明日はブルーの家に行く日、とハーレイが唇に浮かべた笑み。
夕食の後に書斎で飲んだコーヒー、それのカップを洗いに出掛けたキッチンで。
愛用の大きなマグカップ。
使った後にはきちんと洗って片付ける主義で、次の朝まで置いたりはしない。
朝には棚から出して使いたいマグカップ。
前の夜に綺麗に洗って拭いて、仕舞っておいた気持ちのいいものを。
料理の支度も後片付けの方も慣れているから、マグカップを一個洗うくらいは手間でさえない。
手際よく洗ってキュキュッと拭き上げ、いつもの棚へ。
(次にこいつを使う時は、だ…)
明日の朝食、そのテーブルで。
トーストや卵料理やソーセージなどをゆっくりと食べて、それからコーヒー。
仕事に出掛ける日ではないから、コーヒー片手に時間調整。
(早く行きすぎたらマズイしな?)
ブルーの家に早く着きすぎないよう、いつもより時間をかけて味わう。
朝食も、それにコーヒーも。
後片付けが済んだら家を出るわけで、次にマグカップを棚へ仕舞ったら…。
(ブルーに会いに行けるってな!)
前の生から愛し続けた、愛おしい人に。
今は少年の姿のブルーに、十四歳にしかならないブルーに。
それが楽しみな金曜日の夜、ブルーと一緒に過ごせる週末。
何も用事は入っていないし、土曜日も、それに日曜も。
浮き立つ心でキッチンを出たら、バスタイム。
ついつい零れてしまう鼻歌、明日はブルーに会いに行けると思ったら。
キスさえ出来ない恋人だけれど、まだまだ幼いブルーだけれど。
それでもブルーはブルーだから。
前の生から愛してやまない、大切な恋人なのだから。
会えば心に溢れる幸せ、それにブルーへの愛おしさ。
明日は確実に会えるのが嬉しい、平日ではなくて土曜日だから。
平日でも仕事が早く終われば会えるけれども、思い通りにはいかないもの。
きっと帰りに寄れる筈だ、と考えていても狂うのが予定。
早く終わると思った会議が終わらず、駄目になるのはよくある話。
同僚の誘いを断り切れずに、食事に出掛けてしまう日も。
会いに行けずに終わってしまう日、平日にありがちな予定の狂い。
けれど、週末は予定が狂いはしないから。
ブルーが寝込んでしまうことはあっても、家へ会いには行けるから。
(明日はブルーに会える日なんだ)
間違いなく、と遠足の前の子供さながらに心が弾む。
子供と違って、寝付けないことはないけれど。
ベッドに入れば、ちゃんと眠れるのだけれど。
パジャマ姿で寝室に行って、後は一晩眠るだけ。
目覚めたら朝で、時間次第で何をするかを決める朝。
軽いジョギングに出掛けてゆくとか、庭に出て身体を動かすだとか。
それは目覚めた時間次第で、その日の気分次第だけれど。
朝食は必ず食べるわけだし、またマグカップのお世話になる。
風呂に入る前に洗って片付けておいた、マグカップに熱いコーヒーを。
(飲み終わって洗ったら、出発なんだ)
ブルーに会いに行ける日だから、とベッドに入ろうとしたけれど。
遠足前の子供と違って、ストンと眠りに落ちるベッドに上がったけれど。
(…待てよ?)
こうしてベッドにもぐった後には、訪れる眠り。
目覚まし時計はかけるけれども、きっと早めに覚めるだろう目。
起きたらパジャマを脱いで着替えて、ジョギングに行くか、庭で体操か。
とにかく朝の軽い運動、それから始める朝食の支度。
トーストを焼いて、卵料理やサラダなど。
熱いコーヒーは欠かせないから、香り高いのをたっぷりと。
いつも通りの週末の朝で、何処も変ではないのだけれど…。
(前の俺だと、有り得なかったぞ…!)
