(ゆりかごの歌なあ…)
俺にも馴染みの歌だったが、とハーレイが浮かべた苦笑い。
夜の書斎で、コーヒーを淹れた愛用の大きなマグカップをお供に。
小さなブルーに「歌って」とせがまれ、披露する羽目に陥ったけれど。
太陽がまだ高い内から、ブルーの家の庭で歌わされる羽目になったけれども。
(…俺の歌だとは知らなかったんだ…)
前の俺の、と思い浮かべたシャングリラ。
遠く遥かな時の彼方で、ブルーと暮らした白い船。自分が舵を握っていた船。
あのシャングリラで自分が歌った、遠い昔に。
眠り続ける前のブルーの手を握りながら、ゆりかごの歌を。
本当は目覚めて欲しい人だったけれど、子守唄を歌って寝かしつけては駄目なのだけれど。
ブルーは目覚める気配すらなくて、ただ昏々と眠っていたから。
深い深い眠りの底にいたから、せめてその眠りを守りたかった。
思念さえも届かない深い所で眠り続けているブルー。
悪夢など見ず、幸せに包まれて眠ってくれと。
夢の中でも、どうか幸せであってくれと。
そう願いながら、前の自分は、あの子守唄を歌い続けた。
トォニィが生まれて、初めて耳にした子守唄。
それまではシャングリラに無かった歌を。
ゆりかごの歌は今の時代も歌い継がれているけれど。
今の自分も母や父に歌って貰ったのだけれど、前の自分はそれで育っていなかった。
成人検査と人体実験で失くしてしまった、前の自分の子供時代の記憶の全部。
子守唄も、両親の顔も、育てられた家も、何一つとして思い出せなかった。
だから分からない、前の自分が聞いた子守唄。
どういう歌声を聞いて眠ったか、子守唄のメロディも、歌詞の欠片も。
けれど、ゆりかごの歌ではなかった。
あの歌を聞いてはいなかった。
白いシャングリラで長く暮らしたから、ミュウの子供たちを育てた船にいたから分かる。
何度も訪れた養育部門で、ゆりかごの歌は聞かなかったから。
SD体制の時代に相応しく誕生した歌、それが歌われる場所だったから。
アルテメシアから助けた子たちが、養父母の家で聞いた歌。
温かな家で、優しい腕の中で、繰り返し聞いた子守唄。
子供たちの心を癒すためには、同じ子守唄が要ったから。
この船にも同じ歌があるのだと、養父母の歌だと、安らぎを感じて欲しかったから。
(前の俺だって、きっと…)
白いシャングリラに流れていた歌、あの子守唄で育っただろう。
幾つも歌われた歌のどれかが、前の自分を育てただろう。
耳を傾けても、「これだ」と思いはしなかったけれど。
失くした記憶が戻りはしないかと、メロディを、歌詞を捉えてみても。
補聴器を通して前の自分の耳に届いた子守唄はどれも、記憶を連れては来なかった。
それを歌ってくれた養父母の顔も、優しかったろう、その歌声も。
何度も、何度も、聴いてみたのに。
子守唄が聞こえる時に行ったら、耳を、心を傾けたのに。
自分を育てた筈の歌。
養父母が歌ってくれただろう歌。
何処からか戻って来てはくれないかと、記憶の欠片を歌が運んでくれないかと。
幼かった日に聞いた歌なら、魂のずっと深い所に刻まれているかもしれないから。
機械の力も及ばない深み、其処に沈んで眠っているかもしれないから。
(いろんな歌を聴いたんだがなあ…)
魂に響く歌は無いかと、心を揺さぶる子守唄は、と。
何度も何度も試してみたのに、聴き入ったのに、ついに戻って来なかった記憶。
失われたままだった、前の自分の子守唄。
そういう時代が過ぎ去った後に、もう子供たちがいなくなった後に。
アルテメシアを遠く離れて流離う船はナスカを見付けた。
赤いナスカを、人類が見捨ててしまった星を。
あの星に降りて、その上で生まれたナスカの子供。
人工子宮ではなくて母の胎内から、この世に生まれて来たトォニィ。
SD体制が始まって以来、一人も無かった自然出産児。
奇跡のように生まれた命に、新しい時代を生きる子供に、今の子守唄は似合わない。
本物の母のお腹で育って、本物の父がいる子供には。
人工子宮など知らない子供に、今の時代の子守唄はきっと相応しくない。
アルテメシアで子供たちを育てた仲間は、そう思ったから。
トォニィには本物の子守唄がいいと、SD体制よりも前の時代の子守唄を、と探したデータ。
ゆりかごの歌は、その一つだった。
トォニィが一番気に入った歌で、誰もが歌って聞かせていた。
