
深呼吸とか以前の問題、と写真集の向こうを睨み付けた。
宇宙空間を飛ぶシャングリラ。
写真を撮ったカメラマンは宇宙船の中だろうけれど、前の自分は…
(宇宙船なんか、要らなかったし…!)
いつでもシャングリラの外に出られた、生身のままで。
宇宙服など着けもしないで、ヒョイとそのまま。
メギドまで飛んだ時も同じで、宇宙船など使ってはいない。
今の自分には出来ない芸当、酸素も無い所に出てはゆけない。
(息が出来なくて死んじゃうってば…!)
もっと他にも色々と問題がありそうだけれど、一番は空気。
宇宙空間では息が出来ない、今の自分はアッと言う間に死んでしまうのに違いない。
だって酸素が無いんだから、と思った所で気が付いた。
今の自分が何度もしていた深呼吸。
それで補給をしていた酸素。
(…全部、地球のだよ…)
なんとも思わずに吸っていたけれど、何度も吸っては吐き出したけれど。
前の自分が吸った酸素や空気とは違ったそれ。
白いシャングリラの中の空気は、あった酸素は人工的に作られたもの。
船の中だけで全てを賄う宇宙船だから、当然のこと。
アルテメシアに降りた時には外の空気を吸ったけれども、雲海の星と地球とは違う。
その上、前の自分が生身で宇宙を駆けていた時。
身体の周りに集めた空気は、多分、サイオンで循環させたのだろう。
吸って酸素が無くなった分は、サイオンを使って酸素へと変えて。
難しい仕組みは考えもせずに、自分の身体を生かすためだけに。
(…深呼吸、要らなかったのかも…)
そんな気までがしてくるほど。
わざわざ息を吸い込まなくても、必要な酸素を取り込めたのかと。
前の自分は凄かったのだし、もしかしたら、と。
けれども、そんな前の自分が胸一杯に息を吸い込んでいても…。
(…地球の空気は吸えないんだよ…)
地球は何処にも無かったから。
辿り着けずに終わってしまって、深呼吸だって出来なかったから。
それを思えば、今の自分はきっと幸せなのだろう。
前の自分には敵わないけれど、椅子から落ちたらドキドキだけれど。
(…深呼吸したら、地球の空気で…)
前の自分が焦がれ続けた青い水の星の空気が一杯。
いくら吸っても消えはしないし、それがドキドキを鎮めてくれる。
胸一杯に吸い込んだならば、ゆっくりと吸って吐いたなら。
何度も何度も繰り返していたら、ドキドキは自然に収まってくれる。
(…椅子から落ちてもドキドキだけど…)
きっと幸せ、と深呼吸した。
前のぼくには出来なかったと、地球の空気は無かったから、と。
今は好きなだけ吸ってもいい。
地球の空気を、地球の酸素を胸一杯に。
ハーレイと二人で地球に来たから、夢だった星に来られたから…。
深呼吸したら・了
※ソルジャー・ブルーだった頃と違って、椅子から落ちたらドキドキなのがブルー君。
せっせと深呼吸していた空気が地球のだった、と気付いて幸せらしいですv