こんな風には暮らせなかった、とベッドの端に腰掛けた。
眠れば確実に明日の朝が来て、思った通りの時間が流れ始めるなどは。
その日の気分で変わるとはいえ、軽い運動が済んだら朝食の支度。
出来上がったら食べて、片付けて、それから出発。
小さなブルーが待っている家へ、愛おしい人が住む家へ。
一晩眠れば、その日が始まる。
眠るだけでヒョイと時を越えられる、明日の朝へと。
ブルーの家へと出掛けられる朝へ、いつも通りに。
週末はこうだと思う通りに、目覚めたら始まる土曜日の朝。
(…前の俺には無かったんだ…)
間違いなく明ける夜というものは。
眠れば必ずヒョイと越えられる、訪れる朝というものは。
白いシャングリラで暮らした頃にも、予定は色々あったのだけれど。
キャプテンだったから、それは色々あったのだけれど。
(…そいつを確実に出来る保証は…)
何処にも無かった、実の所は。
夜の間に人類軍に見付かったならば、明日は無いかもしれなかったから。
夜が明ける前に白いシャングリラは沈んでしまって、終わりだったかもしれないから。
(…いつも何処かで思ってたんだ…)
楽園という名の船だけれども、その楽園は仮のものだと。
地面の上には居場所が無いから、こうして浮いているのだと。
ミュウの仲間たちが暮らす箱舟、楽園という名のシャングリラ。
其処で誰もが予定を立てては、それをこなしていたけれど。
明日は会議だとか、来週だとか、そんな風に予定は組まれたけれど。
(…来週どころか、明日ってヤツも…)
来るとは限らなかった船。
誰にも言い切れなかった船。
前のブルーは船を守ると言ったけれども、前の自分も精一杯のことをしようと思ったけれど。
力及ばず沈んでしまえば、明日は永遠に来ない船。
立てた予定をこなす代わりに、何もかもが消えてしまう船。
まるで水面に浮かぶ泡のように、儚かった船がシャングリラ。
考えないようにしていただけで。
暗い考えに囚われていては、心を強く持てないから。
けれど、忘れることはなかった。
朝を迎える度に思った、心の何処かで「無事に朝が来た」と。
前のブルーと夜を過ごして、愛を交わして別れる時にも、やはり思った。
(…これが最後かもしれない、ってな…)
昼の間も、危険は同じにあるのだから。
人類軍の船が来たなら、夜は来ないかもしれないから。
白いシャングリラは沈んでしまって、全て終わりかもしれないから。
何度思ったか分からない。
前のブルーと夜を過ごす度に、その夜は無事に明けるだろうかと。
夜が明けてブルーと別れる時には、こうして再び会えるだろうかと。
(…なんの保証も無かったんだ…)
予定どころか、前のブルーとの逢瀬でさえも。
いつ断ち切られても不思議は無かった、前の自分が生きていた時間。
突然に消えて終わったとしても、仕方なかった儚い世界。
白いシャングリラが存在したこと、それ自体が奇跡だったから。
生きることさえ許されなかったミュウの箱舟、あってはならなかったもの。
マザー・システムにしてみれば。
人類の視点から考えてみれば、忌むべきもので消えるべきもの。
前の自分は其処で暮らした、明日は無いかもしれない船で。
夜が必ず明けるものとは、誰にも言い切れない船で。
(前の俺だと、こんな風には…)
きっと眠れなかっただろう。
心浮き立つ予定がある日の前の夜なら、余計なことまで考えただろう。
その日は本当に来るだろうかと、この夜は明けてくれるだろうかと。
楽しみな予定であればあるほど、心配も募ったに違いない。
それは実現するだろうかと、無事に夜明けが来るだろうかと。
(気にし過ぎちまって、目が冴えちまって…)
酒のお世話になったかもしれない、あの船ならではの合成の酒。
本物の麦や葡萄から出来たのではない、合成品の酒を一杯やってベッドへ。
前のブルーとは夜を一緒に過ごしたけれども、会えない日が続いていたならば。
明日は会えるという日になったら、その夜はきっと…。
(眠れないんだ、コーヒーなんかを飲んでなくても)
待ち遠しいと思う心と、夜が明けるかという心配と。
弾む心と不安な気持ちと、それを抱えて寝付けない夜になったろう。
それが今ではまるで違って、コーヒーまで飲んでしまっても…。
(ベッドに入れば、ぐっすりなのか…)
そうしてヒョイと朝が来るのか、と今の幸せに感謝せずにはいられない。
今は必ず明ける夜。
明日になったらコーヒーを淹れて、飲み終わったら片付けて。
愛おしい人の家へ出掛ける、前の生から愛し続けたブルーの家へ。
ベッドにもぐって眠ればヒョイと越えられる夜。
コーヒーを飲んでしまった後でも、待ってましたとやって来る眠り。
それに意識を委ねるだけで、明日という日が訪れる。
けして断ち切られはせずに流れてゆく時間。
ブルーと二人で地球に来たから。
明日は来るだろうかと案じていた船、あの船で夢見た青い地球に生まれて来たのだから…。
明日がある眠り・了
※ハーレイ先生にとっては、明日が来るのは当たり前。眠ればヒョイと次の日の朝。
けれど、前の生では来るという保証が無かった朝。幸せの証は、こんな所にもあるのですv