いい天気だな、とハーレイが眺めた窓の外。
ブルーの家へと出掛ける日の朝、いつも通りに早く覚めた目。
(その辺を軽く走ってくるかな)
ご近所一周、そういうジョギング。
二十分もあれば五キロは軽いし、ちょっと走るのに丁度いい距離。
自分にとっては運動とも言えない距離だけれども。
ウォーミングアップ程度で、準備運動。
そういう距離になるのだけれど。
(…あまり遠くへ行き過ぎてもなあ…)
ジョギングは好きで、走り始めたらついつい遠くへ行きたくなる。
今日はあっちへ、と走り出したら、その先へ行ってみたくなる。
長く暮らしている町だから。
すっかり頭に入っているから、「この先に行くと…」と足を伸ばしたくなる。
公園までのつもりで走っていたのに、公園を抜けてもっと先まで。
学校の方へと走って行ったら、通り越してその向こうまで。
(悪い癖だな)
ついつい走り過ぎるのは。
身体の方は平気だけれども、思わぬ時間を走り続けてしまうのは。
いつかブルーと結婚したなら、改めないといけないだろう。
家で帰りを待っているブルーが、すっかり膨れていそうだから。
(今でも充分、あいつのために改めてるが…)
走る時間を調整中だ、と始めた着替え。
パジャマからジョギング用の服へと、顔を洗ったらジュースを一本。
こういう朝に備えて買ってあるジュース、作っていたのでは遅くなるから。
バランスが取れた野菜ジュースで喉を潤し、玄関を出たら準備完了。
日頃から鍛えてある身体。
此処までの間にしっかり目覚めて、動く用意はもう整った。
長いジョギングならばともかく、ご近所一周、ほんの五キロほど。
朝食も準備運動も要らない、ストレッチだって。
庭を突っ切り、表の通りに出たら少しずつ上げるスピード。
それだけで充分ついてくる身体、楽々と走れるご近所一周ジョギングの旅。
(…この程度だったら、ブルーも文句は言わんだろうさ)
二十分もあれば戻れるのだから、「遅いよ!」と文句は言わないだろう。
いつか結婚した時も。
ブルーが顔を洗ったりしている間に五分以上はかかる筈。
新聞でも広げて読み始めたなら、直ぐに経つだろう二十分。
このくらいは許して欲しいものだな、と庭を突っ切り、門扉を開けた。
さあ、走るぞ、と。
ご近所一周、直ぐに戻って、お次はブルーの家へと出掛ける支度、と。
小さなブルーに出会う前には、たっぷり時間があった週末。
ジョギングだって朝食を済ませて走って行った。
それこそ気まぐれ、足の向くまま。
コースも決めずに走り出したり、コースを外れてどんどん遠くへ向かったり。
足には自信があるのだから。
「それを一日で走るんですか?」と驚かれそうな距離であっても、自分には普通。
疲れもしないし、楽しいくらい。
「今日はあそこまで行って来たぞ」と愉快な気分になったほど。
ところが今ではそうはいかない、小さなブルーが待っているから。
ご近所一周コースを外れて走って行こうものなら、もう膨れるに決まっているから。
「今日は遅いよ!」と、「用事があるとは聞いてないけど?」と。
プウッと膨れて、唇を尖らせて、プンスカと怒ることだろう。
(…あいつ、サイオンはサッパリなんだが…)
心を読み取ることも出来ない不器用な今のブルーだけれど。
きっと勘だけはいいに違いない、普段は駄目でもそういう時だけ。
「ハーレイ、もしかしてジムに行ってた?」だの、「ジョギングだった?」だのと。
ズバリ見抜かれて慌てる自分が目に浮かぶよう。
「すまん」と、「ついつい夢中になって…」と。
「お前を忘れたわけじゃないんだ」と、「悪いのは俺の身体でだな…」と。
足をピシャリと叩くような羽目になるのだろう。
この足が俺を連れてったんだ、と。
損ねたくないブルーの御機嫌、だからジョギングは控えめに。
ご近所一周、それだけで戻る朝の小さな運動。
(…運動ですらもないんだが…)
気分転換程度なんだが、とタッタッと軽く走ってゆく。
周りの景色を眺めながら。
すれ違った人や、庭にいる人と挨拶しながらリズミカルに。
もっと遠くへ行けるけれども、行きたい衝動に駆られるけれど。
(…チビが優先…)
チビと呼んだら怒るんだがな、と小さなブルーが最優先。
この道を行けば公園の方へ続くんだが、と行きたくなった道は曲がって避けた。
次に現れた別のコースも、グイと曲がって諦めた。
今朝はあくまでご近所一周、二十分で戻って、それからシャワー。
朝食を食べて新聞を読んで、いい頃合いで家を出る。
天気がいいから、ブルーの家まで歩いてゆく日。
そのための時間も必要なのだし、ジョギングはご近所一周だけ。
もっと遠くへと、もっと走ろうと弾む足。
まだまだ行けると、もっと遠くへと。
それを宥めて、走りたくなる自分も叱って、予定通りに家へと繋がるコースに入った。
真っ直ぐ走れば見えてきた家、いつもの見慣れた家の生垣。
(ちゃんと戻って来たってな…!)
