(…この家に来てからも、けっこう経つな…)
今やすっかり俺の家だ、とハーレイが見回した自分の寝室。
眠る前に、ふと思い浮かべた隣町の家。
今も両親が暮らしている家。
庭に夏ミカンの大きな木がある家で育った、子供の頃には真っ白な猫のミーシャもいた。
あの家から父と釣りに出掛けたし、母に料理も教わった。
他にも沢山の思い出が詰まった、学生時代までを過ごした家。
(教師になろう、って決めた時にだ…)
父が買ってくれたのが今の家。
「いずれ嫁さんも来るんだから」と子供部屋までついていた。
教え子も遊びに来るだろうし、とバーベキューなどが出来る庭まで。
其処に一人で引越して来て、この町で始めた今の生活。
馴染みの店などもすぐに出来たし、近所に知り合いも大勢出来た。
道を歩けば挨拶してくれる人が何人も、ジョギングから戻れば飲み物をくれる人もいる。
「丁度よかった」と呼び止めてくれて、自慢の手作りジュースの類。
梅のジュースや八朔のジュース、色も鮮やかな紫蘇ジュースなど。
「御馳走になります」と有難く飲んで、それから走る残り僅かになった道。
嬉しい心遣いのお蔭で、羽が生えたように軽くなる足。
元々、重くはないけれど。
自分のペースで楽々と走っているのだけれども、心が弾むと空を飛ぶよう。
(あいつは空は走らなかったが…)
走っていたわけじゃないんだが、と恋人の顔を思い出す。
今は小さくなったブルーを、生まれ変わって来たソルジャー・ブルーを。
何ブロックも離れた所に、今のブルーが住んでいる。
まだ十四歳にしかならない子供で、両親と一緒に暮らしているブルー。
前のブルーは空を飛べたのに、今のブルーはまるで飛べない。
サイオンを上手く扱えないから、前と同じにタイプ・ブルーでも何も出来ない。
空を飛ぶどころか心も読めない、それが今のブルー。
(…上手い具合に、俺はこの町に来ちまったんだ…)
ブルーが生まれてくるとも知らずに、それよりも前に。
まだ母親の胎内に宿りもしない内から、この町で教師になろうと決めた。
隣町でも、教師のポストはあったのに。
今の自分の経歴だったら、何処でも採用して貰えたのに。
柔道も水泳もプロの選手にならなかっただけ、学校にとっては欲しい人材。
クラブの指導を任せておいたら、素質のある生徒が在籍していれば必ず結果を出せるから。
大会に出られて賞だって取れる、プロ級の自分が才能を伸ばしてやるのだから。
(…何処でも教師になれたんだがなあ…)
隣町でも、もっと遠くにある町でも。
泳ぐのが好きだし、海辺の町に行くという選択もあった。
その道を選んでいたとしたなら、シーズンになれば海で泳ぎ放題。
泳げない季節も父に仕込まれた釣りを楽しむとか、海辺ならではの充実した日々。
なのに、何故だか、来てしまった町。
小さなブルーが生まれてくるのだと、まるで気付いていたかのように。
ただ単純に「この町がいい」と思って選んだ今の町。
家を買って貰って住んでいるのも、考えてみれば不思議ではある。
通おうと思えば通える距離だし、そうする人も多いから。
隣町から勤めに来る人も、逆に隣町へと朝から出勤してゆく人も。
(…なんだって、此処に来たんだか…)
小さなブルーと再会してから、何度も不思議に思ったこと。
どうしてこの町にやって来たのか、此処に住もうと決めたのか。
何度も何度も考えたけれど、これという理由が見当たらない。
「この町がいい」と自分が思った、それだけのこと。
特に気に入った場所があったとか、何処かに行くのに便利だとか。
そうした小さな理由さえも無い、この町に住もうと決めたこと。
(此処に、この町があったから、としか…)
格好をつけて言うのだったら、それより他には無いだろう。
SD体制が始まるよりも遥かな昔の登山家の言葉、それをもじって。
「どうして山に登るのか」と問われて、「そこに山があるから」と答えた登山家。
地球が燃え上がった時に失われた、かつての地球の最高峰。
未踏峰だった峰の頂を目指して、二度と帰らなかった登山家。
今の自分は彼のように後世に名前を残しはしないだろうけれど、彼の言葉を借りるしかない。
「此処に、この町があったから」と。
