(シャングリラか…)
この船が俺の全てだったな、とハーレイが眺めたシャングリラ。
自分の家の夜の書斎で、机の上で。
もちろん本物があるわけがなくて、白い鯨は本の中。
小さなブルーも持っている本、シャングリラの写真ばかりを集めて編まれた写真集。
ブルーの小遣いで買うには少々、高すぎる豪華版だったのだけれど。
父親に強請って買って貰って、小さなブルーも手に入れた。
「ハーレイの本とお揃いだよ」と自慢している写真集。
ブルーに教えた自分の方でも、気に入りの本ではあったから。
たまにこうして広げてみる。
あの白い船を思い出した夜は、見てみたくなってしまった夜は。
(あいつが守って、俺が動かして…)
シャングリラはそういう船だった。
大勢の仲間を乗せていたけれど、ブルーと二人で守っていた船。
ブルーは人類から船を守り続けたし、前の自分は船の全てを守ったキャプテン。
自ら船の舵を握って、船の設備や生活なども自分が舵を取っていた。
修理が必要な箇所が出たなら、そのように。
生きてゆくのに欠かせないものが不足しそうなら、直ちに適切な手を打って。
そうしてブルーと守り続けた白い船。
楽園という名の白いシャングリラ、世界の全てだった船。
外の世界に生きるための場所は無かったから。
宙に浮かんだミュウの楽園、その外にミュウのための世界は無かったから。
ミュウと分かれば殺される世界、そんな世界に前の自分は生きていた。
遠い歴史の彼方の出来事、今の時代はまるで違ってしまったけれど。
(なにしろ、ミュウしかいないんだしな?)
SD体制が崩壊した後、ミュウの時代が訪れた。
人類は次第にミュウと混じって、自然と起こった世代交代。
今の世界の何処を探しても、人類にはお目にかかれない。
一人もいなくなったから。
サイオンを持たない短命だった種族、人間としては損が多い種族。
進化の必然だったというミュウ、それに変わらないわけがない。
生き物は進化してゆくから。
同じ環境でもより生きやすいよう、自分たちの益になるように。
今ではすっかりミュウの時代で、シャングリラはとうに伝説の船。
遠い昔にあった箱舟、ミュウを守ったノアの箱舟。
SD体制という大洪水の中、滅ぼされそうだったミュウたちを乗せて。
洪水が引いてミュウが地上に降りられる日まで、漂い続けたノアの箱舟。
ノアが作った箱舟などではなかったけれど。
ミュウの力で作り上げた船、ノアという名の仲間はいなかったけれど。
(あの時代にノアと言えばだな…)
皮肉なことに、人類たちの首都惑星の名がノアだった。
悪い冗談だと思うけれども、彼らに悪意は無かっただろう。
きっとあの星を整備した頃は、あれこそが人類の箱舟だったのだろうから。
滅びてしまった地球に代わって、人類が生きてゆくための星。
宇宙に散らばる育英惑星や他の惑星、全てを束ねて滅びないように導いたノア。
人類のためにあった箱舟、だからノアの名が付いたのだろう。
(…本当に必死だったんだろうが…)
人類もまた、生き延びるために。
だから脅威となる新しい種族、ミュウを懸命に排除した。
生かしておいたらロクなことは無いと、ミュウは根絶やしにするべきだと。
アルタミラで星ごと殲滅しようとしたほどに。
白い鯨になった後にも、発見されたら徹底的に追われたように。
(…シャングリラの外は、俺たちには地獄だったんだ…)
ミュウと分かれば殺される世界、殺されなければ実験動物にされるだけ。
人とは認めて貰えない世界、其処から逃れて箱舟に乗った。
ノアの名は何処にも無かったけれども、あの時代のノアの箱舟に。
ミュウの命を守る箱舟、大洪水を越えて生き延びるために作られた船に。
最初は借り物の船だったけれど。
元は人類が持っていた船、それを拝借したのだけれど。
シャングリラと名付けて、白い鯨に改造した後も、船は変わらず箱舟のまま。
降りる地面は見付からないまま、宙に浮かんでいるだけだった。
何処までゆこうと、ミュウが生きられる地面などありはしなかったから。
前のブルーを喪ったナスカ、あの星でさえも仮初めの宿。
あれが本当の居場所だったなら、ブルーを失くしはしなかったろう。
他の多くの仲間たちも。
(…しかしだ、前の俺にとっては…)
あの船は楽園だったんだ、と懐かしく思い出すシャングリラ。
写真集のページをぱらりと捲って、船のあちこちを巡りながら。
ブリッジや公園、それから通路。