ブルーに文句は言わせないぞ、とラストスパート、上げたスピード。
ジョギングは同じ速さで走り続けて、最後はゆっくりゴールするのが本当だけれど。
身体に負担をかけないためには、それが一番なのだけど。
(ご近所一周には、これが似合いなんだ)
ゴール直前のマラソン選手よろしく、ここが最後の追い込み気分。
残りは全力疾走なんだ、とフルスピードで門扉の前を通過した。
ゴールは家だし、門扉の辺りがゴール地点。
行き過ぎた分をタッタッと戻って、門扉を開けて入った庭。
息は少しも上がっていないし、全く疲れていないのだけれど。
(まずは深呼吸…)
こいつが大事、と大きく息を吸い込んだ。
もっと走りたいと騒ぐ身体を鎮めるために。
今日はここまで、と深呼吸して一区切り。
気分をきちんと切り替えられるし、酸素もたっぷり取り込めるから。
胸一杯に吸い込んだ空気、早い時間だから清々しい。
庭の緑と朝露の匂い、それまでが身体に染み透る気分。
(朝はこいつに限るんだ)
深呼吸だ、と大きく吸って、ゆっくりと吐いて、また吸い込んで。
これで良し、と歩き出そうとして気が付いた。
たった今、自分が吸っていた空気。
とても贅沢で、凄いものだということに。
当たり前のように吸ったけれども、吸って吐き出したのだけど。
(おいおいおい…)
前の俺だと考えられんぞ、とグルリと見回した自分の周り。
走り終えた身体を包み込む空気、今、たっぷりと吸って吐き出した分はどれなのか。
すっかり他のと混じってしまって、まるで区別がつかない空気。
直ぐに新しく補充されるから、澄んだ空気が満たされるから。
もう一度息を吸い込んでみても…。
(…さっきと何処が違うんだ?)
同じ味だが、と繰り返してみた深呼吸。
朝の空気の味は落ちない、どんなに欲張って吸い込んでみても。
胸一杯に吸って吐き出してみても、次に吸った空気は同じに爽やか。
庭の緑と朝露の匂い、それを含んで酸素もたっぷり。
息が苦しくなったりはしない、深呼吸を何度繰り返しても。
(…贅沢すぎる話だぞ、これは…!)
いくら吸っても、次から次へと補充されてくる新しい酸素。
それだけでも凄い、前の自分が生きていた頃に比べれば。
白いシャングリラでは、酸素は作るものだったから。
閉ざされた船の中の世界は、そういうもの。
アルテメシアに潜んだ頃にも、外の酸素に頼ってはいない。
(…いつだって気を配ってたんだ…)
酸素不足に陥らないよう、どんな時でも。
赤いナスカに辿り着いても、酸素は今ほど多くなかった。
懸命に目指した地球に至っては、呼吸をしたら終わりの世界。
毒の大気を吸い込んでしまい、一瞬で死に至ったろうから。
(…その酸素が今じゃ、吐いて捨てるほど…)
「掃いて捨てる」を「吐いて捨てる」と言い換えたくなった、今の状況。
一度吸ったら、人の身体は空気の中から酸素を奪ってしまうのに。
吐き出した空気をまた吸い直して呼吸していれば、いずれ窒息してしまうのに。
けれども、そうはならないのが今。
いくら大きく吸って吐き出しても、何処からかやって来る酸素。
少しも減ってはいないどころか、さっきと同じに美味しい空気を胸一杯に吸い込める世界。
なんとも凄い、と深呼吸をした、何度も、何度も。
こんなに吸っても減りはしないと、それも本物の地球の空気だ、と。
(実に美味いな…)
疲れちゃいないが生き返るようだ、と庭を眺めては繰り返していた深呼吸。
地球の空気だと、おまけに少しも減りもしなくて美味いままだ、と。
あまりに感動してしまったから、ついつい庭で過ごした時間。
空気が美味いと、何の苦労もしないで好きなだけ吸える世界なんだぞ、と。
ハタと気付けば、五分どころでは済まない時間。
深呼吸しながら経った時間はどれほどなのか、と慌てて家へ駆け込んだ。
遅刻しちまうと、ブルーがプウッと膨れちまう、と。
(でもまあ、地球の空気だしな…?)
ブルーが「遅いよ!」と怒った時には、「まあ、落ち着け」と微笑んでやろう。
深呼吸でもしてみるといいと、そうすればお前も分かるだろうと。
いくら吸っても、吐いて捨てても、地球の酸素は減らないから。
前のブルーが焦がれ続けた、青い地球の空気。
それをたっぷり味わってみろと、俺の遅刻はその有難味を満喫していたせいなんだから、と…。
深呼吸の味・了
※「吐いて捨てるほど」の酸素があるのが、今のハーレイ先生の世界。贅沢すぎる世界です。
ゆっくりのんびり深呼吸。遅刻しちゃったら、ブルー君にもお勧めするのが一番ですねv
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