カリナも、ユウイも、若い世代も、古い世代の仲間たちまでもが。
無垢な命をあやす時には、ゆりかごの歌。
トォニィが一番好きな歌をと、繰り返し歌われた子守唄。
いつしか前の自分も覚えた、ゆりかごの歌を。
前の自分が探し続けた養父母の歌とは違うけれども、温かな歌。
遥かな昔に、人間が地球しか知らなかった時代に、地球の上で何度も歌われた歌。
優しい優しい子守唄だと、本物の歌だと思った自分。
なんと温かな歌だろうかと、優しい響きの歌だろうかと。
(だから、あいつに…)
前のブルーに届けたかった。
深い眠りの底にいる人に、前の自分が愛した人に。
覚めない眠りの中にいるなら、その眠りの海が優しいものであるように。
暖かくブルーを包むようにと、ゆりかごの歌を聞かせたかった。
眠り続けるブルーの耳には届かなくても、その身体には。
ブルーの眠りを作る身体には、優しい響きの子守唄を。
そうしておいたら、歌はブルーの身体の中へと沁みてゆくかもしれないから。
子守唄だと分からなくても、ブルーが気付いてくれなくても。
ゆりかごの歌の優しい響きと、その温かさ。
それがブルーの眠りを守って、幸せな夢が幾つも幾つも、ブルーを包むかもしれないから。
幾重にもブルーを暖かく包んで、ブルーが寒くないように。
恐ろしい夢を見ないようにと、前の自分は歌い続けた。
眠るブルーの手をそっと握って、ゆりかごの歌を。
優しい優しい子守唄を。
ブルーは知らない筈だったのに。
前の自分が何度歌っても、反応が返りはしなかったのに。
握った手からは、思念の微かな揺れさえ感じはしなかったのに…。
(…あいつ、あの歌を覚えていたんだ…)
この地球の上に生まれて来るまで。
メギドと一緒に失われた身体、それの代わりに新しい身体と命を貰った今まで。
しかも記憶が戻る前から、ゆりかごの歌が好きだったという。
トォニィと同じに母の胎内から生まれたブルー。
赤ん坊だった頃のブルーのお気に入りの歌が、ゆりかごの歌。
少し育って幼稚園に上がる頃になっても、子守唄の中で一番好きだった歌。
ブルー自身もそれとは知らずに好んだ歌が、ゆりかごの歌。
前の自分が聞いていたことは、すっかり忘れていたらしいけれど。
記憶が戻っても直ぐには思い出さなくて、今までかかってしまったけれど。
それでもブルーは覚えていた。
前の自分が歌って聞かせた、あの子守唄を。
優しい優しい、ゆりかごの歌を。
(歌わされる羽目になっちまったが…)
小さなブルーが思い出したばかりに、歌う羽目になった、ゆりかごの歌。
ブルーの家の庭で一番大きな木の下に据えられた、白いテーブルで。
白い椅子に座って、ゆりかごの歌を小さなブルーに聞かせたけれど。
それは恥ずかしかったのだけれど…。
(悪い気分じゃなかったな、うん)
もう一度ブルーに会えたからこそ、歌うことが出来た子守唄。
前のブルーに届いていたと、やっと分かった子守唄。
深い眠りの底まで届いた、ゆりかごの歌。
あの歌がブルーの眠りを守り続けた、自分の代わりに。
優しい優しい、ゆりかごの歌が。
前のブルーを守り続けた、優しい響きで、その温かさで。
思念さえ届けられなかったブルーだけれども、前の自分の歌がブルーを守ってくれた。
魂の底の底まで届いて、生まれ変わっても忘れないほどに。
ゆりかごの歌を聞きながら眠ったことを、その歌声が好きだったことを。
小さなブルーは、前の自分を育ててくれた母の歌かと勘違いをしていたけれど。
申し訳ない気もするけれども、何故だか嬉しい自分がいる。
前のブルーは、そう思うくらいに、ゆりかごの歌を気に入ってくれていたのだから。
それに守られて眠る時間が、きっと好きだったのだから。
(今の俺には馴染みの歌だし…)
ブルーが今も好きな歌なら、覚えてくれていたのなら。
いつか聞かせてやりたいと思う、今のブルーに、ゆりかごの歌を。
せがまれなくても、何度でも。
いつか二人で眠るベッドで、ブルーの眠りを守りながら。
遠い昔の思い出の歌を、前の自分が歌った歌を。
優しい優しい、ゆりかごの歌。
今の時代も残る子守唄を、優しい響きの、ゆりかごの歌を…。
ゆりかごの歌を・了
※ハーレイ先生が歌う羽目になった「ゆりかごの歌」。流石に恥ずかしかったようです。
けれど、前のブルーに何度も歌った子守唄。ブルー君にも歌ってあげないとねv