どんな場所にも残る思い出、前のブルーと生きていた船。
あのシャングリラで恋を育み、幸せに暮らしたブルーとの日々。
ブルーと二人で船を守って、恋も守って。
誰にも明かせない秘密の恋でも、充分に幸せだった恋。
いつも満たされて生きていた。
前のブルーとキスを交わして、愛を交わして。
何処までも共にゆこうと誓って、いつか地球へと夢を見ながら。
(…あいつがいなくなっちまうまでは…)
白い鯨は楽園だった。
ブルーと二人で暮らす楽園、エデンの園とも呼べるくらいに。
ミュウという種族の未来を思えば、憂いは尽きなかったのだけれど。
明日があるかも危うい箱舟だったのだけれど、それでも楽園だった船。
前のブルーと恋をしたから。
共に生きようと、いつかは地球へと、幾つもの夢を描けたから。
外の世界へ出られなくても、あの船があれば充分だった。
愛おしい人が生きている船、愛おしい人と生きる船。
それだけでシャングリラは箱舟ではなくて立派な楽園、エデンの園とも名付けたいほどに。
楽園の中を探せばブルーがいたから、二人きりで過ごせる時もあったから。
名前の通りに楽園だと思ったシャングリラ。
ブルーと二人で守った楽園、その中で恋を育んで。
誰にも言えない秘密の恋でも、充分に幸せだった恋。
愛おしい人がいるというだけで、前のブルーと生きられるだけで。
いつまでも、何処までも共にゆこうと、いつか地球へと二人で夢見て。
楽園という名が相応しかったシャングリラ。
前の自分のエデンの園。
ブルーがいなくなるまでは。
楽園を後にして飛び去ったブルー、前のブルーの命が潰えてしまうまでは。
ブルーがいたから、前のブルーと恋をしたから本物の楽園だった船。
こうしてページを繰ってゆく度、ブルーの姿が蘇る。
此処にいたなと、此処にもブルーが立っていたな、と。
(…本当に楽園だったんだ…)
あいつが乗っていただけで、と白いシャングリラの写真を撫でる。
俺にとっては楽園だったと、外の世界に出られなくても、と。
閉ざされた船でも、大洪水の中を漂うノアの箱舟でも、白い鯨はエデンの園。
前のブルーと恋をしたから、ブルーと二人で生きていたから。
ブルーと二人で地球を夢見て、二人で船を守り続けて。
いつかは地球へと、本物の楽園へ辿り着こうと、ミュウの未来を描き続けて。
(…楽園は地球だと思っていたが…)
エデンの園は、約束の場所は地球だと思っていたけれど。
其処へ着いたら旅は終わって、本物の楽園で暮らせるものだとブルーと夢を見たけれど。
そんな星など必要無かった、ブルーと恋をしていられれば。
二人で生きてゆけるのであれば、もうそれだけで充分だった。
前の自分は既にいたのだ、エデンの園に。
シャングリラという名の楽園の中で、ブルーと共にエデンの園に。
それでも足りずに夢を見たから、自分はブルーを喪ったろうか?
食べてはならない禁断の果実、知恵の実を食べたアダムとイブがエデンの園を追われたように。
今の楽園ではまだ足りないのだと欲を出したから、楽園を追われてしまったろうか。
ブルーを喪い、白いシャングリラに独り残されて。
この船を地球まで運んでゆけと、神の罰までをその身に負って。
(…まさか、そいつは無いんだろうが…)
望みすぎたから、楽園を追われたということは。
エデンの園を失くしてしまって、前のブルーを喪ったなどということは。
もしもそうなら、今の自分はいないだろうから。
神の怒りが下ったのなら、ブルーと二人で青い地球には決して来られなかっただろうから。
(…うん、あいつと本物の地球に来たしな?)
しかもミュウの時代で青い地球で、と素晴らしいことばかりの今の地球。
本物の楽園に生まれ変われた自分たち。
前の自分たちが夢見た以上の楽園、エデンの園としか思えない地球。
其処に二人で来られたからには、前の自分たちの悲しい別れも…。
(…きっと、こうなるためだったんだな)
箱舟から本物の楽園へ引越しするための。
地球という名のエデンの園へと、ブルーと二人で旅立つための。
そう思えば悪い気はしない。
前の自分は楽園で生きて、今度は本物の楽園なんだ、と。
ブルーと二人で生きてゆけると、また恋をして、今度は本物のエデンの園で、と…。
楽園だった船・了
※前のブルーと生きていたから、楽園だったシャングリラ。外の世界へ出られなくても。
今度は本物の楽園なのです、青い地球の上にブルーと二人。きっと最高に幸せですよねv