だから自分は引越して来たと、この町で教師になったのだと。
(マロリーなあ…)
確かそういう名前だったか、あの登山家は。
彼が戻って来なかった日から、長い歳月が流れた後。
別の登山家が彼を見付けた、真っ白な蝋の塊のようになってしまった彼の身体を。
彼はエベレストの頂を見たのか、そうではないのか。
それは分からないままだった。
持っていた筈のカメラは見付からなかったから。
けれども彼の言葉は残った、遥かな後まで。
地球が一度は滅びた後まで、再び青く蘇るまで。
(…そういうヤツもいるってこった)
しかし俺だって負けてはいない、と思い描いた小さなブルー。それに前のブルー。
ソルジャー・ブルーと言えば知らない人などはいない、今の世界には。
前の自分の名前も同じで、キャプテン・ハーレイの名を知らないのは幼い子供くらいなもの。
それも本当に小さな子供と赤ん坊だけ、学校に行けばすぐに教わる。
前のブルーの名も、自分の名前も。
エベレストを目指したマロリーの名前を知らない人は多くても…。
(前の俺たちの名前を知らないヤツはいないんだ)
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイ。
誰もが知っている名前。
写真も教科書に載っているのだし、ブルーの場合は写真集まである有様。
それほどに偉大なキャプテン・ハーレイ、もっと偉大なソルジャー・ブルー。
今も言葉が残る登山家より、エベレストに消えたマロリーよりも。
その自分たちが再び出会った、この地球の上で。
今の自分が引越して来たこの町で。
「此処に、この町があったから」としか言えない理由でやって来た町で。
あまりに不思議に過ぎる出来事、どう考えても…。
(偶然ではない筈なんだ…)
きっと何処かで、神の力が働いた。
神が起こしてくれた奇跡で、また自分たちは巡り会えた。青い地球の上で。
そう考えることが一番自然で、いつもその答えに辿り着く。
どうしてこの町にやって来たのか、それを考え始める度に。
(俺はあいつを待っていたんだ…)
そのためにやって来たのだろう。この町に引越して来たのだろう。
いずれブルーが生まれてくる日を待とうと、一足お先に住んで待とうと。
(そうやって待って、あいつと出会って…)
失くした筈のブルーと出会って、また始まった自分たちの恋。
前の自分たちの恋の続きが始まったけれど、今度は結婚するのだけれど。
(…それまでの間は何処にいたんだ?)
これも分からない、解けない謎。
小さなブルーも覚えてはいない、この地球の上に生まれてくる前。
何処にいたのか、どうやって長く遥かな時を飛び越え、此処に生まれて来たのかを。
(そいつがサッパリ分からないんだ…)
思い出せやしない、と頭を振った。
前の自分の最後の記憶は、死の星だった地球の地の底。
カナリヤと呼ばれていた人間の子供たち、それにフィシスを白いシャングリラに送った後。
崩れ落ちて来た天井と瓦礫、それが自分を押し潰した。
そこで記憶は途切れてしまって、今の自分に続いている。
まるで分からない、抜け落ちた時間。
地球が蘇るほどの長い長い時を何処で過ごしたのか、それが謎のまま。
(…マロリーの言葉を借りるんなら、だ…)
こう言ってみたい、「そこにブルーがいたから」と。
何処であっても、何処であろうとも、自分はブルーと共にいたのだと。
今は覚えていないけれども、ブルーがいたのだろう何処か。
そこでブルーと二人で過ごして、この地球に来たと思いたい。
何の証拠も無いのだけれども、ブルーが側にいた気がするから。
一人ではなかったように思うから。
(此処にこの町があったから、と同じで…)
そこにブルーがいたのだと思う。
何処であっても、何処にいたとしても。
(うん、きっとそうだ)
そして俺たちは地球に来たんだ、と浮かんだ笑み。
何処にいたんだか、今も謎だが…、と。
きっとブルーと離れずにいた。
何処であっても、何処にいたとしても、そこにブルーがいた筈だから…。
此処に来た理由・了
※ハーレイ先生がブルー君と同じ町に住んでいる理由。偶然だとは思えないのですが…。
考えても分からないらしい理由、きっと神様が起こした奇跡の一つなのでしょうねv